【JSTnews3月号掲載】特集2
昆虫の「求愛歌」の仕組みを解明し、ハエや蚊の繁殖を抑える技術へ
2026年03月10日 12時00分更新
声や音は単なる空気の振動に過ぎないが、なぜ私たちはこれらを理解できるのだろうか。その謎に迫るため、ハエや蚊の脳の仕組みを研究しているのが名古屋大学大学院理学研究科の上川内あづさ教授だ。音を使った求愛コミュニケーションである「求愛歌」に注目し、神経回路や分子レベルでの解明に取り組んでいる。求愛行動に関わる蚊の聴覚に干渉できれば、蚊の繁殖を抑制して感染症対策にも応用できる可能性がある。
ショウジョウバエの羽音に着目
ミツバチから対象を切り替え
私たちは会話をする際に、相手が発した音を聞き、音の意味を脳内で処理して反応を返すことで初めてコミュニケーションが成立する。「聞く」という行為では、聴覚器官や脳内の神経回路、情報伝達もまた重要となる。なぜ、私たちは音をコミュニケーションツールとして利用できるのだろうか。こうした疑問に答えるため、ショウジョウバエや蚊の羽音に注目して脳の仕組みを調べているのが、名古屋大学の上川内あづさ教授だ。
上川内さんの研究室では、ショウジョウバエや蚊が羽を震わせる音と、その音を受け取る聴覚器官と脳を研究対象にしている。上川内さんは幼い頃から動物が好きで、同じ生物種の間でしか伝わらないコミュニケーションに興味があったという。「人間は、人間が発する声は理解できますが、鳥のさえずりは理解できません。同じ種の生き物同士がうまくコミュニケーションを取りながら一緒に暮らし、社会を形成したりパートナーを探したりするところが面白いと思い、研究を続けてきました」と振り返る。
上川内さんは、大学と大学院ではミツバチを研究対象としていた。ミツバチは餌の場所を仲間に伝えるために8の字ダンスをするなど、高度なコミュニケーション能力を持つことで知られている。しかし、6年間研究を続ける中で、実験の難しさを感じるようになった。「ミツバチの脳は複雑過ぎて詳細な解析が難しいのです。当時、特定の神経細胞を操作するための遺伝子改変技術もほぼありませんでした」と説明する。
そこで、神経細胞の数が少なく、神経活動を調べる方法が確立していたショウジョウバエに対象を切り替えた。現在の主な研究テーマは聴覚による求愛コミュニケーションだ。昆虫の求愛行動はオスとメスで子孫を残すという目的は同じだが、種類や性別によってパートナー選択の戦略が異なる。上川内さんは、求愛コミュニケーションも聴覚も、昆虫の研究でわかったことを他の生物で比較していくとさらに面白くなると期待している。「人がなぜ音楽に感動するのか、人によって好きな音楽が違うのはなぜなのか、そうしたことにも迫ることができるかもしれません」。
メスは交尾経験の有無で差
受け入れの鍵はドーパミン
ショウジョウバエは体長2~3ミリメートルの昆虫で、100年以上にわたり遺伝学の研究で使われてきた(図1)。オスは、羽を震わせて音を奏でることでメスにアピールする。この音は「求愛歌」と呼ばれており、種によって固有のリズムを持つ。上川内さんが研究に使うキイロショウジョウバエのオスの求愛歌は、約0.035秒ごとのパルス音だ。
メスは求愛歌を聞くことで、オスの求愛を受け入れるかどうか判断する。メスは常に求愛を受け入れるわけではなく、例えば交尾経験のない成熟したメスは交尾意欲が高く、求愛を受け入れやすい。一方、羽化した直後や交尾経験のあるメスは、オスからの求愛を受け入れにくくなる。「同じ求愛歌でも、交尾意欲が高いかどうかで聞こえ方が違うかもしれません。神経細胞レベルではどのような違いがあるのか、その違いは何によって制御されているのか。こうした疑問から研究を始めました」と上川内さんは語る。
まず、ショウジョウバエの触角にある「ジョンストン器官」で聴覚を担う神経細胞に注目。この神経細胞は触角の片側に約200個あり、求愛歌の情報を最初に受け取る。上川内さんは、公開されている遺伝子発現データを解析し、この神経細胞群で神経伝達物質の1つであるドーパミンを受け取るドーパミン受容体が作られていることを突き止めた。
次に、交尾意欲の高い未交尾のメスに、スピーカーからオスの求愛歌を流す実験をした(図2)。すると、音の再生中のみ神経応答が増加すること、そして、ドーパミン受容体の発現を抑制すると神経応答が減少して交尾の受け入れ行動も低下することがわかった(図3)。
一方、羽化した直後や交尾経験のあるメスで同様の実験をしても神経応答は減少しなかった。これらの結果から、未交尾のメスではドーパミンにより求愛歌への感度が高まり、交尾を受け入れやすくなっていることが示された。ドーパミンはヒトも含めた多くの生物に共通して存在する神経伝達物質のため、他の生物についても聴覚応答の調節に使われている可能性がある。
