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渡辺由美子の「誰がためにアニメは生まれる」 第24回

人は必ずブレるもの 「UN-GO」脚本・會川昇氏が語る【後編】

2011年12月26日 16時00分更新

文● 渡辺由美子(@watanabe_yumiko

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何が“上”で何が“下”か


―― 會川さんご自身は、安吾のそうした思想になぜ共感するのだと思いますか。

會川 もともと僕自身が、周りが「良い」という価値観にやみくもに合わせるみたいなことができない性分ではあるんですね。

 先にお話ししたように、高校生の時に脚本家になったこともあって、大学は必要ないと思って、うちの高校からはほぼ全員が進学するのに自分は行かなかったりとか(前編)。“その環境にいる人たち”から見ると、NGと思われることを結果的にしてしまいがちなんです。


―― 周囲の価値観に合わせるということをしないわけですね。

會川 そうですね。脚本家になってからも、当時の映像業界の常識には合わないことをしていたのかなと思います。僕はデビューしたときから、脚本ならどんなジャンルでも、いわゆる普通のドラマでも映画でも書きたいと思っていたんです。当時は脚本家になる入り口が特撮とアニメだったわけですが、仕事を続けているうち、ドラマとか映画のお話をいただく機会も出てきました。

 ところが、先にアニメと特撮の仕事があると、なかなか新規の依頼に時間が取れないわけです。すでに締め切りがある仕事を急いでやるので、いつ決まるか分からない映画の企画書よりも、旧知の付き合いを優先してしまう。でも、その態度が先方に分かってしまうんですね。そうすると、「ああ、君は何、“上”に行く気がないんだ」なんて言われたりして。


―― “上”?

會川 当時の映像業界の感覚でいくと、アニメや特撮は“踏み台”で、ドラマや映画の脚本家になることがゴールだと思っている人がたくさんいたわけです。でも僕は、アニメや特撮に食わせてもらっている。今でも、どっちが良いとか悪いとかって絶対思わないんだけど。


―― よそから、勝手に上下のジャッジをされるわけですね。

會川 そうした上下は、現在でもある場所にはありますね。残念なことに特撮・アニメ業界の中にもあるんですよ。アニメ出身の脚本家だから、ドラマから来た人が書く脚本に比べて薄いんじゃないか、みたいな批判が。業界内でも、“よその業界から連れてきた人のほうがすごいんじゃないか?”って内心思っている人もいます。アニメファンですらそう言う。

 本来、脚本家というのは技術職なので、その技術をどれくらい習得しているかの違いでしかない。どこの出身でも、誰がどんな経験を元に書いていても、出身や経歴で計れるものではないよと僕なんかは思うわけですが。


―― 個人的な話で恐縮ですが、私も90年代に一般誌に書き始めたときには、「アニメ誌出身」であることに対してそうした偏見を感じたことがありました。それに加えて自分の中にも、アニメ誌出身だと通用しないんじゃないか? と気後れする気持ちもありました。

會川 それは他人や自分の心の中にある偏った見方、つまり「偏見」だと思うんですよね。「~だからダメだ」というのは他人や自分が勝手に決めているだけで、本当は上下なんてないと思います。

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