「お城探検」の第4回は、筆者の故郷「大阪」の城、天下人・豊臣秀吉の居城としても知られる大阪城にやってきた。子供のころから、学校の遠足で何度も訪れ、公園内の食堂で食べたカレーライスは、卵を落としてソースをかけたものだが、いまだに一番おいしいカレーとして記憶している。社会人になって最初は、産経新聞で記者をしていたが、大阪社会部の時は、大阪府警本部の捜査一課担当の記者をしていたので、大阪城の向かいにある府警本部の記者クラブに詰めて、桜の季節には、先輩たちと花見をしたのが懐かしい。
実は、現在86歳の母親が、17歳から20歳まで、大阪城で、天守閣のすぐ前にあった売店で働いていた。今から70年ほど前の昭和28年(1953年)〜31年(1956年)ごろ。うどんとか雑炊などの食べ物とおみやげを売っていた、という。まだまだ、戦争の後がそこかしこに残っていた。黒門市場に寮があり、売り子たちはよく、気晴らしに、天守閣の中でいろいろな流行歌を歌うこともあったそうだ。
天守閣は、豊臣時代・徳川時代に続く3代目。92年前の昭和6年(1931年)、市民の寄付金によって建造された。もっとも古い「復興天守」で、鉄骨鉄筋コンクリート造。国の登録文化財にもなっている。今年は関東大震災から100年。その8年後に、当時、最新の技術を使って建てられた近代建築ともいえる。
「復興天守」とは、天守があった城ではあるが、デザインや仕様が過去に実在した天守を完全にトレースしたものではない天守を言い、観光資源や博物館などとして建てられたものが多い。ほかの天守でいえば、江戸時代から残っている「現存天守」は12棟あり、国宝5棟、重要文化財7棟を数える。ほかにも、古写真や図面などから、かつての天守を忠実に再建した「復元天守」は、材料や工法も当時のものにこだわり、外観や内部を再現したものを言い、ほかにも、存在が確認できないまたは、特定に至らない状態で建てられた「模擬天守」や「天守閣風建造物」などがある。
今回の記事では、天守閣の歴史にこだわって、大阪城の魅力に迫りたい。
天守閣は、98年前に開催された「大大阪記念博覧会」がきっかけで生まれた大阪全盛時代の象徴
ウェブサイトやアプリでお城ファンをつなぐサービスを展開する「攻城団」の発表した、全国のお城の入城者数(入場者数・観光客数)調査レポートの2023年版によると、「2022年(1月〜12月)」もしくは「令和4年度(2022年4月〜2023年3月)」の数字で、大阪城は、有料・合算の入城者数の3位に入っており(大阪城は天守閣が有料で、その入場者数になる)、年間の入場者数117万4千人で、昨年対比で242.3%と大きく回復している。
*入城者数のカウント方法についてはそれぞれの城ごとに異なっており、有料入城者数(=チケット販売数)のみの城もあれば有料と無料を合算して発表されている城もあり、無料で見学できるため推計で発表されているところもあり、この数字は攻城団の調査によるものである。
大阪城の天守閣が出来たきっかけとなったのが「大大阪記念博覧会」。1925年(大正14年)3月15日から4月30日まで、同年の大阪市の市域拡張による大大阪の実現と、大阪毎日新聞15,000号を祝賀して、大阪市で開催された博覧会である。市域拡張によって、大阪市の人口が139万人から203万人に増加して、東京市の199万人を抜き、日本一になった。世界でもニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリに次ぐ6位となり、当時は、大大阪時代と呼ばれたものだ。関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日に起きており、東京など関東地区が復興に努める中、大阪の存在感が増した時期でもあった。
鉄筋コンクリートによる建造物は明治には採用され、大正にかけて徐々に増えていたが、関東大震災によって、その耐火性や耐震性で多く採用されることになり、大阪城の天守閣は、関西では、早い時期の大規模な鉄骨鉄筋コンクリート造の「ビル」となった。
