大赤字の連続だったFACOM開発
池田氏が全精力をかけて作った科学技術用リレー式計算機の第1号が、「FACOM100」だった。FACOM100は、54年5月から開発がはじまり10月に完成。株式取引高精算用計算機を作ってからわずか1年半で完成にこぎつけている。
——FACOM100開発の資金繰りはどうだったのですか?
「1度に必要な金額を要求したのでは計画がつぶされてしまうので、まず40万円、次に30万円といったぐあいに、何期かにわけて会社に資金を要求したんです。あるとき100万円の請求を出したら、重役たちがはじめてびっくりして、プロジェクトの様子を代わる代わる見に来たとか。とにかく当初しばらくはFACOM開発は何億という大赤字を出し続けていました。そんななかで、社長の岡田完二郎さん、重役の尾見半左右さん、直接の上司の小林さんなどは、うじうじしたことをひと言もいわず、池田さんを次々と大きな仕事に挑戦させていったんです」
——FACOM100の登場はどんな反響を呼びましたか?
「ノーベル賞を取った湯川秀樹さんがやってきて、2年かかる積分計算が3日で処理できるのに喜んだ話は有名です。いろいろな大学や研究所の委託計算を無償で行ないました。そのころ私は池田さんとは離れて、再び交換機の畑に戻っていたのですが、私も電話のトラヒック計算などに用いましたよ。あくまでも試作機で、一般売りはされなかったのですけれども」
以後、FACOMシリーズの新製品は次々と開発されていくのだが、それらの開発プロジェクトは完全に池田氏の手の内にあったのだろうか? 山本氏いわく、「周りは新人スタッフで固められていましたが、ほとんどお手伝いだけで、すべて池田さんの独創でFACOMは開発されていきました」ということだ。
FACOM100の後継機、「FACOM128」の開発時にはこんなエピソードもある。
開発がなかなかうまくいかず、納期に間に合わない危惧が生じた。あまりにたいへんなものだから、スタッフの1人だった石井康雄氏(現東京情報大学教授。電算センター長)などは「会社が火事にでもならないか」とさえ思ってしまうほどだったという。と、なんと偶然にも本当に火事になってしまったのだ。石井氏やほかのスタッフは驚きあわてふためいて、設計中のFACOM128のための資料類を少しでも持ちそうとした。
ところが、そんなスタッフの様子を横目に池田氏は泰然自若。「危ないことをするな」とたしなめて、「図面なんか全部自分の頭に入っているから心配いらん」といったという。
池田氏がそうして育てた本格的な商用リレー計算機FACOM128が完成したのは、FUJICと同じ56年。信頼性が高く、すでに現在のインデックスレジスタや割り込みなど、コンピュータアーキテクチャの重要なものがすべて池田氏の独創として盛り込まれていた。そしてこのFACOM128は、統計数理研究所、有隣電機精機、文部省関連の研究所や日大などに、すべて受注生産で導入された。
——山本さんが再びコンピュータ開発に関与するようになったのはいつからですか?
「私は交換機の畑でデータ通信のソフト開発に着手していたのですが、岡田社長が67年に、ソフト開発の重要性を考えて、データ通信部とコンピュータ部を統合してソフトウェア開発部を作ったんですね。開発部長は池田さんで、私は池田さんに次長として指名されました。池田さんは自宅で仕事をしたりしてほとんど席にいなかったんで、実質的責任者は私になっていました」
——どんな体制だったんですか?
