ジョブズがこよなく愛した巴水に浸れるSOMPO美術館を見てきた
西新宿の美術館、SOMPO美術館で10月2日より、人気が急上昇している版画家、川瀬巴水の大規模な回顧展「川瀬巴水 旅と郷愁の風景」が始まった。
巴水の版画は、新版画と言われるジャンルで、江戸時代からの浮世絵制作の伝統を継承しながら、明治30年ごろから、大正時代、昭和にかけて浮世絵の復興を図った木版画で、近年、人気を集めている。今年の1月から3月にかけては、東京都美術館で代表的な作家の一人、吉田博の「没後70年 吉田博展」が開催され、巴水も大田区立郷土博物館で今年7月から9月20日まで「川瀬巴水-版画で旅する日本の風景-」という展覧会が開かれたばかりだ。
巴水が話題に上がる理由の一つに、アップルの創始者、スティーブ・ジョブズがコレクターだったことがテレビ番組で取り上げられるなど注目されたこともある。今回の展覧会の図録に、ジョブズと巴水について寄稿したNHK国際放送局の佐伯健太郎氏によると、ジョブズは銀座の兜画廊で多くの作品を購入していたそうで、新版画を43点入手しているがそのうち、巴水は25点と最も多かった。
娘のリサ・ブレナン‐ジョブズは著書の中で、ジョブズが亡くなる3か月前に、部屋を訪れた際、寺の黄昏と夕暮れを描いたHasuiの版画が掛かっていた、と書いている。この版画はおそらく、「池上本門寺の塔」(1928年)だという。実際、アメリカで人気のある日本人画家は3Hと言うそうだ。葛飾北斎、安藤広重、そして川瀬巴水の3人だ。今回は、ジョブズが所持していた巴水の作品9点と1984年にジョブズが初めてマッキントッシュを人前で発表した際、画面に映していた新版画、橋口五葉の「髪梳ける女」(1920年)の合計10点の同じ作品の版違いを特設コーナー「スティーブ・ジョブズと巴水」で展示している(全て、渡邊木版美術画舗所蔵)。
ノー、巴水こそがベストだ!
佐伯さんによると、ジョブズが新版画と出会ったのは10代の頃。カリフォルニア州サニーベールにあった、親友ビル・フェルナンデスの家だった、と言う。ビルの母親のバンビさんが新版画が好きで居間などに掛けていたのだ。バンビさんのお気に入りは巴水で、二番目が吉田博だった。バンビさんの父親が1930年代の大恐慌の頃から収集を始めたという。新版画というムーブメント自体が最初から海外進出を目指していたのだが、アメリカで火が付き始めたのが、まさに1930年代だった。1930(昭和5)年と1936(昭和11)年には、アメリカ中西部オハイオ州のトリード美術館で、巴水や吉田博、伊藤深水ら10人の新版画家の作品を集めた展覧会が開かれ、大いに人気を博した。アップルの設立後、バンビさんが吉田博の話をしていたら、ジョブズが「ノー、巴水こそがベストだ!」と言い返したこともあった、と言う。
なぜ、ジョブズがここまで、新版画、とりわけ巴水を愛したのだろうか。
巴水の活躍して頃には、当時は新版画論争というものがあった。錦絵の技法で画家、彫師、摺師の分業制で制作される新版画に対して、自分で絵を描き、自分で彫って摺る自刻の版画を「創作版画」というが、西洋絵画的な立ち位置から浮世絵の頃からのシステムを守る新版画を時代遅れであると批判していた。しかし、新版画は従来の浮世絵の需要が無くなっていた明治に、浮世絵系の伝統的木版画に、新風を起こし復興させようとしていた。作品や技法も意欲的で新技法の開拓もあったことを忘れてはならない。馬連の跡を残した実験的な摺りなど、技法での様々な新しい工夫が凝らされていた。この作家的であるというだけでなく、職人が力を合わせて美しさを極めた新版画の在り方に惹かれたのだろうか。新版画は、錦絵のような煌びやかさや驚くような構図よりは、静かで対象を味わい尽くすようなとらえ方に味わいがあり、微妙な色調で、特に夜や雪の景色などで得難い美を描いているが、アップルに通じるものがあるのかもしれない。
巴水の歴史をたどる三つの章
今回の巴水展は、ジョブズの特設コーナー以外では、「版画家・巴水、ふるさと東京と旅みやげ」「『旅情詩人』巴水、名声の確立とスランプ」「巴水、新境地を開拓、円熟期へ」の3章から構成されており、新版画を確立した功労者である版元、渡邊庄三郎にもスポットが当てられており、貴重な生前の巴水の姿をとらえた新版画の制作の過程を記録した動画を見ることもできる。摺りの過程を実際に見ることができる「野火止平林寺」の木版畫順序摺10点も面白い。実際は約30回だそうなので、これでも足りないのだが。世界が先に発見したともいえる新版画の中でも、とりわけ多くの人を惹きつける巴水の魅力に浸りに行こう。
住所:東京都新宿区西新宿1-26-1
開館時間:10時~18時(入館は閉館の30分前まで)
休館日:月曜(ただし11月16日は展示替えの為休館)
料金:一般 1500円/大学生 1100円/小中高校生 無料/障がい者手帳を持つ方 無料
■関連サイト
川瀬巴水 旅と郷愁の風景