若手ディープテック研究者の育成を支援する産業技術総合研究所(産総研)の「覚醒プロジェクト」。この連載では、2023年度の覚醒プロジェクトに採択された研究者の研究内容を紹介する。
今回は、東京大学生産技術研究所特任助教の小島 駿さんだ。
- 研究実施者:小島 駿(東京大学大学院)
- 研究テーマ:セマンティック・セキュアな通信プロトコル設計
- 担当PM:金崎朝子(東京工業大学 情報理工学院 准教授)
5G対応スマートフォンはもちろん、Bluetoothを利用したヘッドホンやマウス、家庭や職場などでの無線LANの利用など、我々の日常生活のいたるところで、無線通信が利用されている。世界の無線通信のデータトラフィックは年々増加しているが、利用可能な電波の帯域は有限であり、今後の無線通信データトラフィックの増加に対処するには、通信速度をさらに向上させる必要がある。しかし、雑音のある通信路において、正しくデータを伝えることが可能な通信効率(通信容量)には、シャノン限界と呼ばれる限界があることが明らかにされている。これまで、無線通信技術はいかにシャノン限界を達成するかが課題とされており、最新の5Gでは、特定の条件においてシャノン限界を達成するLDPC符号などが採用されている。
情報が意味する内容を伝えるセマンティック通信
ただ、無線通信データトラフィックは今後も増加していく。来たるべきSociety 5.0の実現に向けた無線通信の発展には、シャノン限界の打破が不可欠であり、新たな無線通信パラダイムが模索されている。その有力候補の一つが「セマンティック通信」だ。セマンティックとは「意味の」という単語であり、従来方式の通信が情報を符号化して送り、受信側で復号して元のビットデータをそのまま受け取る仕組みなのに対し、情報が意味している内容を伝える通信である。
例えば、「An automobile is parked over there.」(あそこに車が止まっています。)という情報を送る際に、従来方式ではその文字列をそのまま送るが、セマンティック通信では、送信時に機械学習(ディープラーニング)によってその文章の特徴を抽出し、それを符号化して送る。受信側では再び機械学習を用いて特徴から同じ意味となる文を復元する。復元される文章は例えば「A car is parked there.」(そこに車が止まっています。)などとなる。文章自体は同じではないが、大事なのはその意味であり、意味が正しく伝わればよいというのが、セマンティック通信の考え方だ。
技術的な仕組みはまったく違うが、人間の目には気付きにくい情報を切り捨てることで非可逆圧縮を行なう、JPEG圧縮と考え方は似ている。ビットデータをそのまま符号化して送るのではないセマンティック通信では、シャノン限界を超える効率での通信ができる可能性があるのだ。
「セマンティック・セキュアな通信プロトコル設計」という研究テーマで2023年度の覚醒プロジェクトに採択された東京大学生産技術研究所特任助教の小島 駿さんは、セマンティック通信の利点についてこう説明する。「セマンティック通信は、厳密には情報理論的にシャノン限界を超えられるわけではありませんが、意味のある通信を行なう中で、従来のシャノン限界とされてきた伝送速度を上回ることはできると考えられています」(小島さん)
セマンティック通信の課題、セキュリティ問題を解決するアイデア
もちろん、送金のやりとり(トランザクション)など、送信データと受信データがぴったり一致しなくては困る用途もあるため、すべての通信がセマンティック通信に取って代わるわけではない。小島さんは、セマンティック通信が向いている分野として、自動運転車の通信を例として挙げた。「自動運転車は搭載しているカメラやレーザーセンサーなどで周辺状況を感知し、それをAIで処理してハンドルを切ったり、停止したりといった判断をします。そうしたセンサー情報をコンピューターに無線で送る際、カメラで取得した画像情報をすべて送るのではなく、そこから得られた意味情報のみをコンピューターに送ってコントロールするといったシチュエーションには適しているでしょう」。
このように、セマンティック通信にはシャノン限界を打ち破る大きなポテンシャルがあるものの、特徴抽出および復元において機械学習を用いるため、盗聴者が同じような機械学習による復元ネットワークを持っていた場合、従来の通信よりも高い確率で情報を復元できてしまうという弱点があった。そこで小島さんが覚醒プロジェクトで取り組んでいるテーマが、セマンティック通信の最大の課題であるセキュリティ上の弱点を解消する新しい通信プロトコルを設計しようという野心的なものだ。
小島さんが、セマンティック通信のセキュリティを高めるために考案したアイデアが、伝搬互恵性と呼ばれる無線伝搬路の特性を活かして、物理層秘密鍵を生成・共有するというものだ。通常、AからBへ無線通信を行なう場合、電波はビルや地面などに反射されたり遮られたりして、複雑な経路を通って届くが、電波が届いたBがAに向かって電波を送ると、同じ経路を逆に辿ってAに届くという性質がある。この性質を伝搬互恵性と呼ぶ。この互恵性を使って秘密鍵を生成することで、AもBも同じ秘密鍵を持つことができる。この方式が優れている点は、秘密鍵自体をAからBに送る必要がないことである。もし、AとBの通信をCが盗聴したとしても、Cの位置はAやBと異なるため、電波の経路も異なり、同じ秘密鍵を手に入れることはできない。
「この物理層秘密鍵は、電波が伝わる経路から生成しますので、伝搬経路位置に依存することが特徴です。一般的に電波の半波長以上の距離が離れれば、まったく異なるものになります。2.4GHz帯なら数cm離れれば盗聴は難しくなります」(小島さん)
セマンティック通信のセキュリティを高める方法として、セマンティック特徴を抽出するネットワークを複雑化する手法も提案されているが、この手法にはシステム全体の計算量が増えるため、高速・大容量伝送が困難になる欠点がある。そこで小島さんは、送信情報からの意味抽出(セマンティック特徴抽出)とこの伝搬経路によって生成される秘密鍵によるランダム化(暗号化)を符号化用AIで同時に実行する手法を考案した。これにより、通信の高速・大容量化と高い安全性を両立させることができるのだ。
次世代無線通信の礎となる研究を
小島さんの覚醒プロジェクトにおける目標は、「物理層秘密鍵を用いたセマンティック通信プロトコルを構築し、高速通信と複数の盗聴者に対する漏洩情報の抑制、高い情報圧縮効率を同時に実現する」ことである。2023年度の覚醒プロジェクトは2024年7月までだが、終了後も研究を続け、国内外の学会や国際的な論文誌への投稿も予定しているとのことだ。
覚醒プロジェクトでは、産総研が所有しているスーパーコンピューター「ABCI(AI橋渡しクラウド)」を利用できる権利が研究実施者に付与される。小島さんも今回のプロジェクトにおいて特に計算資源を必要とする、秘密鍵と情報抽出を同時に学習させるネットワークの学習に、ABCIを活用する予定だ。
プロジェクトの現状について、小島さんは次のように説明する。
「まず、従来方式についてのサーベイを実施し、開発中の新しい手法と比較するために従来方式の実装を完了しました。今まさにこの新しい提案手法、秘密鍵を組み込んだ学習をさせるプログラミング実装を開始した段階です。今のところ予定通りに進んでいます」。
ネットワークの学習が完了したら、シミュレーションによって従来方式との比較検討と定量的な評価を実施する予定となっている。
最後に、小島さんに「覚醒」後の将来の目標を聞いたところ、次のように答えてくれた。
「将来的には、無線通信の分野に機械学習を活用した最先端技術を導入し、6Gや7Gといった次世代無線通信技術の礎となるような研究開発ができればと考えています」
■覚醒プロジェクト 公式Webサイト
http://kakusei.aist.go.jp/
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