博覧会は、天王寺公園が第一会場で、大阪城が第二会場となった。一か月半の会期中に190万人が訪れたが、第二会場の大阪城には、今の天守閣が建つ「天守台」に、「豊公館」と言うパビリオンが建ち、70万人が訪れた。この人気を見た後藤新平(第7代東京市市長で各大臣を歴任。関東大震災時の第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した)が天守閣の再建を語ったといわれる。当時の大阪市長、關一(せきはじめ)が、天守閣再建を決断した。
關市長は、昭和天皇の即位の大礼の記念事業として天守閣の再建を提案し、大阪市会の承認を得て、大阪城の紀州御殿に司令部を置く陸軍第4師団とも協議し、第4師団の新たな司令部を大阪城内に大阪市が建ててくれるならばと了承された。市民から寄付を募ったが、住友財閥の住友友成からの25万円など、7万8250余口150万円が集まった。そのうち47万円を建設費に充てて、1931年11月に天守閣は竣工された。他には、今も残る第4師団司令部(MIRAIZA OSAKA-JO(ミライザ大阪城))の建築費に80万円使われ、本丸・山里丸・二の丸の一部の大阪城公園化整備費にも使われたと言う。
ほかにも、大阪では、中之島にある大阪市中央公会堂は、明治44年(1911年)に、株式仲買人の岩本栄之助氏が、当時の100万円(父親の遺産50万円に自分の手持ち財産を加えた)を寄付したことから、そのお金を活用して建てられていたり(開業は大正7年、1918年)、淀屋橋も、江戸時代、橋の南西に住んでいた豪商・淀屋が米市の利便のために架橋したのが最初だったり、公金ではない住民パワーを感じさせる事例が多い。
豊臣秀吉が天下人の居城として建てるも、大坂夏の陣で落城し、2代将軍・徳川秀忠が旧大坂城を埋めて建て替えたものが今、残っている
江戸時代、またはそれ以前の創建当時の姿を修復などしながら留めている「現存天守」は、姫路城や松本城などの国宝五城と重文七城の合わせて12城しかない。火災や戦災で失われたものもあるが、1873年(明治6年)に明治政府が出した廃城令で多くが失われた。幕末には、170の城があったが、必要なものは陸軍省の管轄となり、残りは「廃城」として大蔵省が売却した。売却された城の多くは解体され、材木や薪などとして使われた例もある。1890年(明治23年)になり、陸軍省用地の中でも不用な城について、旧形を保存し、後世に伝えるなら歴史上の沿革を示す一端になるとして、藩主などに売り渡すことが認められた。文明開化に翻弄されながらも、一部の城は生き残ったのだ。
大阪城の地には、元々は石山本願寺と言う大寺院があり、石山合戦と呼ばれる10年に及ぶ激しい戦いを経て、天正8年(1580年)、織田信長に敗れた。織田信長が本能寺に斃れた後、豊臣秀吉が、1583年(天正11年)から15年以上をかけて築いたのが最初の大坂城。徳川家康によって、豊臣家が大坂冬の陣・夏の陣で敗れてからは、2代将軍の徳川秀忠が、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて、旧大坂城を埋め立てたうえ、実質的な新築として建て替え、幕府直轄の城となった。現在見ることのできる大阪城は、この時のものだ。豊臣時代の遺構は、現在ほとんど埋没している。現在の大阪城は「阪」と表記するが、江戸時代までは「大阪」よりも「大坂」と表記することが一般的だった。
天守も、豊臣秀吉が建てたものと、徳川秀忠が建てたものは別々で、位置も少しずれている。江戸時代には、大坂城は、よく知られているもので3度、大きな落雷の被害を受けているが、二度目の1665年(寛文5年)正月2日、落雷を天守北側の鯱に受けて天守を焼失した。この天守は39年の短命だったことになる。そして、昭和6年(1931年)に、残った天守台に、復興天守として三代目が誕生した。
太閤さんが活躍した桃山時代の意匠を再現した昭和の名建築としての天守閣は、バリアフリー、耐火性、耐震性でも先頭を走っていた
