「凪」創業メンバーの「西尾中華そば」がラーメンWalkerキッチンにて復活!(埼玉県・所沢市)【ピラティスインストラクターの健康的ラーメンライフ♪】第18回
2021年07月13日 12時00分更新
昨年、コロナ禍のなか、すごい煮干ラーメンでお馴染み「ラーメン凪」の創業メンバーで大番頭・西尾了一氏が、西新宿の凪地獄で「西尾中華そば」の復活営業を果たした。2009~2012年まで駒込で営業していた頃から、およそ10年ぶりだ。6か月の期間限定営業を経て、今回7月16~18日の3日間、西尾氏の地元所沢にある「ラーメンWalkerキッチン」に出店! 3年の歳月をかけて、これまでラーメンを通じて築き上げてきたすべてを込めた著書「ラーメン大全」も上梓したばかり。「西尾中華そば」の根源とも言える、20数年のラーメン人生を原点から伺った。
「もともとラーメンがすごく好きで高校時代から食べ歩きをしてたんですね。大学を卒業する前にせっかくだから作ってみたいとアルバイトをしたのが、高田馬場の『博多一風堂』だった。その頃は毎日、店で精鋭のスタッフたちが豚頭でスープを作ってたんです。今日は豚頭を何個入れるとか炊いてから何時間後に崩したほうがいいとか模索しながら、血気盛んな店でしたね。僕も携わってるものが形になっていくのがすごく楽しかった。深夜のバイト終わりに缶ビールでお疲れ様ってやりながら、瓶ビールのほうが美味しいよねって話したら瓶ビールに変わったり、生ビールのほうが美味しいよねって言うと生ビールに変わったり、よいと思うものをどんどん取り入れていく、やりがいのある仕事でした」
―卒業後は就職してラーメンから離れたんですよね。
「そうです。卒業して営業マンになったんです。いろんなところに営業に行くので、ラーメン本を持って営業先でラーメンを食べる、よくあるパターンです(笑)。そこで、やってることがダイレクトに返ってくるラーメン屋での仕事を思い出して、やっぱりラーメン屋になりたいと思ったんですね。会社を辞めて、京都に総本店がある日本橋の『ますたにラーメン』(現在、三越前に移転)に入ったんです。そこは一日800杯くらい出る店で、死ぬほど忙しかった。教えていただいたラーメンの師匠も、あり得ないくらい厳しくて。仕事もすごく細かくて、試食を30分に1回くらいするんです。スープの味は常に変わっていくのですが、その中でも常に100点の味を出そうとタレとスープのバランスを調整してました。チャーシューを作るときも沸騰すると醤油が泡立つ、その泡の粒が細かく流れるようになったときに完成とかね」
―ラーメン作りの根幹となることを教わったと。
「ついていくのがやっとで、一生懸命覚えました。その師匠に、いろんな料理についての悩みや疑問を毎日ぶつけたりしながら、それがなくなってきた時に、そこに残るか、他のラーメン屋にいくか、もっといろんな調理方法を覚えるために学校で勉強するかで悩んで。結局、料理学校に行ったんです。そもそもこの頃から独立希望で、貯金もしながら27、28歳で独立しようと思ってました。でも、ラーメンってすごく奥が深い。一つ一つ覚えるのが精一杯ですぐに独立するのは無理だなあと思って、基本を学ぼうと学校に行ったっていうのもあるんですね。すぐ独立する人もいるんですけど、僕は割と保守的で」
―料理学校を卒業して、独立ではなく次は「麺屋武蔵」に。
「改めてプロフェッショナルを目指そうと思ったんです。当時1~2時間待ちは当たり前の行列店で、全国からそこで働きたいっていう人がたくさんいて、僕もその一人でした。入社後すぐ、現社長の矢都木さんと一緒に御徒町の『麺屋武蔵 武骨』を立ち上げて。矢都木さんが本店に戻った後、僕が3年くらい店長を務めました。その頃、凪の生田と知り合ったんです。本当は独立しても小さなラーメン店をイメージしてたんだけど……。本来、僕は一人でやるタイプで、凪みたいにみんなでワイワイやるタイプじゃないでしょ(笑)」
―それが、なぜ凪に?
