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ネットの野次馬 VS マスコミ ── 事件報道激変のゆくえ

秋葉原・無差別殺傷事件、報道の裏側で

2008年08月04日 12時00分更新

文● 秋山文野、写真●曽根田 元、取材協力●NTTレゾナント

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なぜ舞台裏に回りたい? なぜ語りたいのか?


荻上 人間が何かを語るには、常に象徴を必要としてしまうものです。いつの時代でも、事件や特定の人物などに、共通体験やアイコン的なものを求めてしまう。

 しかしそもそも、この手の事件が「社会の何かを象徴している」とする根拠はないのです。

 今回の報道もそうであったように、どのみち事件そのものから何かを引き出すことはできず、どこかで聞いたようなコメントを反復するにすぎません。例えば「ナイフを規制しろ」「ゲームやネットが悪い」「あの世代は危険だ」といった、ただ不自由な空間だけを残すような、不信を煽る言説ばかりが飛び交うのです。

 しかし、今回の事件で報道の“語り方”の問題が露呈したのだから、そこを徹底的に掘り下げるべきです。藤代さんが指摘されたように、ネットでは、マスメディアがやらない“別の掘り下げ方”が実践されていた。「語り方の模索」作業に対する観察は有意義です。



語りにはリスクがある


藤代 携帯で現場写真を撮影した人を批判したマスコミの根底に流れる心理は「一般人がヤマ(事件現場)を先に踏んだことへの嫉妬」です。

 一方、ネットユーザーにも事件の情報を発信していた人のブログに「不謹慎」と非難のコメントを書いた人たちがいます。彼らは「自分がもしその場にいれば、このブロガーと同じ立場になったかもしれない」とわかっている。誰しもメディア化している状況では、「俺も注目を浴びたい」という嫉妬があらゆる人に広がっていく。

 現場を見てハイになって語る人間に対して「社会的に許されない」と非難するということは、新聞記者などマスメディアの世界ではさんざん繰り返されてきたんです。メディア化した人間が常に体験するハイな状態とその後の鬱、表現に対する責任論からは誰も逃れられない。ですから、ブロガーにもそういう状況はすぐ来る、ということを考えないと。

 “表現”というものは、誰かを傷つける可能性がある。「誰かが傷つくかもしれないけど、やっぱりこれは誰かが書くべきだ、伝えたい」という欲求があって、批判も引き受けつつ書くしかないわけです。今回の事件で非難されているブロガーたちは、その覚悟がないまま突然海に放り込まれてしまったようなもので、精神的に参っている人もいますね。

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