ケタはずれの天才技術者・池田敏雄
富士通の沼津工場には、池田敏雄記念室なるメモリアル施設が設けられている。故池田敏雄。同時代に活躍した多くの人々が、彼を〝天才〟と呼んではばからない男である。
富士通は、1935年(昭和10年)、富士電機の子会社として発足した。当時は逓信省に納める電話交換機開発を行なう無名の通信機器メーカーだったという。その富士通が、今日のような有数のコンピュータ会社に成長したのは、60年代に電話交換機から脱却して、まだリスクの大きかったコンピュータ事業に乗り出したためである。
この富士通のコンピュータ事業を当初から引っ張った男が、池田敏雄だった。リレー式計算機「FACOM100」にはじまる独創的な内容を持つコンピュータを開発、日本のコンピュータ業界に多大な影響を与えた池田氏は、74年11月に急逝した。
現在富士通の会長を務める山本卓眞氏は池田氏の同僚であり、最初のリレー計算機開発ではアイデアを具体化する役割を果たすなど、氏の伴走をしながら仕事を見届けてきた。山本氏に、池田氏についての話をうかがった。
——富士通でコンピュータの開発がはじまったのは何年ですか?
「52年でしょう。50年には朝鮮戦争による特需景気がありますね。それまで東京証券取引所は売買計算を手でやっていたんですが、特需による経済の活性化を受け、手じゃ計算が間に合わなくなった。それでパンチカードシステム(PCS)を導入しようという話になったんです。それを聞きつけたコンピュータ黎明期の神様中の神様、山下英男東大教授が、富士通開発課の課長だった小林大祐さんに、『富士通で株式計算処理を行なうマシンを作って、東証に導入したらどうか』と呼びかけてくださったんですね」
富士通は逓信省に電話交換機を納めるいわゆる電電ファミリーの1員だったが、どんなに技術的にがんばっても、注文は逓信省とコネクションの強い日本電気、沖電気の次という状況を抜け出せない。「この状況を打開するには何とか新しい製品を生み出さねばならない」——そんな思いで小林氏は51年に開発課を創設、初代課長に就任していた。
——なぜ山下教授は電話交換機開発が中心だった富士通に話を持ち込んだのですか?
「富士通には交換機開発で培ったリレー技術がありまして、その数年前にやはり山下先生の口利きで、リレー式分類統計機を開発していましたから、その縁で話が来たのでしょうね」
——小林さんは計算機に興味を持っていたのですか?
「小林さんは、戦争中に高射砲の弾道計算のシステムを担当していたんです。高射砲には計算機がくっついていて、計算した敵爆撃機のデータをトランスミッションにのっけるわけですが、その計算機というのが、機械式の、歯車がガチャガチャ動いて計算するやつで、1目見てこれはだめだと思ったらしいんですね。それで、なんとかリレー式の電気計算機が作れないかと戦時中から考えていたそうです。だから株式計算マシンもぜひ作ろうという判断になったのでしょう」
——それが富士通でコンピュータ開発がはじまるきっかけですね。
「ええ。株式計算マシンの開発事業は、コストがかかりリスクも大きかったコンピュータ開発へ乗り出すとっかかりになるはずだと小林さんは考えたのです。それで、小林さんが見込んでいた池田敏雄さんに声をかけ、そして彼1人ではさすがにどうにもならないというんで、交換機畑にいた山口詔規君と私も呼び出されました」
——池田さんは46年12月入社で、49年4月入社の山本さんの2年半ほど先輩だということですが、最初はどんな先輩に見えましたか?