蚊はオスがメスの羽音を聞く
オクトパミンと環状分子が関与
上川内さんはショウジョウバエ以外に、蚊の聴覚と求愛コミュニケーションの研究にも取り込んでいる。きっかけは英ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで博士研究員をしていたスー・マシュー・ポールさんとの出会いだ。スーさんは当時から蚊の研究をしており、英国王立協会主催の研究会で出会った上川内さんへ声を掛けたという。それまでショウジョウバエを対象にしていた上川内さんは、スーさんと出会ったことで蚊とショウジョウバエの類似点や相違点に興味を持ち、並行して研究することにした。
その後、スーさんは2019年に来日し、現在は名古屋大学で共に研究を進めている。「聴覚で求愛コミュニケーションをしていることは共通していますが、蚊ではメスの羽音をオスが聞き付けるため、オスの聴覚が非常に優れています。今までの研究で、ショウジョウバエの性別の違いによる聴覚機能の差はほとんど見られませんでしたが、蚊の聴覚は性差がかなりあり、その違いがなぜ生まれたかも興味深いです」と研究の面白さを語る。
多くの蚊において、オスとメスの出会いの場となっているのは、蚊柱(かばしら)と呼ばれる蚊の大群である。実は、蚊柱にいるほとんどの蚊はオスであり、そこにメスが飛来するとオスは一斉にメスに近づき、交尾を試みる。この時、メスは約500ヘルツの周波数の羽音を出しており、オスはこの羽音を聞き付けるだけでなく、触角先端部にある「鞭節(べんせつ)」をメスの羽音の周波数に近づけるように揺らして感度を高める(図4)。
上川内さんは、この仕組みを解明するため、昆虫が持つ「オクトパミン」と呼ばれる神経伝達物質に注目した。オクトパミンは哺乳類のノルアドレナリンに似た作用があり、行動の調節や学習、記憶などに関わる神経機能を調節する役割がある。
そこで、ネッタイシマカという蚊にオクトパミンを注入すると、鞭節の振動周波数が最大で約200ヘルツ高くなることがわかった(図5)。さらに、オクトパミンの作用を仲介すると考えられている環状アデノシン一リン酸(cAMP)という分子を直接注入しても同様の変化が起こることから、ネッタイシマカの聴覚の調節にはオクトパミンとcAMPが関わっていることを明らかにした。
上川内さんは今後、オクトパミンとcAMPによる振動周波数の調節が実際の求愛行動に関わっているかどうか検証したいと話す。「別の神経伝達物質であるセロトニンも鞭節の振動周波数を高めることがわかっているのですが、オクトパミンとの使い分けについてはよくわかっていません。そうしたことも今後解明できたらと考えています」と、さらなる関心を寄せている。
薬剤不使用の繁殖抑制を模索
蚊柱の形成メカニズムも探る
研究対象としては魅力的な蚊も、人類にとってはマラリアやデング熱などの感染症を媒介する厄介な存在である。現在は薬剤を使って蚊を駆除しているが、すでに薬剤が効かない蚊が現れている。上川内さんは、求愛コミュニケーションにおける羽音や聴覚の役割を解明できれば、音に注目した繁殖制御法の開発につながると期待している。例えば、メスの羽音をオスが聞いても反応できないようにすれば繁殖が抑えられ、蚊を直接駆除しなくても数を減らすことができるだろう。
オスの蚊の高度な聴覚機能を解明することで、音を利用して蚊を捕まえたり追い出したりする装置も開発できるかもしれない。「将来的には実験室だけでなく野外で蚊の行動をコントロールすることを目指しています」と意気込む。ドローンの活用など、すでにいくつかのアイデアを温めているという。
また、蚊柱を形成するメカニズムの解明にも取り組んでいる。蚊柱には数百匹ものオスが集まることもあるが、どうやって形成されるのか、なぜお互いにぶつからないのか、わからないことが多い。蚊柱形成のメカニズムが解明できれば、その仕組みを利用して蚊柱が作られないようにすることで、蚊の繁殖を抑制できるかもしれない。
上川内さんは2025年に優れた業績を上げた女性科学者を表彰する猿橋賞を受賞した。「研究者以外の方からも連絡があり、私の研究内容を知ってくださったことがとてもうれしかったです」と話す。昆虫が聞く世界はどのようなものなのか、その解明が今後もますます進むことに期待したい。

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