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ロードマップでわかる!当世プロセッサー事情 第364回

業界に痕跡を残して消えたメーカー 牛柄PCで一世風靡したゲートウェイ

2016年07月11日 12時00分更新

文● 大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/) 編集●北村/ASCII.jp

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低価格のお手本となった
外部調達システム

 Gateway2000は、研究開発部門を持たないため、基本コンポーネントを外部から調達することになる。これで一躍有名になったのがMicronics Computers Inc.という、1980~1990年代にDOS/V機の自作をしていたユーザーには非常に懐かしいメーカーである。

 Micronics社はマザーボードベンダーの老舗であり、特にGateway2000向けにはスペシャル版のBIOSやマザーボードを提供していたが、基本こうしたコストは(最終的にはマザーボードコストにのるとはいえ)Gateway 2000側が負担することはなかった。

 CPUはもちろんインテルから購入するだけである。ビデオカードやサウンドカード、SCSIカードなどはその時々で流行になったものを、資金に物を言わせて大量購入することで原価を低く抑えるという、低価格システムを構築するためのお手本とでも言うべきシステムになっていた。

 実際のところ、完全に自社で設計したのはケースに取り付けるロゴくらいのものだった、という話もあるくらいだ。

 余談になるが、Micronicsは1995年あたりから段階的にマザーボードの生産を縮小していく。これはインテルと競合したためだ。

 MicronicsはGateway2000以外にも数社にOEM供給でマザーボードを投入していたが、1995年あたりからインテルもマザーボード製造ビジネスに参入、Micronicsより安い価格でマザーボードを提供することで従来のMicronicsのOEM先を奪うという「えげつない」商売を行ない、これでインテルとMicronicsは一度大喧嘩になる。

 結果としてMicronicsはこの市場に未来がないと判断してビジネスを縮小してゆき、1998年にDiamond MultimediaがMicronicsの資産をすべて買収する。そのDiamond Multimediaは翌年、S3 Savage 2000で息の根を止められてしまうという、なんともやるせない話であり、当時まだ若干残っていたMicronicsユーザーが嘆いていたことを筆者も覚えている。

 閑話休題。Gateway2000は出荷数量の増加にともない、さすがに農場の納屋を改造した設備ではいろいろ立ち行かなくなった。

 1990年には隣接するNorth Sioux City(州はアイオワからサウスダゴダになった)に移転、1991年には4万4000平方フィートの工場を新設する。この1991年の売上は6億2600万ドルに上った。とはいっても、1991年の全世界のPC市場の売上は371億ドルであり、まだ小メーカーの範疇から脱することはなかった。

 翌1992年の売上は11億ドルと倍増、しかも利益を出した(1992年は少なからぬPCメーカーが損失を計上していた)ということで、営業面からすれば順調と言って良かったが、そろそろ従来型のビジネスでは限界が来ていたのも事実だった。

 まず同社は企業向けというよりは、むしろ個人向けに通販でPCを販売してきたが、これがやや飽和状態を見せ始めた。またDellなどが真剣にGateway2000を対象としたキャンペーンを打ってきて、これに対抗する必要があったこと、また急速に生産量を増やした結果として品質の問題が顕著になって来たことなどが挙げられる。

 もともとGateway2000のユーザーサポートがひどい、というのは言われてきた話である。なにしろ自身がエンジニアリング部門を持たないため、顧客からのトラブルレポートがあってもそれをOEM元、たとえばマザーボードならMicronicsに投げるだけなので、反応が非常に悪かった。

 まだインターネットなどはない(いや、あるにはあったが、一般のユーザーが簡単にアクセスできるようなものではなかった)時代ながら、COMPUSERVEのGatewayフォーラムや、Netnewsのalt.sys.pc-clone.gateway2000などでユーザーが情報交換を行なっていたが、概してサポートは褒められたものではなく、それがさらに急速に悪化しつつあった。

 これに対応すべく、1993年あたりから法人向け営業とサポートに本腰を入れるとともに、海外に活路を見出し始める。最初はヨーロッパ向けであるが、日本でも日商岩井が代理店として販売を担い、1995年には「日本ゲートウェイ弐千(株)」が設立され、直販の体制が取られるようになった。

 サポートに関しても24時間の電話サポートや、2年間の延長サポート提供、24時間以内のパーツ交換サービスなどを提供するようになる。これらの原資を確保するため、1993年には株式上場も行なっている。

日本ゲートウェイ(株)代表取締役社長のデレク・シュナイダマン氏。「ゲートウェイはアメリカで第3位のパソコンメーカー、日本でもパソコン市場の倍以上の成長率で伸びている」と、1999年のGateway Neo製品発表会でコメント

 こうした方策もあり、1994年には27億ドル、1995年には37億ドルもの売上を達成することに成功した。1999年までの間はいくつかのPCメーカーやパーツメーカーを買収した。この中には連載357回で紹介したAmiga Inc.も含まれる。また、国内だけでなく海外にも生産拠点を置いたりといったグローバルカンパニーへの変貌を見せ始めた。

 ついでに、まもなく2000年が近づくということもあってか、1998年には社名をただのGateway Inc.に変更している(公式ロゴなどは1999年に変更)。

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