「私はソフト開発はハード開発以上に困難であると骨身にしみていたので、若く優秀な人材がもっともっと必要だと岡田さんに要求したんですね。そこで、社内募集を行なったんです。新しいジャンルなので、実に多くの若者が集まりました。だから他部署の管理職はみんな嫌な顔をしていましたよ。有望な若手をどんどん持っていかれるんですから。そんななか、岡田さんはこうした動員を3度も強行したんです。岡田さんの揺るがぬ権威がなければできない離れ技でした」
——なるほど。
「これで日本で最初にICを採用した大ヒット大型コンピュータ〝FACOM230-60〟の開発と同時に汎用OSをふくむソフト開発を成功させて、富士通はハードもソフトも技術があることを示せたんです」
「FACOM230」シリーズは、当時世界の標準機となっていた「IBMシステム/360」シリーズ(64年発売)への強い対抗意識のなかリリースされた。日本を代表するコンピュータとなったのだが、しかし、池田氏はこの手塩にかけて作り出したアーキテクチャを、その後捨てることになる。
【岡田完二郎】(1891〜1972)13年東京高等商業学校卒業後、古河合名会社入社。45年社長となったが翌年公職追放によって辞任。宇部興産副社長を経て59年富士通社長に就任する。語学堪能の好奇心旺盛な人物で、富士通経営については「コンピュータに社運を賭ける」と言い切った。——その後富士通はMシリーズを開発して、IBM互換機路線にシフトしていきますね。互換機路線の選択は、富士通、そして日本のコンピュータ業界にとってもターニングポイントとなりました。
「ええ。互換機路線へのシフトを主導したのが池田さんでした。きっかけは東京大学大型計算機センターへのコンピュータ納入合戦で、池田さんがチーフになって売り込んだ〝FACOM230-50〟が日立の〝HITAC〟に敗れたことでした。日立の採用について東大側は、『研究用のソフトには国際互換性が必要だ。だからOSはIBMとの互換性がないと困る。富士通が独自に開発したOSは、あまりにIBMとかけ離れすぎている』とコメントしたんです」
——ここで互換性という言葉が出てきたんですね。
「池田さんはこの敗北に深いショックを受けたようでした。そしてあのプライドの高い池田さんが、『いつまでも自社のシステムがいちばんだなどといっていてもしようがない。今後は国際標準であるIBMシステム/360との互換性を追求する』と決意したんですね」
——池田さんとしてはつらい決心だったのではないでしょうか。
「そんななか、アムダール博士との出会いがあるわけです。『IBMの研究所にはアムダール博士という、IBMシステム/360シリーズの基本概念を作ったすごいコンピュータ技術者がいるが、彼はIBMを辞め、IBMでは許可されなかった独自のコンピュータを作りたがっているらしい』と聞いた尾見さんが、68年、アメリカでアムダール博士に会って帰国したんですね。それで池田さんにも会うことをすすめたのです。池田さんは69年にアムダール博士に会いに行き、初対面でほれ込み、『富士通のアドバイザーになってくれ』とその場で頼み込んだそうなんですね。さすがにアムダール博士も、そのときは『私はまだIBMの人間ですから』と、やんわり断ったそうですが……」
——山本さんもお会いになったのですか?
「池田さんに誘われ、70年の暮れごろ、IBMを辞めてアムダールコーポレーションを創設したばかりのアムダール博士に会いに行きました。博士はIBM互換の大型機を開発しようとしていました。しかもそれは、LSIを使った世界初のコンピュータで、コンパクトかつハイコストパフォーマンスなマシンでした。
プレゼンテーションも実にうまいんですよ。帰りに池田さんが『印象はどうだ』と聞かれたのですが、そのときの私は『アイデアはすばらしいが、アムダール博士にほれるのは考えものですよ』と答えました。アムダール博士はロマンティストで、経営的センスはあまりないのではないかと思ったからです。池田さんは黙っていたんですが、あとで『山本があんなにすばらしいアムダール博士にほれるなといった』と怒っていたそうです(笑)」
結局、富士通は、アムダールコーポレーションの次世代コンピュータ開発に対して、その販売権を得ることを条件に十数億円の出資を行なうことになった。
「当時の富士通の売り上げが確か1500億円程度ですから、これはたいへんな額ですよ。当然社内には、他社にそんな多額の投資をするぐらいなら自社で開発したほうがいい、しかも相手は実績のない会社のリスキーなプロジェクトじゃないかという議論がありました。これを説き伏せ、提携を実現させていったのが池田さんなんです。
