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高橋幸治のデジタルカルチャー斜め読み 第14回

過去に影響を受けていない作品などこの世にあるのだろうか?

五輪エンブレムに見る、世に出る作品はオリジナルという誤解

2016年03月02日 09時00分更新

文● 高橋幸治、編集●ASCII.jp

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過去の作品の影響を受けていないオリジナルなど可能なのか?

 東京オリンピックのエンブレム問題についてはいまさら振り返るまでもないだろう。アンディ・ウォーホールに関しても多言は不要とは思うが、いちおう、ごくごく簡単な紹介だけしておく。

 ウォーホールは、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、ロイ・リキテンスタインなどと並ぶポップアート界の旗手。テレビを中心としたマスメディアが支配する戦後アメリカの大量生産/大量消費社会の中で、あらゆるモノ/ヒト/コトが表層的なイメージとして容易に複製される虚構的世界を軽やかに皮肉ってみせた奇才である。調べてみたら1987年の2月22日に亡くなっているから、来年が没後30年ということになる。

 ウォーホールによってシルクスクリーン印刷され“作品”となったエルヴィス・プレスリーもマリリン・モンローも、果てはコカ・コーラの瓶もキャンベルスープ缶も、すべては背景になにも存在しない単なるイメージの反復であり、作家の“内面性”や“精神性”といったそれまでの芸術に期待されていた「表現者の内にあふれる魂」のようなものは一切感じられない。

 ウォーホールが監督した映画「エンパイア」(1964年)は、ニューヨークのエンパイア・ステートビルを固定のカメラで延々8時間5分撮影しただけの映像で、ここにも上記のシルクスクリーン作品と同様、“鑑賞”や“解釈”への強い嫌悪と拒絶がある。

アンディ・ウォーホールが監督した映画「エンパイア」。8時間5分の間、この映像が延々と流され続ける。撮影を担当したのは「アメリカ実験映画のゴッドファーザー」と呼ばれるジョナス・メカス

 こうした一連のウォーホールの挑発の中には、同時に、“オリジナリティー”と呼ばれるものへの不快と不信があるように思う。すべては複製であり、反復であり、私たちに残され許されたことはパターンの編集によるバリエーションにすぎないという感覚……。

 ウォーホールが亡くなった1980年代は日本でもにわかにニューアカデミズムの流れの中でポスト・モダンブーム巻き起こり、フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールが提唱した「シミュレーション」(オリジナルを模倣したコピー)や「シュミラークル」(オリジナルが不在、もしくは消失してしまったコピー)といったタームが日常的に使用されるような時代であった。

 さらに遡れば写真や映画などの複製技術の登場によって芸術そのものや人間の感覚/感性がいかに変化するかを論じたドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンによる「複製技術時代の芸術」(1936年)という記念碑もあった。

 私たちはもはや“オリジナル=有価値”、“コピー=無価値”という単純な図式が成立しない情報環境にとっくの昔に移行しているはずなのだ。

 もちろん、故意の剽窃を隠蔽してオリジナルであることを詐称する行為は容認できない。しかしそこをもう一歩踏み込んで、“そもそも、先行する過去の作品の影響が微塵も混入していないオリジナルなど可能なのか?“ ということは再考されてもいいように思う。

Image from Amazon.co.jp
ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンの主著のひとつ「複製技術時代の芸術」。複製技術によるアウラの消失、崇拝的価値と展示的価値など、のちのメディア論などにも多大なる影響を及ぼした

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