マイコン時代を作ったっていう自負はあります──日本の“狂える”技術者たちへ
1980年代、日本発マイコンベンチャー「ソード」を知っているか──椎名堯慶氏インタビュー(後編)
2025年04月21日 09時00分更新
水平分業をいち早く採用した新たな形のメーカー「プロサイド」を立ち上げる
―― 半導体工場、あったとしたらうまくいっていましたかね?
椎名堯慶 うまくいかなかったかもしれない。いやいかなかったと思います。半導体工場に、200億円、250億円使ったとしても安定的なオペレーションのコストは生易しいものではありません。
―― コンピューターの中に占めるロジックICのコストの割合ってどのくらいだったのですか?
椎名堯慶 当時はメモリが安くなってきていましたから、コンピューターの中でロジックICのコストは半分ぐらいを占めていたと思いますよ。電源関係のアナログICにも非常に興味を持っていました。当時はアナログの電源ICが発達していなかったので、トランスからインバーターなどの電子回路は自分で作るしかなかったんですね。スイッチング電源やサイリスタなど、作りやすいものから始めようと考えていました。
―― 今みたいになんでも決まったパーツで買ってくればいい感じじゃない。
椎名堯慶 そうです。それで最終的にはCMOSのロジックをやりたいと思っていたんですね。
―― もう普通のNHKのニュースでCMOS、CMOSと言ってた時代がありますよね。日本はそっちだみたいなね。
椎名堯慶 東芝さんでもCMOSを始めたばかりでした。岩通(岩崎通信機)など中小の電機メーカーも小さな工場を持ち始めていたので、私たちにもできるかなと思ったんです。でも、継続的な投資ができないし、ロジックのデザイナーも足りない。半導体のノウハウは買ってこなければならず、それも驚くほど高額でした。ベンチャー精神で「やればなんとかなる」という発想でしたけどね。
―― 東芝さんに買収された後、椎名さんはどうされるのですか?
椎名堯慶 私は東芝に買収された後、翌年の5月まで1年間だけソードの社長を継続して整理をしました。やめろと言われたわけではありませんが、潮時だと思って退社しましたよ。その後は一度もソードには行っていません。
―― その頃、ご自身は何歳なんですか。
椎名堯慶 45歳ですね。
―― まだ全然、働き盛りじゃないですか。それで、ソードの社長をお辞めになった後はどうされていたんですか。
椎名堯慶 その後、自分でまたプロサイドという会社を作るんですよ。私は台湾をよく知っていて、台湾の企業のトップ、例えばエイスースの社長とか、多くの方と知り合いでした。彼らの投資の仕方や開発のスピードを見て、これは材料になる。技術的なチャンスがあると思って立ち上げました。時代の1つのビジネスモデルの先駆けとなったんですね。
―― プロサイド、そういう新しさを持ち込んだのでしたね。
椎名堯慶 はい。日本の大企業がやっているモデルに勝てると思ったんですよ。IBMコンパチのボードや筐体など、あらゆるものを分業で作る水平分業方式を台湾で見て、これを日本に持ち込もうと考えたんです。垂直統合から水平分業の時代に入ると見ていましたからね。
―― 1987年頃は、日本はPC-9801など独自仕様のマシンが強くって垂直統合の時代でしたね。
椎名堯慶 ただし、この水平分業のモデルを活かしたビジネスは、長期的にビジネスチャンスとしては続かない。10年がいいところだと考えていました。
―― なぜそのように考えられたのですか?
椎名堯慶 水平分業のデメリットを補うためには、独占的契約あるいは市場支配力のある特許や独自性のある技術力が勝ち抜くためには必須条件です。特に標準化の進んだ互換機の市場の支配力の再構築には難しい、単なる「アジル」マネ―ジメントでは、早晩に競争力を失うと考えたからでした。互換機市場では独自の技術を加味することが許されない、可能としても、実現するための「技術分野での人的資源の再構築」は一夜にしてはならないとその難しさを十分に知っていたからでした。
それでも、みんながこのモデルに気づいて始めるまでの間は続きました。日本っていうのは割合こういうことは時間がかかるんですよ。台湾で新しい製品ができるたびに日本に持ってきて、カタログマガジンを作って、筐体からマザーボード、オプションカードまであらゆる製品を掲載していました。
―― ちょっと待ってください。それって輸入代理店になったということですか?