当時の高羅芳光社長は経営に明るい方で、ひどく心配していましたが、尾見さんや小林さんが池田さんをバックアップしたんです。このプロジェクトを富士通がいずれ世界に打って出るとっかかりにしようと考えていたんですね。結局、72年に富士通はアムダールコーポレーションに正式に資本参加したのです」
——70年ごろというと、外国資本の自由化問題が起こり、日本で本格的に活動を開始するIBMに対抗すべく、通産省の平松守彦さん(現大分県知事)などの指導で大手メーカー6社が3グループにわかれて業務提携することになった時代です。
「富士通は、これから推進するIBM互換路線に最も近い存在だった日立製作所と71年10月に業務提携します。日立と組むことは、池田さんが平松さんに強く主張したんですね」
そして、日立、富士通が目指したコンピュータが、IBMと互換性を持ったMシリーズだった。
「富士通ではこのMシリーズ開発をアムダール・プロジェクトと並行させていたので、たいへんでした」
【Mシリーズ】70年発売のIBMシステム/370シリーズのシェアをターゲットにM180とM190が74年2月に発表された。翌年5月にはM160、M170を発表。富士通はこのMシリーズを中核にしてシェアを伸ばし、79年には国内シェアで日本アイ・ビー・エムを抜いた。【東京大学大型計算機センター】学術研究用のサービス機関として66年4月に設置。機種選定については当初IBM7044が候補となっていたが最終的にIBM7094とHITAC5020Eの争いとなり、HITACに決定された。
【FACOM230−50】通産省の指導に基づき富士通、日本電気、沖電気の3社が共同開発したコンピュータFONTACをベースに、富士通が開発した大型コンピュータ。第1号は東大大型計算機センターに納入される予定であった。
【アムダール】(Gene Myron Amdahl:1922〜2015)IBMのベストセラー科学計算用コンピュータIBM704、IBM STRETCH、そして、IBMをコンピュータ界の巨人に育てたIBMシステム/360シリーズの主任設計者。IBMアドバンスト・コンピュータ研究所所長として360の後継機種を開発中に、超大型コンピュータ開発を主張して経営陣と対立、退社。70年にアムダール社を設立した。
コンピュータとともに逝った巨星
——アムダール・プロジェクトはその後どうなりました?
「案の定、アムダールは予定をはるかに超える資金と時間をかけてしまい、製造設備に回す資金がなくなってしまったんですね。倒産の危機でした。池田さんはその間、運転資金に困ったアムダール博士と激しくやり合って妥協点を探し、国内に帰ればアムダール・プロジェクトを危ぶむ社内の声を必死で打ち消し、資金を調達せねばならなかったのです」
米国の業界筋では、「富士通のアムダール社に対するテコ入れは想像を絶する。これがアメリカの会社だったら、乗っ取るか見捨てるかの2つに1つしかない」との声が多かったという。
「アムダール関連の技術的な問題は、黒崎房之助さんと私とでほとんど処理していたつもりですが、スペインの電信電話会社テレフォニカとの共同出資プロジェクトなどとも相まって、池田さんは海外出張続きの状態になってしまったのです」
——かつては自由奔放に独自のコンピュータ開発に熱中していた池田さんが、いまやアムダール再建の調整役などで飛び回る結果になってしまったのですね。
「74年秋のことです。尾見さんが私に『君はなんだ』というんです。そして、『あんなに海外出張ばかりさせたら、池田は死んでしまうぞ。これからは君が少し代わってやれ』というんですね。私も何度も池田さんに、『スペイン行きは私が代わるから』と申し出たことがあったんですが、がんとして聞かない。だから『尾見さんからそういってください』とお願いしたんです」
——そして?
「私は池田さんの代わりにスペインに飛び、アメリカに出張していた池田さんとスペインで合流することになりました。そこで私がテレフォニカと行なった交渉の経緯を説明すると、珍しく今後は山本に任そうという雰囲気になったんです。そしていったんは『くたびれた』といって寝に行ったんですが、少しすると起き出してきて、『やはりあそこの条文は直そう』というんですね。とにかく契約が頭の中を渦巻いてしまって寝れない。池田さんも私もそんな状態だったんです」
——池田さんが「くたびれた」などというのは珍しいことだったんじゃないですか?