「多分、生田が今までいないタイプで、僕とは真逆なんですね。TVチャンピオンの『ラーメン王選手権』の打ち上げで生田と知り合って、それから武蔵にもよく食べに来てくれて、僕もゴールデン街で間借り営業してた凪に食べに行ったり、月に1回一緒にご飯を食べたり。いつの間にか一緒にラーメン屋をやりたいなって(笑)。
彼が『世界中にラーメン屋を出したい! ラーメンの文化、手作りの文化を世界中に広めたい!』ってずっと言ってて。小さい店一つやろうと思ってた僕とは、ほんと真逆。いつか小さい店もできるけど、生田の夢に自分ができることがあるんじゃないかと」
―口説かれた?
「口説かれてないんですよ。僕が一緒にやりたいと思った。それで武蔵を辞めて、凪に入ったのはゴールデン街の営業が終わる頃、最後2か月ぐらいでしたね。その後、立川ラーメンスクエアでラーメントライアウトの第1回(2006年)に一緒に出て優勝して、ゴールデン街の営業をやめて、渋谷で凪をオープンしたんです。渋谷では『お客様が楽しめるような店にしたい』という生田の案で、日替わりラーメンを2年ほど出してました」
―毎日違うラーメンを出すためのアイデアの元は?
「地方に行ったらご当地ラーメンを食べて参考にしましたね。あと豚骨って言っても豚頭だったり背骨だったり、部位によって違いますから、一個一個分解してそれぞれのラーメンを作ったりもしました。部位ごとの味がわかって自分も勉強になるし、『この部位をこういう割合で炊くとうちの豚骨ですよ』とかお話すると、お客さんもちょっとした豆知識になって楽しいじゃないですか。それが自分のラーメンにおける一つの基礎になったかな。
とにかくお金がなくてですね(笑)、給料が出ないときもあったくらい。お金が貯まったら、有田焼のいい丼を買って、その次に製麺機をヤフオクで落として、少しずつラーメン屋として満足いく形に整えていって。予算がなくて、ほとんど中古で開店したんです。
駒込に出店することになった時も、予算は300万円でした(笑)。同時期に出店した『ラーメン凪 立川店』のリニューアルにも関わった後、世界中にラーメン屋を出したいっていう夢の前に、まず一人一店舗持とうということになったんです」
―自家製麺になったのは、その頃から?
「凪本店を開いて半年後、2006年12月くらいです。駒込は3年間一人でやるつもりだったんですけど、結果1年で小林が入店してきました(笑)。香港出店が決まって生田が行くことになり、僕が全体を統括するようになったタイミングで、駒込には小林が入ることになったんです。今、小林は工場長ですが、もともと高田馬場の『渡なべ』にいて、そこを独立した伊藤さんの『らーめん いつ樹』のオープンにも関わってます。
駒込の閉店後、海外事業の先駆けとして、僕はジャカルタに行ったんですが、3か月ほどでオープンしたけど契約もしないまま、負け戦でした。ジャカルタで散々打ちのめされた後、帰国して2週間後には台湾に行ったんです」
―台湾の凪は、今では6店舗も展開するほど大盛況ですよね。
「台湾店も最初は苦戦したんです。初めて仕事をするパートナーさんとは会社の文化が違うし、投資もして工場も作って、ビルの6階に4000~5000万円くらいかけていい店を作ったのに、全然お客さんが来なくて焦りましたね。二人体制で園田は店に、僕は工場で麺やスープを一生懸命作った。ラーメンは美味しくないといけない、それは絶対だから。でも、お客さんが来ないんでティッシュ配りしたり、『いらっしゃいませ』の声が6階の店から1階でも聞こえるように設備を入れたり、とにかく何でもやろうと。1か月後くらいから、ちょっとずつ混むようになって400~500人ほど入る店になったんです。最後は800人もの方が来てくださって。その時、よく店に来てくれたお客さんと仲良くなってご飯食べにいったり、今も親交が続いています」
―友達もできて、台湾はとてもいい思い出ですね。
「そうですね。台湾の後、海外事業部を立ち上げ、いろんな国に行きました。もともと日本の文化を伝えるっていう目的と、逆に海外のいいものも持ってきたいという2つの目的があって。小麦粉や醤油は日本から持ってきましたが、基本は海外の食材を使うようにして、海外でもスープも、チャーシューも、麺も作ってます。『暖簾をくぐれば凪』というつもりでやってました」
―そして、凪地獄で「西尾中華そば」が再開して。