さて、大阪城の復興天守は、復元天守ではない。現在立っている場所は、徳川時代の天守台の上なのだが、意匠は、「大坂夏の陣屏風」(当時は黒田家蔵。現在は大阪城天守閣所蔵)に描かれた豊臣時代の天守閣が建っている。
当時の最新技術を駆使した鉄骨鉄筋コンクリート造、エレベーター付きの復興天守はきわめてユニークな近代建築、「ビル」ともいえる。最上階は展望台、下の階は博物館という形式は大人気を博し、この後に続く復興天守や模擬天守に大きな影響を与え、各地で模倣された。今は、昭和の名建築として登録有形文化財になっている。
昨今は、当時の城を、極力同じような素材、造りで復元する「復元天守」の意向が強く、更には、木造にこだわった、大洲城(愛媛県)や白河小峰城(福島県)といった「木造復元天守」もあり、名古屋城など、いくつか計画中のものもある。
しかし、これらの城は、当時を知るには伝わりやすいが、耐震性、耐火性に問題があり、更にはエレベーターの設置が難しく、バリアフリーの観点からは厳しい。観光的には、やはり、窓が大きい方が天守閣の上からの眺めの方が観光客には喜ばれるだろう。復興天守の意義は今一度、見直されるべきだと思う。
設計は、大阪市土木局建築課の古川重春、意匠は天沼俊一、構造は波江悌夫と片岡安、施工は大林組が担当している。当時は、城郭建築の研究は進んでおらず、特に、徳川時代の大坂城の下に埋もれた豊臣氏大坂城天守に関する資料はほとんどなかった。そもそも、徳川大坂城の下に豊臣大坂城が眠っていることすら知られていなかったのだ。古川は全国の桃山時代建築や城郭建築を調査、研究し、黒田家の「大坂夏の陣図屏風」に描かれた天守をもとに全体の構成から細部にいたるまで、新たに、設計をおこなった。
5層目の虎のレリーフは、竹内栖鳳が狩野永徳・山楽の描いた虎を参考に下絵を描いたものである。内部は、豊臣秀吉を始めとする大阪ゆかりの偉人や、大阪の歴史を中心とした歴史博物館になっている。天王寺公園内にあった大阪市立市民博物館を閉館し、その資料を天守閣に移して郷土歴史館として開館した。
天守閣は人気を集め、戦況の悪化で入場が規制されるまでは年間で90万人を超える入場者数を誇った。そして、昭和天皇による玉音放送が流れ終戦した日の前日、1945年(昭和20年)8月14日、第8次大阪大空襲により天守閣も、1トン爆弾の至近弾を受けた。南西部の天守台石垣は傷つき、北東部の天守台石垣にも大きなズレが生じた。しかし、天守閣本体には大きな被害はなかった。
戦後は、1949年(昭和24年)に天守閣の一般公開が再開された。1995年(平成7年)12月から1997年(平成9年)3月にかけて、老朽化が進んだこともあり、「平成の大改修」が行われた。構造は阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。
また、中身も大きく拡充され、身体障害者用トイレが備えられ、従来のエレベーターのほかに、身体障害者や高齢者向けにエレベーターが小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられた。透明なエレベーターが天守閣の横に加わり、最上階までスムーズにいけるようになった。デザイン的にも秀逸だ。総費用は展示関係の費用も含め約70億円、「昭和の天守閣復興」と同じく市民の寄付も集まり、費用に貢献した。
8階建ての傑作ビルは、二重らせん階段や豊臣時代に想いを馳せる充実の展示まで楽しさが詰まっている
天守閣の内部は8階建て。エレベーターは新設されたものを加えて2基あり、1基は1階から5階まで、もう1基は1階から8階まで行くことができ、身体障害者や高齢者は申し出れば8階まで行くことができる。
8階は展望台になっていて、廻縁となっており、あたかも天下人気分で、高欄を巡って360度の景色を楽しむことができる。また、車いすでの通行ができるようにもなっている。7階は、豊臣秀吉の一生が分かる展示室。 6階は回廊となっていて立ち入りできない。 5階は、大坂夏の陣を紹介する展示室となっている。
