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ロードマップでわかる!当世プロセッサー事情 第376回

業界に痕跡を残して消えたメーカー 何度も窮地に見舞われたMaxtor

2016年10月03日 11時00分更新

文● 大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/) 編集●北村/ASCII.jp

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3度目の窮地に立たされる

 これで好転したかと思いきや、通算で3度目のトラブルに巻き込まれる。まずはMiniScribe絡み。MiniScribeで当時開発中だった3.5インチドライブは、Maxtorの低価格向け製品としてラインナップされることになったが、この中でも「7120AT」として知られる120MB IDEドライブの初期型はかなりトラブルが多く、何度か再設計する羽目になっている。

初期型の7120ATは黒いボディだった。これがDiamondMaxのようなシルバータイプに切り替わるのは後期型である

 ただ、根本的なところでMiniScribeの設計をベースにしているあたりが問題だったようで、実際それだけが理由ではないにせよ、MiniScribeを倒産に追い込んだ製品の1つであるため、どこかで決別する必要があった。

 結局MaxtorはMiniScribeのエンジニアリング資産を全部破棄し、改めて設計し直したDiamondMaxシリーズを1996年に投入することで、過去の負債を一掃することができたが、ここに至るまでに費やした時間とコストはバカにならないものがあった。

 またこの当時、同社は5.25インチ向けに新しくPantherシリーズを開発していたが、こちらの開発が遅れた結果Micropolisにそのシェアを奪われることになり、さらにSeagateやHPの追い上げも厳しかったため、5.25インチドライブの売上げが急速に低下した。

 開発が遅れた理由はプロジェクトマネジメントにあったらしく、Pantherの開発に携わっていたチームのエンジニア15人が一斉に辞職。結果、Pantherシリーズの投入がさらに遅れることになった。

 そして(これは予想されていたことだが)クボタコンピュータとの合弁会社であるMaxoptixは赤字を垂れ流すことになり、1991年の決算は6570万ドルの赤字となった。なお、1991年度で言えば4543万ドルの赤字である。これは同社が3月決算であることに起因する。

 マネジメント層やエンジニアリング層の流出なども始まっており、いきなりMaxtorはピンチに立たされる。

 こうした責任を取らされる形でScalise氏と、彼が招いた上級マネジメント層は辞任。取締役会議長にはMcCoy氏が返り咲き、CEOとしてインテルの組み込み向け部門副社長だったLawrence R. Hootnick氏が就いた。

 Hootnick氏はまず財務状況の立て直しを図る。Maxopticはちょうど容量を1GBに増加させた「Tahiti II」の開発が終わったところだったので、これを直ちに発売するとともに、アップルのPowerBook向けの「Apache Disk Drive」と呼ばれる外付けドライブ製品も投入する。

 その一方で同社がマレーシアに保持していた組立工場をRDRTに1700万ドルで売却。さらにシンガポールの製造工場での一時解雇などで1992年度には715万ドルの利益を出すところまで復活する。

 1992年度というのはまた売上が10億ドルを超えた年でもあり、翌1993年にはさらに好調な数字を出すが、その後また悪化する。1991~1995年の数字をまとめると以下の動きになる。

Maxtorの売上と営業利益
年度 売上 営業利益
1991年度 8億7131万ドル -4543万ドル
1992年度 10億3748万ドル 715万ドル
1993年度 14億4255万ドル 4611万ドル
1994年度 11億5261万ドル -2億5759万ドル
1995年度 9億 680万ドル -8222万ドル

 1993年度の利益は、子会社化していたStorage Dimensions Inc.の売却が大きい。売却金額は1400万ドルの現金+400万ドル相当の債券で、これで利益を確保した形だ。

 ただMiniScribeの買収と、その切り離しの処理がまずかったため、1994年度は2億ドルもの赤字を出すことになった。価格競争も激化しており、売上げも3億ドルほど落とすことになり、再びMaxtorの財務状態は悪化した。

Hyundaiが買収するも
すぐに手放す

 この状況を改善するため、Maxtorは1993年にHyundai Electronics Industries Corporation(HEI)と提携を結ぶ。

 提携では、HyundaiはMaxtorが発行済の株式のおよそ40%にあたる2000万株の普通株式を、1株あたり7.70ドル、総額で1億5000万ドル支払って買収することになった。実際には契約成立がややずれ込み、入金は1994年度になったようだが、それでもこれでなんとか一息ついたことになる。

 このタイミングで取締役会議長はHEIの取締役会議長であるMong Hun Chung氏に、CEOはHyundai Electronics America(HEA)の社長を務めていたDr. Chong Sup Park氏が兼任したが、CEO職の兼任は大変だったのか、1996年6月にはIBMのストレージ部門からMichael R. Cannon氏を引き抜いてCEO職にあてている。

 下の画像はインターネットアーカイブによる1996年末のMaxtorの会社概要ページだが、この頃はHyundaiの傘下にいた。ただ1997年にはHyundai自身が23.5億ドルの売上げに対して1億2300万ドルの赤字を出したことで、Hyundaiはこの穴埋めのために自身の保有していた株の売却を図る。1998年には総額5億7500万ドルの新規株式公開を行なっており、ここでHyundaiは保有していた株の大半を売却した。

“A whole owned, independenlty operated subsidiary of Hyundai Electronics America(HEA)”という表現から、当時はHEAの下に置かれていたことがわかる。下というよりは、HyundaiとMaxtorの連絡役をHEAが担っていた、というあたりだろうか

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