「変わった人だな、という印象でした。背が高くて、ニックネームはジャイアント」
子供時代は相撲で敵なし。柔道は二段。浦和高校時代はバスケットボールでセンターをつとめて、42年のインターハイ優勝、100連勝突破など、浦和高校のバスケ黄金時代を築いた1人だったという。
「それで、シューベルトの『冬の旅』を大声で歌って仕事をしたりする。小林さんも、こいつは変わった奴だが、そのうち何かしでかすだろうと見込んでいて、開発課に転属してきた池田さんを泳がせていたんですね」
池田氏の没後に出版された『池田記念論文集』によると、池田氏は計算機に興味を抱いた経緯についてこう述べている。
非常にひょんなことから私が興味を持ったときに、塩川さんという方が富士通にいらっしゃった。塩川さんの方は、戦前から、2進法だとか、2進法によるリレーのいろいろな回路だとか、非常に奇抜なアイデアをお持ちになってやっておられたんですが、僕たち富士通のグループというのは、たまたま、ENIACの基本的な回路、たった1枚の図面なんですけど、これはおもしろいじゃないかというわけで、簡単にいえばカウンター回路みたいなものを、真空管を90本ぐらい使ってつくってみたんですよ。そのうちに、どうも計算機はおもしろいから少しずつやろうじゃないかという話が、若手連の間にでてきたのと、たまたま塩川さんが富士通にいらっしゃったことから、計算機みたいなものを作ってみないかという話が急速に出てきました。
ちなみに文中に登場する塩川新助氏とは、戦前から2進法による計算機を提唱していた研究者である。
【富士電機】古河財閥の古河電気工業が、電気機器の製造と輸入販売のためにドイツのシーメンス社と提携して、23年8月に創設した会社。社名は古河の〝フ〟とシーメンスの〝シ〟に由来する。【山下英男】(1899〜1993) 23年東京帝国大学工学部を卒後同大教授となる。戦前戦中を通じて統計機の研究開発を続け、山下式画線統計機を作り上げた。戦後の混乱が治まって後は国産コンピュータ黎明期の指導的役割を果たした。コンピュータとともに、電手顕微鏡の研究開発でも草分け的存在。
【小林大祐】(1912〜1994)35年京都帝国大学工学部電気工学科卒後、富士通信機(現富士通)に入社。富士通のエレクトロニクス分野進出を提案し、池田敏雄の上司としてコンピュータ事業を牽引した。76年に富士通社長、81年会長、86年相談役。
【リレー式統計分類集計機】山下英男氏が開発した山下式画線統計機は日本電気と富士通信機によって商品化され、51年、総理府統計局(日本電気)と東京都統計部(富士通信機)に納入された。
株式計算マシン不採用の顛末
——池田さんをふくめた3人で、株式計算マシンのための合宿をしたそうですね。
「熱海で設計のための合宿をしました。2週間もあればなんとかなるだろうと会社側は考えていたようですが、どう考えても甘い見積もりでした。結局終わらなくて、会社に戻ってきて1カ月近く設計の続きを行なったんですが、どうもがやがやしていて落ちつかない。それで、わが家の2階の空室で再び3人で合宿をはじめました」
——ブレーンストーミングをひたすら繰り返していたわけですか?
「そうです。3週間ぐらいやりましたね」
——皆さんのコンピュータに関する知識はどれぐらいあったのでしょう?
「それは技術者ですから、リレーのオン・オフで1と0を表現し、2進法で動く機械を作れるということは理論的にわかるわけです。ただ、どう設計すればいいのかはまったく知りませんでした」
——参考資料もなかった?
「海外にどれぐらいコンピュータがあるのかさえ知りませんでした。納期が目前に迫っていて、文献を探す暇もないというプロジェクトでしたし」
——山下英男さんも、何かアイデアを出されましたか?
「山下さんは学者ですから。リレーで原理的にはできるよ、という話だけでした」
——塩川新助さんは?
「塩川さんは顧問格で、ときどき合宿に顔を出されていましたね。山下英男さんや、小林大祐課長も、その後どうなってるんだという感じで、たまにお見えになっていました」
——山本さん宅での3週間の合宿で何とか形が見えてきたわけですか?