4階と3階は、特別展・企画展会場。3階には、豊臣大坂城復元模型(本丸のみ)、徳川大坂城復元模型が並んでいて、比べると如何に変わったかがよくわかる。原寸大復元の黄金の茶室などがあり、図録販売所も設置されている。 2階は、お城の情報コーナーになっていて、パネル展示、レプリカ展示、兜・陣羽織の試着体験コーナーなどがある。 1階は、天守閣の入口で、インフォメーションカウンター、ミュージアムショップ、シアタールームなどがある。
2022年に大阪城天守閣館長に就任した宮本裕次さんは、学芸員、主任学芸員、研究副主幹、研究主幹などを歴任し、コロナ禍の就任となったが、復興天守としての大阪城天守閣の魅力と意味について、コメントをもらった。
「豊臣秀吉が建てた初代の大坂城天守は、慶長20年(1615)に起きた大坂夏の陣によってわずか30年で焼失し、徳川幕府が築いた二代目の天守は、寛文5年(1665)の落雷により39年で焼失しましたので、以来、昭和6年(1931)に今の天守閣が復興されるまで、大阪城に天守はありませんでした。幕末まで大坂城は徳川幕府の城、明治維新後は陸軍の本拠地でしたから、サムライの世が終わっても庶民にとって大阪城は相変わらず「お上の城」だったのですが、昭和6年、266年ぶりに姿をあらわした大阪城天守閣は、大阪城の歴史にとって初めての「市民の城」でした。
復興天守閣は鉄骨鉄筋コンクリート造です。現代の感覚からすれば、なぜ木造としなかったのか、となるのですが、すぐれた材料を常に求めてきた日本建築の歴史、それまでの天守がたどった運命、大正12年(1923)発生の関東大震災が引き起こした建物の損傷や火災への反省などを踏まえ、当時の言葉でいう「完全なる強度」が最も重視されたのです。とはいえ、外観の意匠は豊臣秀吉創建時の時代的特徴を再現すべく研究が重ねられ、成果が反映されました。これが、のちの城郭研究の進歩に大きく貢献しました。
昭和の大先輩たちの思いが詰まった復興天守閣は誕生から90年をこえ、すでに豊臣期、徳川期ふたつの天守の寿命を足した年数よりも長くなりました。平成9年(1997)には国の登録有形文化財となり、今や誇るべき文化財です。これからもみなさまには、大阪城そして大阪城天守閣に常に生命力を与え続けていただきたい、と願っています」
大坂城跡は、特別史跡に指定されており、重要文化財は、小天守台の金明水井戸屋形を含めて、全部で13棟ある
大坂城跡は、特別史跡に指定されており、大阪城天守閣も登録有形文化財だが、重要文化財は、小天守台の金明水井戸屋形を含めて、全部で13棟ある。
大手門 - 寛永5年(1628年)
塀 3棟(大手門南方、大手門北方、多聞櫓北方)
多聞櫓(渡櫓、続櫓) - 嘉永元年(1848年)
千貫櫓 - 元和6年(1620年)
乾櫓 - 元和6年(1620年)
一番櫓 - 寛永5年(1628年)
六番櫓 - 寛永5年(1628年)
焔硝蔵 - 貞享2年(1685年)
金蔵 - 宝暦元年(1751年)
金明水井戸屋形 - 寛永3年(1626年)
桜門 - 明治20年(1887年)
また、2015年からは、大阪府市が策定した「大阪都市魅力創造戦略」の中で、民間主体の事業者が公園全体を総合的かつ戦略的に一体管理するパークマネジメント事業(PMO事業)が導入され、大阪城パークマネジメント株式会社が大阪城天守閣と大阪城公園を管理している。ミライザ大阪城、ジョー・テラス・オオサカ、クールジャパンパーク大阪などのたらしい施設も人気を集めている。
【大阪城天守閣・施設概要】
住所 大阪市中央区大阪城1-1
休日 年末年始(12月28日~1月1日)
営業時間 9:00~17:00(最終入館は16:30、季節により開館時間延長あり)
料金 大人600円
中学生以下、大阪市内在住65歳以上の人(要身分証明書)、障害者手帳などを持つ人は無料
公式サイトURL
http://www.osakacastle.net/
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