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東京から1時間の人口流出都市、横須賀の憂鬱と希望 第2回

横須賀再生に賭けるタイムカプセル相澤さんと谷戸を歩く

2016年05月17日 07時00分更新

文● 大谷イビサ/TECH.ASCII.jp 写真●曽根田元

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バーテンダーからフリーペーパーの企画屋へ

 ここに至るまでの相澤さんの道のりは実に濃厚だ。正直3人分くらいの人生を20年に凝縮したくらい浮き沈みのあるジェットコースターである。

タイムカプセル代表取締役の相澤謙一郎さん

 相澤さんは、観音崎という観光地で有名な横須賀の走水(はしりみず)という地域で生まれ、大学までは地元で過ごした。子供の頃から感じていたのは、横須賀ののんびりさだった。地元について相澤さんは、「自然は豊かで、海行けば魚が捕れるし、山ではおばあちゃんが野菜を育てている。食い物はあるし、家はある、友達はいるし、なにより暖かい。(地元を出ない)マイルドヤンキーみたいなことを、30年くらい前からやってる感じです」と語る。他の都市に比べて、ニートが多いと言われる横須賀は、よく言えば「セーフティネットが充実している」、悪く言えば「ハングリー精神に欠ける」という気風があるという。

 「のんびりしていたし、町を歩けば知り合いだらけ。昔は、そんな町の雰囲気がいやだった。とにかく東京に出たかった」と語る相澤さん。高校時代からどぶ板横町に入り浸っていた相澤さんはバーテンダーにあこがれ、高校卒業後にバーに勤め始める。「大学なんてほとんど行かず、夕方5時から朝の5時までバーテンダーやってました」(相澤さん)。その後、1年間くらいお金を貯めて、どぶ板通りの裏に店を借りて、20歳になった7月に自分の店をオープン。念願のバーテンダーとして、地元に自身の店を持つに至る。

 その後、社長と縁があり、フリーペーパーの「ぱど」に就職する。「地元でバーやっていたり、バンドやってるみたいな典型的なアウトロー生活をやっていたので、会社に就職するつもりは毛頭なかったんですけど、ぱどの社長が面白い人で『お前みたいにふざけきったヤツは、1年くらいサラリーマンやって、社会を勉強した方がいい』と言われたんです」ということで、昼間は東京でサラリーマン、夜は地元でバーテンダーという二足のわらじ生活を4年間続ける。

 しかし、不摂生な生活はやはり長く続かず、限界を感じた25歳の時に自身の店を人に預けて、ぱどの仕事に専念することにしたという。そこで企画したのが地元横須賀向けのフリーペーパーだ。「横須賀は広いので、地元の人が意外と横須賀のことを知らない。だから、情報誌を作ることで、横須賀の魅力を横須賀の人に伝えたいと思った」という相澤さんだったが、不良サラリーマンの企画はすぐには認められず、「3期連続で目標達成したら作らせてやる」という条件が付いた。

 本気を出した相澤さんは目標を達成し、いよいよ地元向けのフリーペーパーを作ったが、これが大当たり。「会社史上初めて創刊号から黒字で、ドル箱になってしまった。どうしようもないサラリーマンが一気にNo.1営業マンに祭り上げられた」(相澤さん)ということで、今度は営業マンを指導する立場になったという。

ネット事業の成功と疲弊した上海時代

 全国を回ってスーパーバイザーとして指導するかたわら、新規事業を立ち上げる立場になった相澤さん。そこで出会ったのがインターネットだ。「このままではメディアは全部インターネットに駆逐される。そのときはITのあの字も知らなかったけど、勉強しなければ」と感じた相澤さんは、2004年にIT部門の課長になり、「ぱどタウン」という地域生活情報サイトを立ち上げる。

畳の上に机が並ぶ仕事場

 地域ごとのコミュニティに自分の部屋を持てるというぱどタウンのコンセプトはユーザーを魅了。会員は40万人に達し、「ぱど厨」という言葉まで生みだした。「一時期は月間3億PVにまでいって、大手の広告代理店が広告をバンバン入れてくれた。2人の部署で、めちゃくちゃ儲ってしまった。でも、なにもしないでも仕事が回るので、仕事がなくなってしまったんです」と相澤さんは振り返る。

 日本でやれることはやったと感じた相澤さんは、大手商社と合弁会社を作り、2006年から上海に赴任し、グローバルでの事業展開を目指す。今まで順風満帆だった相澤さんだったが、ここでの事業はうまく行かなかった。「リアルに香港のヤクザ映画みたいな切った貼ったの世界。従業員やステークホルダーの裏切りとかが日々あると、かなり消耗した」と相澤さんは語る。そのときの支えになったのが、以前捨て去った地元の横須賀。「今の仕事を辞めても、地元に戻ればペンキ屋、ガラス屋、二代目社長など知り合いがいっぱいいる。かっこう悪いけど、実家に戻るという選択もある」とのことで、相澤さんにとって地元はセーフティネットだった。

紆余曲折の末、タイムカプセル設立へ

 その後、就職して10年の区切りにぱどを退社した相澤さんは、2010年のiPhoneの発売を機に、知り合いのつてでモバイルアプリの世界に飛び込む。モバイルアプリは会津若松の知り合いから習得。「実は中学時代にプログラミングをやっていて、MSX2+でゲーム作っていた。それ以来だけどできるかなと思って、チャレンジしたらGUIがめちゃくちゃよくできていて、楽勝だった。昔はあんなに苦労して“写経”してたのに、おいおい、こんな簡単に作れるのかよと」と感動した相澤さんは、2010年にこれまでの元手を使ってモバイルアプリの開発会社を立ち上げる。

 しかし、立ち上げは失敗した。「入力した音声を合成して、リアルタイムで英語を翻訳できるというツール系アプリを作った。開発に300万円くらいかけたのですが、初月の売り上げは2万2000円。終わったと思った」とアプリ開発が儲らないということを痛感した相澤さんは、今度はアプリを教える側に回った。iPhoneアプリを作れば一攫千金と考える人たちは、当時周りにいっぱいいたからだ。

 こうして立ち上げた「RAINBOWAppsスクール」は10回の講座でアプリを学べるという教育事業だったが、こちらは2年で1200人の会員を集める成功を収める。相澤さんは利益を千葉大学生のベンチャーに投資し、メディアとのコラボレーションも進め、モバイルゲームやツールを出しまくった。その後、共同運営者にセミナー事業を移管し、モバイルアプリ会社として再スタートを切ったのが現在のタイムカプセルになる。

 4年前に設立したタイムカプセルの本社は岐阜市にあった。相澤氏は事業のかたわら、現地の商業高校でプログラミングを教えていたが、そこでの教え子をタイムカプセルでアルバイトとして雇うことにした。「僕も36歳になり、事業とかサービスを突然思いついちゃうということがなくなった。オレ、ジェフ・ベソスだから!みたいな気概がもうないんですよ(笑)。でも、若者ならできる。ここに賭けるしかないなと思った」とのこと。

 現在、すでに10人の教え子がタイムカプセルで働いている。大学に進学し、別の地方に行っても、遠隔でコードをガリガリ書いている教え子もいるという。「Skypeで打ち合わせし、GitHubでコードを管理し、毎日きちんとレビューすれば、まったく問題ない」(相澤さん)ということで、ネットワーク経由で仕事するノウハウを溜めてきたという。

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