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一人起業からわずか1年で急成長!製薬会社からの転身で金継ぎというサステナブルな伝統技術を継承

文●杉山幸恵

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 割れたり、欠けたり、ヒビが入ったりした陶器を漆(うるし)で修繕し、その接着部分を金粉や銀粉などで装飾する金継ぎ(きんつぎ)。古くから日本に伝わる漆芸技法だが、近年は壊れてしまったものを美しくよみがえらせるというSDGsの観点からも注目を集めている。その金継ぎに出会ったことで、大きく人生を変えたのが「株式会社つぐつぐ」代表取締役の俣野由季さんだ。製薬会社勤務、留学、MBA取得などを経て、なぜ金継ぎの会社を起こすことになったのか。俣野さんのライフシフトにまつわるストーリーをお届けする。

俣野さんが代表取締役を務める「株式会社つぐつぐ」のHPでは、金継ぎに関するさまざまな情報を発信

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〝誰かに評価されること〟を求める生き方をやめて、自らの会社を起こすことを決意

 1984年に大阪で生まれた俣野さんは薬学部を卒業した後、製薬会社に就職。薬学部からの進路先としては、薬剤師か製薬会社の研究職、MR(営業)が主だが、「自分ががんばって出した成果の分だけ報酬が上がる、実力主義であるMRに惹かれた」という。

 「仕事を通じて多くのやりがいや学びを得ましたが、働き始めた頃から英語の重要性を強く感じており。独学では限界を感じたため、キャリアアップのために思い切って、カナダへの留学を決意。さらに英語が強みになる時代ではないのでは?と考え、自分が学んできた薬学の背景を生かすためにドイツへも留学しました。また、MRではなく医師として患者を治せたらと考え、ドイツで医学部も受験しましたが合格にいたりませんでした」

 カナダとドイツで5年間学び、2か国の言語を習得した俣野さんは帰国後、製薬会社への再就職を目指すことに。ところが、希望する企業からの内定を得られず、挫折を経験する。そこで、新薬開発に携わる仕事にシフトし、小規模ではあるが臨床研究受託の会社が彼女の英語力を評価し、ようやく職を得ることができた。

 「特に抗がん剤は非常にニーズが高いため、最終的には治験のマネージャーとして英語を使って、国際的な血液がんの治験に携わるまでに。このような会社でのキャリアは非常にやりがいがあるものでしたが、再就職での挫折経験から、自分の実力を証明できるようにと思い、週末を利用してMBA(経営学修士)の取得を目指そうと。会社に勤めながら、カナダの名門校であるマギル大学の週末MBAコースへ進学。同大学の日本校で英語のみのプログラムに挑戦し、ビジネススキルを学びながら英語力と国際的な感覚をさらに磨きました」

英語のMBAスクールが集まるケース・コンペティションに出場した時の様子

 会社員と学生という2足の草鞋を履きながら、忙しい日々を送る俣野さんに、その後の人生を変える転機が訪れる。それは彼女が33歳の時だった。

 「ドイツ留学時代に購入して、大切に使っていたお皿をうっかり落としてしまったんです。とても思い入れのあるものだったのですが、そのまま使い続けるには抵抗があるほど、ヒビが入ってしまい…。でも、どうしても捨てたくなかったので、ネットで〝器 修理〟などのキーワードで検索。そこで、金継ぎという技術に出会いました」

 それまでは破損した器は泣く泣く捨てるしかないと考えていた俣野さんだが、金継ぎを知ったことで、「壊れても新しい価値を持たせて手元に残せる」という考え方に感銘を受けたという。また時を同じくして、MBAの講義で外国人の教授が金継ぎを紹介したことも、俣野さんと金継ぎの運命的な出会いに拍車をかけることとなった。

 「その教授が日本の金継ぎに感銘を受けている姿を見て、むしろ海外の方が日本の素晴らしい伝統技術を理解しているのではないかと感じたんです。器を修理してまた使えるようにするだけでなく、壊れたものに新しい命を吹き込む金継ぎの哲学とその美しさは、私にとって非常に感動的なものでした。この技術を知らない人たちが金継ぎを通じて物を大切にし、捨てずに使い続けるという価値を知ってくれたら素敵だなぁと」

海外では「KINTSUGI」として、アート的な側面でも注目を集めている

 「もっと多くの人にこの素晴らしい技術を広めたいと」と感じた俣野さんは、金継ぎをテーマにした会社の経営計画書をMBAの卒業論文として作成することに。まずは金継ぎを学び、できるだけ早く技術を身につけるため、仕事と学業に加え週に2コマ教室に通った。

 「さらに複数の金継ぎ教室に通うことで、教室や職人によって金継ぎのやり方が異なることに気づき。金継ぎは1つの方法に固定されているわけではなく、多様なアプローチや流派が存在する技術だということを知り、それがまたいっそう金継ぎの奥深さを感じさせてくれました」