「うちは店舗が全部都心の中心地にあるんで、コロナ禍で本当に会社が厳しくて、倒産の危機もあったんです。少しでも会社の赤字をなくしたい、少しでもお客さんが来てくれるんだったらという思いでスタートしました。もともと『炎のつけ麺』だったのが凪全店のスープを作る工場になって、工場を板橋に移してからは知り合いがスナック『凪地獄』を営業してたんだけど、コロナで営業できなくなって。通販とか色々やったけど、それでも赤字でしたね。通販が一段落して次に何かしないとって時に、『西尾中華そば』をやることになったんです」
「そうしたらラーメン好きな人が来てくれたり、駒込時代のお客様やラーメン屋、友人知人がたくさん来てくれて、本当に嬉しかった。生田も『僕たちの商売は人と人の間でしか仕事ができないし、お客さんが来てくれるからお店が開けられる。来てくれる人がいるなら、いまお店をやろう』って言ってくれて。僕も店舗営業はしばらくぶりなので思い出しながらですけど、やるんだったら一つずつ美味しくしていきたいから毎日ラーメンの改善をしていました。工場に置いてあった30年前の製麺機を持ってきて製麺も始めたり(笑)」
「ただ、会社の仕事も結構あって、店を始めたらつきっきりになるから、それでいいのか悶々としてたんです。それが半年間の週末営業でラーメンがどんどん美味しくなって、もっとやりたくなってきたんですよ」
「『西尾中華そば』で出していたのは鶏と魚介のWスープで、それぞれの寸胴に鶏や乾物が目一杯入ってます。旨味の飽和状態を目指して作っています。麺も食感にも香りにも味にも理想がありますし、何よりスープのとの一体感も意識していました。チャーシューも、オーブンがないから最初は一斗缶で焼いてたんです。その後、安い七輪を買って、炭火焼きチャーシューを始めたり。色々悩みながらの営業でした」
―「西尾中華そば」の営業が3月で終了したと思ったら、ラーメンの著書も手掛けられて。読み進めるとラーメンの書であり、人生の書ともとれるようなことも……深いですね。
「国内や海外でたくさんのラーメンを食べたり作ったりしたおかげで、レシピは1300を超えるものになりました。ご当地ラーメンはラーメンの歴史でもあるので、47都道府県で240レシピほど記載しました。もともと海外のラーメン屋さんや独立志望の人からラーメンの作り方を知りたいという要望がこの本の始まりだったので、ラーメンの入口という簡易なものですが数を集めたので体系的になったのが嬉しいです。他にも多くの人に支援していただいて形にすることができました。拙い部分もありますが、ぜひ手に取っていただけると嬉しいです」
―その勢いに乗って、今度は7月16(金)〜18(日)の3日間、「ラーメンWalkerキッチン」に出店ですね!
「凪地獄での営業で思ったんですけど、同じものを使ってラーメンを作っても、毎日気づきがあって毎日変わるんです。いつも美味しく作っているつもりなんですけどね。その大事さに気づいたのも良かった。
『ラーメンWalkerキッチン』でも、さらに美味しいラーメンを目指して基本を大事に作っていきたいと思っています。地元所沢の皆様にラーメンを食べていただける機会を頂きましてありがとうございます!」
◆ラーメンWalkerキッチン
埼玉県所沢市「ところざわサクラタウン」内の店主ブッキング型ラーメン店。
日本を代表するラーメン店主が入れ替わり立ち替わりで出店し、店主が今、最も美味しいと思うラーメンを提供。
7月は1か月間に11名の店主が登場する「ラーメンの祭典」を開催中。「ラーメン凪」生田大将も7/25(日)〜7/31(土)で出店。
詳細は公式HPをご確認ください。
埼玉県所沢市東所沢和田3-31-3-205
04-2968-7786
JR武蔵野線「東所沢」駅徒歩10分
◆西尾了一 ツイッター
https://twitter.com/aa_san76
大熊美智代 Michiyo Okuma
ラーメン大好きなフリーランス編集者・ライター。ピラティスやヨガのインストラクター、ヤムナ認定プラクティショナー、パーソナルトレーナーとして指導も行なっており、美容と健康を心がけながらラーメンを食べ歩く日々。ラーメンの他には、かき氷、太巻き祭りずし、猫が好き。
本人Twitter @kuma_48_kuma
Instagram @kuma_48anna