8日、アップル直営店の「Apple Store Ginza」にて、著名人を講師に招く学生向けのトークイベント「Dream Classroom」がスタートした(関連記事)。第1回のゲストとして招かれたのは、日本を代表するアーティスト坂本龍一氏だ。
無料ということもあってか、会場となった3階のシアターには、設置された84席というイスの数を大きく上回る150人以上の観客が押し寄せた。入場は学生優先で、残念ながら会場に入れなかった人も出たほど人気だった。Apple Storeによれば、開店以前の9時からすでに店舗前に人が並んでいたという。
1時間を超えるトークにおいて、坂本氏は「アジ演説」をしていた学生時代のこと、モーリス・ラベルやアンドレ・ブルトン、マルセル・デュシャン、ジャン=リュック・ゴダール、ナムジュン・パイクといった影響を受けた人物、特に取り組んでいる環境問題への活動、学生へのメッセージ──などを語った。
本記事では、学生に向けて語った部分を抜き出して、坂本氏の生の声が伝わるように、なるべく編集せずにまとめた。過激な言葉を抜き出せば……
- 「今の若いミュージシャンたちは、『ミスチル』とかを目指してやっていますが、そこで終わっているような気がする」
- 「スポーツ選手とか、アスリートの人が自分から『夢を与える』『勇気を与えたい』とか。不遜じゃないですか、人間として」
- 「(学生に送るメッセージを聞かれて)まぁ基本的には『自分で考えてよ』と言いたいですね」
といった具合だが、前後の文章を読めば、坂本氏のメッセージが見えてくるはずだ。坂本氏の会話を引き出すMCとしては、ジャズ/即興演奏を中心に活動している音楽家・大谷能生氏が務めている。
「僕たちはあなたの授業は受けない、みんな外に出よう」
坂本 僕の学生時代のことを話しても、今の学生さんにメリットがあるか知りませんがね……。
大谷 今と状況が違うということだけは確かですよね。
坂本 そうですね。僕が高校に入ったのが1967年で、1970年に恥ずかしながらストレートで大学に入ってしまって、みんなに非難されたんです。僕自身が「大学になんか行くな」と言ってましたからね。それなのに自分だけ行ってしまったという。
大谷 その時期の写真をいただいているんですが……。
坂本 これは高校3年のときで、「アジ演説」していますね。ここに「立て看」(立て看板)があったり。赤塚不二夫先生のキャラクター「ケムンパス」とかを書いたりとか、そういうひょうきんなところは変わってません。
割とまじめに(言えば)、学校教育って、結局、いろんな大義名分があっても「選別」じゃないですか。試験をやって点数で選別して、選別された大学に分類して送り込んでいくというひとつの流れがあるわけで、それをやめてくれと。試験もやめろ、点数も付けるな、通信簿もやめろ、という風に言ったんですねですね。
大谷 それは無理な要求を。
坂本 かなり無理な要求ですね。もちろん、付随的に決まりきった校則とか、制服制帽とかをやめろと。そうしたら、たまたま僕が行っていた都立新宿高校の先生が非常にまじめに受け止めてくださってしまって、真剣に討論してくれて、やめちゃったんですよ。本当に全部、通信簿も。
それが何年続いたか分かりませんけども、多分、僕が思うに、この4、5年後にきっと学生さんのほうから「これじゃ困るから、大学行けないから、やってくれと」いう要求が出たと聞いておりますけどね。「制服や制帽ももう一回戻してくれ」という。新宿(都立新宿高校)がどうだったか分かりませんが、そういう学校もあったみたいです。
大谷 こうした学生運動とか、先生を突き上げると言う感覚というのは、今はもう学生さんにはほぼないんでしょうかね?
坂本 まぁでも突き上げるために突き上げていたんじゃないですけどね。自分で言うのも変ですけど、僕たちが言っていたことも一理あると言うか……。例えば、歴史の時間(授業)があると、それは10年前の生徒にも、今の生徒にもほとんど同じことを教えているんですよ。先生の自分用のノートがあって、もうぼろぼろでね、「十年一日」のごとく教えているわけです。
ところが学校を一歩出れば、外では学生のお兄さんたちがデモやったりだとか、日米安保条約の延長を巡ってどうのこうと、政治が渦巻いているわけですよ。ストリートには。今、そこで起こっていることが歴史じゃないか、それを教えてみろと。
で、教えられるわけがないですよ、世界史の先生は。そもそもそんなこと、ノートに書いてないから。「それは生きた歴史じゃない、僕たちはあなたの授業は受けない。みんな外に出よう」と言って外に出ちゃったわけです。
そういうのを4週間ぐらいやって、でも4週間遊んでいるわけにもいかないので、もう自分たちが学びたいことを自分たちで決めて、自分たちで自由にやろうと。それで僕は、なぜかフッサールという哲学者の現象学を始めたりして。「現象学的還元」とか講義したりしてね。自主講義ですよ。まぁ聞きたい人が聞くと。4人くらい聞いていたかな(笑) そんなことに興味を持って。どうせストになっちゃったから、自分の家で受験勉強している人もいましたよ、もちろん。
頼まれたから大学院を出た
坂本 (東京藝術大学時代の話で)大学生とは言ってもですね、ほとんど授業は出ていないですね。まぁ、(大学は)友達に会いに行くところという感じでした。
僕は小さいときから、どこかに務めるとか、バンドに入るとか、何かに所属すると言うことがすごく嫌いでね。嫌いと言うか想像できなくて。だから大学に所属していても、(大学生は)一般社会から見ればかなり自由な身分でいるわけですから、なるべく自由な身分でいたくて大学(院)に居止まったわけです。全然、向上心とか、向学心とかなくて、ぶらぶらしていられる時間を延ばしたくて。
大学院も留年があるんです。大学院は留年すると、国立なので、最長4年まで居られるということだったんです。それで3年までいたら、担当の教官から呼び出されまして、「お願いだから3年で出てくれ、俺の立場がない」と。教官の中で非難されるらしいです。
当時の1970年代初期、勉強してもしなくても、学校来ても来なくても、生徒一人いるというだけで、国立では年間に100万円くらい経費がかかる計算になるんですって。「ホントに困るから。何でもいいから、とにかく何か1曲書いてくれたら出さしてあげるから」とお願いされまして。
大谷 それがあの……
坂本 「反復と旋」という、のちに「題名のない音楽会」で黛さん(作曲家の黛敏郎氏)に頼まれて初演をした曲なんですけど。別に大した曲じゃないんですが、一応、オーケストラの曲を書きまして。頼まれたから無理矢理出てやったという感じですね。