 教室で学んだことはその都度復習、繰り返し練習したほか、ブログにもまとめるなど、実践と学びを重ねながら、金継ぎの技術を習得していった俣野さん。しかしながら、MBAの卒業論文を作成しつつも、その時は金継ぎで起業をするつもりではなかったという。それどころか、起業目的でMBA取得を目指したわけでもなかった。

 「でも、1年かけて卒業論文を完成させた頃、気づいたんです。MBAという大きな資格を取っても、どの会社からも自分の価値を十分に評価されないという現実に…。会社員である限り、評価されるためには同僚やチームメンバーと競い合わなければなりません。それは、他人との比較の中でしか自分の価値が決まらないということ。それなら、これからの人生で他人と自分を比べる生き方はしたくないし、〝誰かに評価されること〟を求める生き方をやめようという思いにいたりました」

 自分で会社を起こせば、自分のペースで、誰とも比較することなく、自分のやりたいことに集中できるのではないかと考えた俣野さん。ここで「起業をしよう」と心がシフトした。卒業論文内の経営計画書を作成する中で生まれた〝誰でも自宅で金継ぎが楽しめるキットを作れたら〟というアイデアをもとに、実際に「TSUGUKIT(つぐキット)」という商品を開発。まずはリスクを抑えながら副業という形で金継ぎの事業という、新しい挑戦に踏み出すことにした。その一番の理由として、起業に際して〝お金〟の面に不安を覚えたからだという。

 「資金繰りがうまくいかなければ、事業が続けられないだけでなく、自分自身の生活もままならなくなる恐れも…。安定した収入を確保しながら起業を目指す方法を模索した結果、副業禁止だった勤務先に金継ぎの事業を始めさせてほしいと人事に相談することに。最初は怒られるかもしれない…と不安だったのですが、人事の方が『私も実は芸術的なことが好きなの』と、特別に許可してくださったんです。彼女はとても厳しい人という印象だったのですが、その温かさと理解が大きな支えとなりました。勇気を出して相談して本当によかったと思っています」

 俣野さんが〝本業に影響を与えない範囲〟を条件に副業を認めてもらい、金銭的なリスクを抑えながら事業を始めたのは、コロナ禍で世界が混乱に陥る寸前のタイミグだった。多くの人から「今、起業するのは危険だ」と言われた彼女だったが、「逆に今しなかったらいつするの?」と、コロナに怯えることなく起業を決行した。

 「私一人で起業した当初、事業規模は非常に小さなものでした。資本金として手元資金の300万円を用意しましたが、これは正直に言うとかっこをつけるためのもの(笑)。固定費を抑えるために、店舗を持つのではなく四ツ谷のワンルームアパートの自宅で「TSUGUKIT」を手作りし、通販を中心に運営を行っていました。会社の登記に関しては、自宅住所を登記簿に記載するのが不安だったため、銀座のバーチャルオフィスを契約。もちろん、社員を雇う余裕もありませんでした」

 2020年3月の起業直後から「TSUGUKIT」の開発と制作を開始し、同年5月にはAmazonで販売をスタート。初めの半年間は売り上げが徐々に増える程度で、月に50~80個ほどの販売が続いた。

 「1個1万円の商品であるため、ギリギリ生活ができる利益が出ていました。次第に本業との両立が難しくなり、会社に迷惑をかけるのではないかと感じ、思い切って退職することに。そして、金継ぎ一本に絞ったところ、コロナ禍の〝巣ごもり需要〟も手伝ってか、『TSUGUKIT』の売り上げがどんどん伸びていったんです。そのころには自分一人では手が回らなくなったのでアルバイトを雇用し、材料の大量発注によるコスト削減を図るため、近隣のレンタル倉庫を借りるなど、事業の効率化を進めていきました」

生漆や金粉など材料に加え、筆やへら、スポイト、ゴム手袋といった道具が1セットになった「TSUGUKIT」。金継ぎの工程は、手順書が同封されているほか、YouTube動画でも紹介

 そして、2021年にはついに初の実店舗である「つぐつぐ 恵比寿店」をオープンさせ、金継ぎ修理を受け付けるほか、金継ぎ教室も開催。翌年にオープンさせた浅草店では、観光客や外国人向けの1時間の金継ぎワークショップを開始し、短時間で金継ぎ体験ができるプログラムを提供することでインバウンド需要にも対応している。

 「恵比寿店をオープンしたこと、そしてブログで金継ぎの練習の様子などを発信し続けていたことで、ラジオやテレビ、WEBにも注目いただく機会が増加。そういったメディア露出が事業を広く知ってもらう大きな転機となりました。事業が軌道に乗ったと実感したのは、起業してから1年半ほど経った頃でしょうか。コロナ禍という状況下でリスクをとって店舗を開いた決断や、今まで知られていなかった金継ぎをわかりやすくブログで情報発信していったことが、成功への重要なステップとなったのかもしれません」

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