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牽引者の実像 ― 第1回

――百度(バイドゥ)駐日首席代表 陳海騰――

日本のコンテンツが中国人の日本像を変え、知日家を生んだ

2012年08月31日 12時00分更新

文● 美和正臣 撮影●小林伸

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 中国国内で圧倒的なシェアを誇る検索エンジン「百度」(Baidu:バイドゥ)。中国に拠点を置くリサーチ会社であるAnalysis Internationalが7月18日に発表したリリースによると、中国国内での検索エンジンのシェアは、Google Chinaが15.7%なのに対し、百度は78.6%と圧倒的だ。米国NASDAQにも上場、5億人のユーザーを抱える中国のGoogleとして知られている。

 百度の日本国内への進出は2006年。約1年のβサービス期間を経て、2008年1月に正式検索サービスを開始した。日本国内でのシェアはGoogleやYahoo!という巨大な壁があるためまだまだであるが、2009年12月に「Baidu Type(ベータ版)」(2011年3月に『Baidu IME』と改称)をリリース。2011年12月にAndroid向け日本語入力アプリ「Simeji」を買収し、これを突破口に日本国内で「バイドゥ(百度)」というブランドを広く認知させようとしている。

画像は日本語版のBaidu。中国でシェアの約8割を占める検索エンジンだ

 さて、このBaidu Japanの設立や運営に深く係わっているのが駐日首席代表である陳海騰氏だ。大学では日本語を専攻し、その後来日。NTT西日本やインデックス、デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム(DAC)を経て、現在Baidu Japanの指揮を執っている。2009年には国土交通省事業「YOKOSO! JAPAN大使(観光大使)」に任命され、日中の橋渡し的な役割を果たす一方、『新華僑のスゴい仕事術』『50万円でインターネットから中国3億人富裕層と商売する方法』などの著書を発表。またテレビ東京の人気番組「カンブリア宮殿」にもゲスト出演するほか、中国とのビジネスについての講演を数多く行なうなど、企業人としての視点から積極的に発言している。今回のロングインタビューでは、知日家の陳海騰氏がどのように日本を見たのか、そして何を感じたのか、彼の半生を振り返りつつ聞いていこう。

文革の幼少期
そして改革・開放の少年期

Baidu Japanの駐日首席代表である陳海騰氏(45歳)。大学では日本語を専攻。来日して20年以上になる知日家だ

 陳海騰氏は1967年に中国福建省の厦門(アモイ)で生まれている。今年45歳。家族構成は両親と3歳年上の姉、母方の祖母という5人家族もとで育った。当時の中国は1966年から始まった「文化大革命」(1977年まで続く)が中国全土で吹き荒れた時代だ。日本人の文化大革命のイメージとしては、1億人以上の被害者と社会的抑圧・文化的混乱を起こした大変な時期と理解しているかも知れないが、陳氏によると子供の目から見た厦門の様子は多少異なっていたという。

陳:廈門は台湾の向かい側ですごくよかったですね。台湾のテレビばかり見ていました。テレビで映っている内容と、当時の中国との教育が全然違うから本当におもしろかった。本当は台湾の方が豊かじゃないかと思いましたよ(笑)。その頃の中国はテレビもあまりなくて、台湾のほうがカラーテレビもありましたしね。ウチがテレビを買ったときも、すべての人の家にテレビがあるわけではないので、夜になると周りの人がテレビのある人の家に集まって、福建省だからウーロン茶を飲みながら見ているんですよ。当時の中国はお笑いとかファッションとかが面白くなかったですね。

 父親は厦門市政府の人事局長をしていたため、庶民に比べるとやや広い家に住んでいたという。早い時期にテレビを所有しているというのも、その父親の力というものがあったのかも知れない。
 そんな陳氏の学生時代は「子供の時は悪戯っ子だったけれど、学校のテストはちゃんといい成績をとれるようにしていた」というしっかり者だったようだ。

陳:小学校から中学校に上がるのに、統一テストがあるんです。地元では一番有名な中学校を受験しました。80年くらい歴史がある「双十中(ソンスー)」というところです。設立が10月10日だからこういう名称なんです。ちなみに一般の中学校は入試はありません。
 当時の「双十中」は「廈門市第8中学校」という名称で「重点学校」(教師、設備などが充実しており、国から人材育成のために指定されている学校)でした。生徒は中学校の時は1学年12クラスですね。1学年が600人だから、1800人くらいの学生がいました。中高一環なんですが、高校は1学年6クラスに少なくなります。中学校から高校に上がるときにテストがあって、外の学校からも生徒が入ってくるから、もう1回選別されるんです。(高校で)元の仲間は4分の1くらいになります。小学校は成績トップ、中学校・高校の普段のテストは10番前後で、一番肝心なテストでは1位をとっていました。

陳海騰氏の母校である「双十中」のHP

 優秀な成績を修めていたが勉強一辺倒ということではなかったようだ。

陳:昔は勉強ができて大学にさえ入れば、公務員になれました。みんな大学を目指しましたよ。いい仕事を見つけるには大学に入るしかない。
 中学や高校ではクラブはなかったのですが、スポーツは好きなので、高校3年間は学校が5時に終わったあとに2時間くらい、少林寺拳法の道場に通っていました。男5人女5人で楽しかったですね。学校の先生がボランティアで教えていたんです。少林寺拳法は流派があるんです。北の方は足を使い、南の方は手を使う。僕は北の流派です。こんな(中腰)になって15分静止とかやって体を鍛えたので、3年間1回も風邪をひくことはなかったです。成果はあるんです。
 あとはウチの学校は自発的にいろいろやっていて、私は日本で言う学級委員で音楽担当をしていました。テストのときなどは、仲のいい子を集めて家でパーティーをやりました。貧乏だからみんなで何か買ってきて一緒に料理を作ったり、テープレコーダーをかけてダンスをやったりとか。カラオケがなかったときですから。
 私は廈門だけど、他の市の高校と交流したりもしましたよ。私の発案でクラスの50人と福建省の高校と交流したり、パーティーをやったりしました。学校に一泊するとか、そういった交流を通してコミュニケーション能力をつけていきました。高校からそういうトレーニングが好きでしたね。

 陳氏が5歳のときである1972年に田中角栄、周恩来両首相による「日中国交正常化」、10歳である1977年には「文革」が終了し、翌1978年からは鄧小平による「改革・開放」政策が開始された。同年には日中間で「日中平和友好条約」が結ばれている。多感な時期に、まさに中国における激動の時代を体験してきたわけだ。陳氏は過去と現在の厦門を比べてこう語る。

陳:今の厦門は子供の頃の風景はまったく残っていないですね。ちょっと寂しいかな。でも何でも進化していくから。十数年前は廈門の人口は36万人でした。今は240万人くらいでしょう。廈門は島なので、橋を作って大陸と繋がりました。地理的にも厦門は台湾と近い。当時は台湾との関係が悪く、いつ戦争になるのかわからない。中国では最前線で、子供の頃は砲撃があったりしました。台湾が領有している金門島とは3~4kmぐらいしか離れていませんからね。月曜、水曜、木曜と廈門から砲撃があるんですよ。台湾側は火曜、木曜、土曜に砲撃する。ちゃんと何か話し合って、お互いに大砲を打っていました。ただ、砲撃と言っても空砲です。子どもの時まではそういうのがありました。なくなったのは80年代。厦門が経済特区になってからです。

廈門市人民政府のHP。厦門と言えば、明の時代、台湾からオランダ軍を追い出した鄭成功(ていせいこう)が有名。深圳、珠海、汕頭、廈門は1979年に経済特区に指定された

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