「そうなんです。それでもその後、先に日本に戻っていた池田さんは、本社に遅れて戻った私に、『くたびれたろうから、早く帰って休め』とねぎらいの言葉をかけてくれたんですね。その翌日でした、自宅に電話がかかってきたのは……。池田さんが羽田空港で倒れたという知らせでした」
——なんと!
「『何かの間違いじゃないのか。昨日、池田さんは私にねぎらいの言葉をかけてくれたばかりなんだぞ』と自分がいい返したのを覚えていますよ。池田さんはカナダの取引先の社長を羽田空港に迎え、握手して手を離した瞬間に倒れたというんですね。そして私たちが病院にかけつけたときには、もう手遅れでした。その4日後の74年2月14日に池田さんは意識不明のまま帰らぬ人となったのです」
Mシリーズの第1号機である「M-190」は、池田氏の死の1週間後に世に送り出された。それは当時の「IBMシステム/370」に比べて2〜3倍の処理能力を持った低価格マシンで、以後5年間で500台以上を売り、日立、日本電気、そして日本アイ・ビー・エムのマシンのシェアをも抜いて日本を代表する大型コンピュータに成長する。
かたやアムダール・プロジェクトの第1号機「470V-6」は、池田氏の死の1カ月後に完成し、翌75年6月には審査のきびしさで知られるNASA(アメリカ航空宇宙局)に納入されて話題を呼んだ。そして、ベストセラーとなる幸運を得たのである。
命を賭して進めたプロジェクトのこうした結実を、池田氏自身はついに知ることがなかった。
【アムダール470V-6】アムダール社は当初、IBMシステム/360シリーズと完全互換を持ちLSIを全面的に採用した470−6を開発していたが、IBMが機能を大幅にアップしたシステム/370を発表。製品計画を変更して、新たに470V−6の開発に取りかからざるを得なくなった。結果的に470V−6は、初年度は13台、発売後5年間で累計出荷台数600台を記録した。『新装版 計算機屋かく戦えり【電子版特別収録付き】』の内容
- 日本最初のコンピュータ……岡崎文次
- 日本独自のコンピュータ素子……後藤英一
- コンピュータの基礎理論……榛澤正男
- コンピュータと日本の未来……喜安善市
- トランジスタの重要性……和田弘
- 国産コンピュータの頂点と池田敏雄……山本卓眞
- 機械式計算機のルーツ……内山昭
- 世界を制覇したヘンミ計算尺……大倉健司
- 日本外務省の超難解暗号機……長田順行
- タイガー計算器……村山武義
- 弾道計算用機械式アナログ計算機……更田正彦
- コンピュータ研究と阪大計算機……牧之内三郎
- 最大規模の国家プロジェクト……村田健郎
- 巨大コンピュータに挑戦した三田繁……八木基
- 2進法と塩川新助……岸本行雄
- 数値計算……宇野利雄
- プログラミング言語とコンピュータ教育……森口繁一
- 国産オペレーティングシステム……高橋延匡
- オンラインシステム……南澤宣郎
- 電子交換機……秋山稔
- 電子立国と若き官僚……平松守彦
- IBM側の証人……安藤馨
- リレー式計算機とカシオミニ……樫尾幸雄
- トランジスタ式から薄型電卓……浅田篤
- 世界初のマイクロプロセッサ……嶋正利
- LSIと液晶……佐々木正
- 特別収録 微分解析機再生プロジェクトをめぐって 和田英一氏に聞く
【筆者近況】遠藤諭(えんどう さとし)
株式会社角川アスキー総合研究所 取締役主席研究員。元『月刊アスキー』編集長。現在は、ネットデジタル時代のライフスタイルやトレンドに関する調査・コンサルティングのほか、テレビ・新聞等で解説・執筆、関連する委員会やイベント等での委員・審査員などを務める。著書に『ソーシャルネイティブの時代』(アスキー新書)など多数。『週刊アスキー』で“神は雲の中にあられる”を連載中。