「ええ。もちろんそれから実際に物を作るには、物を作るなりの設計が別に必要なわけで、その後大人数が参加してきて設計、製造、組み立て……と、ことが運ぶわけですが、当初の設計は、池田、山口、山本の3名だけで行なったんですね」
——何でも、池田さんが考えた演算回路の理論を、山本さんがフォローしながら具体化していったということのようですが……。
「池田さんは、とにかくやり出すと、おもしろいおもしろいで止まらなくなっちゃう人でね。演算回路も当面必要な回路だけでは気がすまなくて、絨毯爆撃のようにさまざまなタイプの回路を片っ端からノートに書いていく。計算過程が全部チェックできる独自の回路などはまさに圧巻でしたね。5000を超える演算回路を1人で設計したんですが、これはその後、諸外国で発表されることになる演算回路のほとんどすべてに近かったんです。私はそれをまとめ上げていく役割でした」
——期限までにマシンを完成させなければ、すべてが無に帰するという状況で、徹夜の連続でまとめたとか。
「ええ。なのに池田さんは演算回路研究に夢中になっちゃうわけです。最初の合宿が52年7月で、翌年の3月にはマシンが動き出しました。スムーズではありませんでしたが、非常に短期間で開発できたと思います。汎用のコンピュータではないけれども2進化10進法のマシンで、われわれは〝株式取引高精算用計算機〟と呼んでいました」
——4ビットで10進数の1桁を表現して10進法のまま計算ができるマシンですね。
「リレーは自社のものを1万数千個使い、紙テープリーダ、パンチ、テレタイプライターは他社製でした。加算などの演算機能もあって、情報を入力すると、分類し、それを表にして印刷ができたんです。でも結局、そのマシンは東証には採用されませんでした」
——なぜですか? 「入出力に電信用の紙テープを使っていたのでPCSよりも動作が遅かったし、動作が不安定でしたからね」
しかし、この株式取引高精算用計算機の製作が、池田氏のコンピュータ開発熱に火をつけた。
「会社がコンピュータをやろうといい出す前に、1人で燃えて、研究をはじめたんですよ。文献といったって、当時はろくすっぽない。ほんの数行の記事などです。それを集めて、とにかく読むわけです。だいたい池田さんという人は、数学会誌の問題を中学で解いてしまうような、天才の片鱗を持った人だったんですよ」
——碁も強かったとか。
「ええ。碁は5段でしたが、碁の世界の呉清源、林海峯など、第1線の人とも国境を越えた交流があったようでね。日本棋院のルールを論理的に分析し、改訂ルールを提案し、その貢献が認められて日本棋院から6段をもらっています」
——ロジカルなものにすごく強い人。
「そうです。たとえば、コンピュータ開発の前には、電話のダイアルの運動解析を行なっています。電話のダイアルは100回に1回ぐらいミスがあるんですが、専門家はみんなこれをハードのエラーによって発生すると考えていました。ところが、池田さんは、非常に複雑な微分方程式をたて、それを解いた結果、理論的に発生すべくして発生するミスだということを証明した。ロジック面のみならず、こうした非常に高い数学的処理能力もあわせ持っていたんですね」
——池田さんは、生活パターンも独特だったそうですね。
「課長などの役職についてからも、午後5時や6時に出社するのはざらでした。若い設計者がちょうど帰ろうとしているところへ来て、突然の設計変更を告げ、朝まで仕事になったり……。とにかく好きにしていましたね。自宅でクラシックのレコードをがんがん鳴らし、構想をめぐらせていたのがいちばん多かったんじゃないですか。何かがひらめくともう夢中でね。池田夫人もいっておられましたよ。とにかく勉強をはじめると止まらなくなっちゃうって」
——会社では、やはりそうした態度がだいぶ顰蹙を買ったのではないですか?
「ええ。あの当時われわれは1日単位で給与が計算され、その蓄積を月給としてもらっていたんですが、1定時間を超えた遅刻は欠勤と見なされるわけです。池田さんは来る日も来る日も遅刻ですから、あるとき月給ゼロ、ボーナスゼロという状況になってしまった。いかに天才といえどもこれでは生活できないわけです。最後は、小林さんが重役を説得し、池田さんだけ特例として月単位の月給制になった。いちばん池田さんをかばったのが小林さんでした。小林さんなしでは池田さんは会社がすぐに嫌になって辞めていたでしょうし、あそこまで自由に活躍できなかったはずです」
——でも、池田さん自身、仕事に厳しくキツい発言が多かった割に人望もあったとか。
「池田さんは仲間を誘い込むのがうまかったんですね。明確な問題意識と目的を持ってやってきますし、説得の語り口が天才的なんです。そのへんが、よくいる偏狭で孤立してしまう天才とは大きく違うところ。自分のわからないところは誰にでもなりふり構わず知恵を借りに行く。ぺこぺこ頭は下げないけれども、聞きたいことが明確なんで、相手も気持ちよく教える気になるんです。それでその教えられたことをさらに乗り越えていくようなアイデアを提出できた。だから、質問に行って、逆に多くの識者から評価される結果になるんです」