椎名堯慶 台湾から部品を輸入して組み立てるメーカーですよ。カタログを見て注文していただく形でした。一般ユーザーや企業から、富士通やNECの高価なパソコンではなく、もっと安価なものを求める声が多くなってきたんですね。これは一種の革命的な変化を起こせると思い、実際にかなり成功しました。ずいぶん売れましたね。5年後にはもう55億とか60億円ぐらいの売り上げになった。
―― IBM PC互換機ですよね、プロサイドのマシンは。その頃って、IBM PC互換機だと日本語環境はないですよね。
椎名堯慶 そうですね。日本語環境はありませんから特定用途向けの組み込み用途が中心でしたよ。プリクラみたいなああいうやつの中に入ったりとかといった具合ですね。
―― 1987年にIBM PC互換機って、まだ市場的にはめずらしい時期ですね。それまでPC-9801が主流でしたが、80年代中後半から先端ユーザーの間でLotus 1-2-3などIBM PCのソフトウェアに注目が集まり始めて、その後、J-3100やAXやDOS/Vへと発展していきましたが。1990年頃でも、国内メーカーと台湾メーカーでは、価格差もですが世界が違った。
椎名堯慶 CPUのチェンジが早い時代でしたね。大手メーカーは1回作ったら3年から5年は継続商売したいところを、我々は新しいCPUを入手すると翌日から新製品として出せるんですよ。そういうメリットがあってOEMのお客様がたくさんついてくれました。
―― なるほど。
椎名堯慶 その後、我々は一般ユーザー向けから組み込み用途専門になっていきましたね。それが我々のビジネスモデルのだいたい終了時期だったんですね。やはり、一つのビジネスモデルとしては15年という寿命でしょうか。65歳のときに、実業の世界から引退を考えていました。
―― 今はおいくつなんですか?
椎名堯慶 81歳になりましたよ。喋り始めたらずいぶん昔のことを覚えていますが、記憶が曖昧な部分もありますね。
―― 今日のお話で、当時の状況が構造的によく理解できました。
椎名堯慶 でもね、やっぱりあのマイコン時代を作ったっていう自負はあります。
―― そうですよ。日本ではめずらしいパソコンのハードウェアベンチャーで独自の時代を作り上げた。その椎名さんに、これからこの世界に取り組む人たちに言葉がいただけるとうれしいです。
椎名堯慶 私はベンチャーを始めるにあたって、用意周到にいろんな準備をしたんですよ。思想的なことでは、王陽明の儒教でした。江戸時代の最後に面白い人たちを生み出したのが儒教なんです。司馬遼太郎の『峠』に出てくる河井継之助という人も、この王陽明の儒学に熱中して、陽明学で有名な儒学者・山田方谷を訪ねて勉強したんです。
王陽明が⾔っていることは「狂え」、狂わずして物事はなし得ないということですよね。これからベンチャーをやる⽅は、イーロン・マスクのように狂うべきだと思いますよ。狂っていると⾔われてもいいですよ。前に横たわっている川が狭くても広くても、思い切って⾶んでほしい。
落ちることを⼼配して⾶ばないようなことはしてほしくないですね。これからのベンチャーの⼈たちには本当に狂ってほしい。そして⽇本をもう⼀度サンライズの国にしてほしいと切実に思いますよ。私は今、宇宙の分野に⾮常に興味を持っていましてね。この分野の企業を応援しているんですよ。彼らは良い意味で狂っているんです。
J-3100:東芝が1987年に発売したIBM PC/AT互換機。日本語モードでは独自の仕様を採用し、IBM PC/ATとの互換性は制限されていた。
AX:1986年にアスキーとマイクロソフトによって提唱されたIBM PC互換機における日本語対応規格。協議会にはNECや富士通など以外で多くのメーカーが参加した。
DOS/V:IBM PC/AT規格でソフトウェアだけで日本語が扱えるのDOS環境。1990年にIBMが開発。
Lotus 1-2-3:1983年にLotus Development社が発売した表計算ソフト。IBM PCの普及に大きく貢献した。
本インタビューは、椎名堯慶氏本人のほか、コンテンツ産業史アーカイブ研究センターの遠藤諭と大石和江が聞き手として参加した。また、元ソード社員の今村博宣氏(1983年入社、株式会社ハフト代表取締役、2月に逝去された)、大久保洋氏(1977年入社、株式会社近畿エデュケーションセンター 事業推進室 技術顧問)が同席のもと行われた。
ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センター(HARC)について
本稿で紹介した椎名堯慶氏のインタビューは、ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センター(History of Content Industry Archives Research Center)のプロジェクトの一環として行われた。ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センターは、2025年4月に開学したZEN大学内に設立された研究拠点である。同センターでは、日本を中心としたコンピューター、ゲーム、アニメーション、漫画、出版など、幅広いコンテンツ産業に関する貴重な資料や証言を収集・保存し、オーラル・ヒストリー(口述記録)として体系的に整理、公開することを目的としている。デジタルゲームとその関係資料の保存などに関する研究実績を持つ細井浩一氏を所長に迎え、同大学の教員陣を中心にコンテンツ産業に知見を持つ研究員によって進められる。すでに40件以上のオーラル・ヒストリーを収録しており、2025年度より順次その内容をアーカイブとして内外に公開される予定である。
ZEN大学:https://zen.ac.jp/
コンテンツ産業史アーカイブ研究センター:https://zen.ac.jp/harc
遠藤諭(えんどうさとし)
株式会社角川アスキー総合研究所 主席研究員。MITテクノロジーレビュー日本版 アドバイザー。ZEN大学 客員教授。ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センター研究員。プログラマを経て1985年に株式会社アスキー入社。月刊アスキー編集長、株式会社アスキー取締役などを経て、2013年より現職。趣味は、カレーと錯視と文具作り。2018、2019年に日本基礎心理学会の「錯視・錯聴コンテスト」で2年連続入賞。その錯視を利用したアニメーションフローティングペンを作っている。著書に、『計算機屋かく戦えり』(アスキー)、『頭のいい人が変えた10の世界 NHK ITホワイトボックス』(共著、講談社)など。
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