発信だけでなく、受信の技術を学ばないといけない
それって勘違い? SNSの正しい認識と上手な付き合い方とは
2015年06月16日 10時00分更新
「どうでもいいこと」をあえて問題にし、ニュースにする
改めて言いたいのは、ソーシャルメディアは「社会メディア」なのか、それとも「世間メディア」なのかということである。
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「社会」と「世間」の相違に焦点を当て、「個人」の意識が希薄な日本社会を批判的に論じた阿部 謹也氏の名著。阿部氏の世間論としてはほかにも『学問と「世間」』(岩波新書)、『近代化と世間』(朝日新書)、『日本人の歴史意識―「世間」という視角から』 (岩波新書)などがある |
阿部氏の「世間とは何か」(講談社現代新書)によれば、「Social」が「社会」と訳されたのは明治10年(1877年)、さらに、社会の構成要素である「Individual」が「個人」がという訳語と共に定着し始めたのが明治17年(1884年)頃だという。
「社会」や「個人」という概念はあくまでも西欧近代の産物であり、日本にそれらが輸入されたのは明治維新以降、たかだか150年ほどの歴史しか持たない。
基本的には、ソーシャルメディアはインターネットがもたらしくれた「個人」のための発信の機会であり場所である。だから、他人に嫌悪/不快を抱かせるものや特定の人物に対する悪口雑言でもない限り、何を発信しようが自由だろう。社会的な問題に対して自分の見解を述べようが、世間的な話題をあれこれ取り沙汰しようがまったく構わない。
しかし、ソーシャルメディアが個人の自律性の上に成り立った社会メディアとしてではなく、同調圧力に満ちた世間メディアとして過剰に先鋭化/膨張化したとき、失望と危険と厄介を感じざるを得ない。
連載の発端となったASCII.jp編集部の西牧氏のソーシャルメディアに対する「得も言われぬ違和感」の原因のひとつには、きっとこのソーシャルメディアの世間メディア化もあるのではないか。
メディアが不可避的に持つ「ニュース=情報の製造」という話も結局、問題の根源は一緒である。つまり世間メディア化とは、「どうでもいいささいなことがらをあえて問題にする」という事態の氾濫であり、これも「ニュース=情報の製造」にほかならない。
日本に「社会」と「個人」の概念が移植されて150年……。「Social」の意味をじっくり再考してみる必要があるだろう。
(次ページでは、「増えすぎた情報に対してどうすればいいのか」)
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