フジタ 梶川社長:自分には製造業合ってないのでは?から始めたミュージアムや哲学カフェの運営
続いて変革のあゆみを振り返ったのは、フジタの社長である梶川氏。フジタは富山県高岡市の総合金型メーカーであり、金型の開発から加工までを一気通貫で手掛けている。2025年に50周年を迎える、社員17名の町工場だ。
梶川氏の場合は、元々はアパレル業界で働いていたが、20代の頃に強制連行で工場に戻され、2010年から代表取締役を務めている。「当時は3日で辞めたいと思ったが、結局30年以上いる」と苦笑した。
まさに工場のイメージ通りだった「おっちゃんたちがタバコを吸いながらパチンコの話をしている」という現場が嫌だった梶川氏。まずは、5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)活動や社内OJT、有資格取得支援、ISO9001取得など、製造業としての環境づくりや教育から始めた。
その後、リーマンショックで手痛いダメージを受けた後、梶川氏は、「何か新しいことをやらなきゃいけない」という漠然とした思いでイノベーションスクールを受講する。同スクールで、「製造業や金型、今の環境は合ってないのでは?」と自身を掘り下げていたった結果、行き着いたのがミュージアムの運営だった。
クラウドファンディングを活用して、第二工場をリノベーションし、2016年に“メタルアート”のミュージアムである「FACTORY ART MUSEUM TOYAMA」を開設。オープニングセレモニーをして、メディアも呼んだが、いざ蓋を開けると富山の工場団地には誰も来ない。それからは、セミナーや企画など、やれることは全部ミュージアムで開催して、認知されるための活動を3年ほど続けた。
ミュージアムが落ち着き、さらに“新しいことをやらなきゃ”と始めたのが「哲学カフェ」である。たとえば“お金ってなんだろう?”といった形で、普段考えないことを掘り下げ、議論から創出につなげるトレーニングの場であり、2019年末から70回以上開催してきた。社内でも、年1回3時間かけて哲学カフェを開いて、自立型の人材育成につなげている。
こうした町工場らしからぬ施策に平行してIT化も推進してきた。新しいサービスを知ったらひとまず1アカウント作って試してきた。コロナ禍では、VR工場見学を開始したり、工場のIoT化に取り組んだ。2022年には小さな旋盤加工の会社を買い取り、これまで実践してきた5S活動やDX推進をアウトプットすることも始めた。
「ミュージアムを立ち上げたことは、色々なジャンルの人達と知り合うきっかけになった。そういった人達の知恵やネットワークを生かして、(社員が複数の業務をこなせるようにする)“多能工”から“多脳交”へ移行することを目指している。富山県のどこにあるか分からないようなミュージアムで、いろいろなイノベーションを立ち上げて、結果、関係者が楽しく過ごせたらいいなと思っている」(梶川氏)
発想の転換が社長就任の踏ん切りになった新本氏、居場所作りのためにITを武器にした梶川氏
最後に、モデレーターを務めたウイングアーク1stのデータのじかん 主筆である大川真史氏から、質問が投げかけられた。ひとつめは「最も苦悩・葛藤したこと」だ。
新本氏がもっとも苦しんだのは、社長を就任するかどうか悩んだ10年間である。父親からは「会社を継がなかったら家族はどうなるんだ」と半ば脅しのように迫られ、ドラマのようなドロドロした場面も経験したという。「社長になることも糧にすれば、自分の人生も豊かになるのではないかと発想を切り替えたのが大きかった」と語った。
梶川氏は、首根っこを掴まれ会社に入ったあと、すぐに父親が入院。荒れてしまった現場で職人からキツイ言葉を浴びせられるが、なにより逃げ場がなかったが辛かったという。「ただ、現場を見渡すとまだパソコンがない時代。ITを身に付ければイニシアティブが取れるのはないかと、居場所作りのためにパソコンに触れるようになった」と振り返る。
続いては、「社長就任後の会社のもっとも大きな変化」だ。
新本氏が実感したのは、社員が笑顔で仕事をするようになったこと。IT化で社員の連携がスムーズになったことで、助け合えるようになったことが大きかったという。そんなトミー機械は、2024年1月、「トミーキカイ」に社名を変更する。機械だけではなく機会も提供する企業を目指すべく、テレビプロデューサーであった妹も加わり、新規事業の立ち上げを予定している。
梶川氏は、旋盤加工のレイズアドヴァンスを買収することで、週に2回会社にいない日が出来たことで、「社員が自立的に育ってきた」という。「これにより、これまで以上に大きな変化が起こるのではないかと期待している」と締めくくった。