地域おこし協力隊の制度を利用してライフシフト!活動を通して移住先でシェアキッチンをオープン
岡山県西南部に位置し、西は広島県と隣接する笠岡市は、南には大小さまざまな島が浮かぶ瀬戸内海、北は緑豊かな田園風景が広がるなど、自然に恵まれたエリア。新幹線ののぞみが停車する福山駅から列車で約15分、人口約44,000人の街だ。そんな笠岡市に導かれるように、大阪から地域おこし協力隊として移住したmamikoさん。地域の方と交流をしながら、笠岡市の魅力を広く発信しているほか、2024年4月には笠岡駅前の商店街にシェアキッチンをオープン。精力的に活動するmamikoさんに地域おこし協力隊に応募した経緯や、移住にまつわるストーリーなどを聞いてみた。
すべての画像を見る場合はこちらアパレル業界からデザイナーに転身する過程で見つけた地域おこし協力隊という選択肢
現在、岡山県笠岡市で地域おこし協力隊として活動するmamikoさんは、栃木県の南東部に位置する茂木町の出身。大学進学を機に京都へ上京し、4年間外国語を専攻。その後アパレル会社に勤務し、30歳を目前にして笠岡市へと移住した。縁もゆかりもない地域へ移住するきっかけとなったのは何だったのだろうか。
「28歳ごろまでアパレル会社に勤務していたのですが、給料や休みの面から30代もこの仕事を続けるのは難しいと考えて退社。外国語を勉強したくて、ワーキングホリデーの準備をしていたところ、新型コロナウィルス感染症の流行で海外渡航ができなくなってしまったのです。しばらくは仕事もせずのんびり生活していたのですが、いっこうにコロナ禍が収まる気配がなく…。何か次の仕事に生かせるスキルを習得しようと、オンラインスクールでデザインソフトの使い方などを勉強し始めました」
デザインスキルを習得し、いざ仕事を探そうと思っていた矢先、笠岡市が発行しているフリーペーパー「カサオカスケッチ」編集部が主催するオンラインセミナーを見つける。
「デザインの力で地域を活性化させる的な内容で、楽しそう!と思って参加しました。それまでは大阪か京都で就職しようと思っていたのですが、地方もいいかもと思うように。そこで、『地方で働くならどんな仕事があるのかな』とネットで検索したところ、地域おこし協力隊という制度を見つけ、さらに笠岡市も募集していることを知ったんです。それまで笠岡には行ったこともありませんでしたが、地方に目を向けるようになったきっかけの町だったので、『どうせならここに行こう!』と、移住することに決めました」
地域おこし協力隊とは、人口減少や高齢化などの進行が著しいエリアが、都市地域から移住できる人材を募集。地域ブランドや地場産品の開発・販売・PRのほか、農林水産業への従事、住民支援といった〝地域協力活動〟を行いながら、その地域への定住・定着を図る取り組みのこと。活動内容や条件、待遇は地域によりさまざまで、任期は1~3年のところがほとんどだ。地域おこし協力隊というのはあくまで選択肢の一つで、特にこだわっていたわけではないというmamikoさん。「地方に行きたかった」という目的があり、そこに「笠岡市の地域おこし協力隊の給料がよかったこと」「活動内容がフリーミッションだったこと」が魅力的だったとか。※現在は笠岡市から取り組みを提示するミッション型と提案型の2種類で募集中。
「笠岡市の地域おこし協力隊に応募後すぐに担当職員から連絡があり、一度オンラインで面談をすることに。『まずは笠岡に1度来てみませんか?』と言ってもらったので、数週間後、初めて笠岡市へ。担当職員さんが笠岡市内をいろいろ案内してくれて、その際に協力隊のことなども質問することができました。その後、再度応募書類を提出して書類選考、現地での最終面接を経て、無事に合格。1〜2か月後に移住しました」
もし採用されなかった時のことを考え、次の候補も考えていたmamikoさんだったが、無事に第1希望の笠岡に地域おこし協力隊として着任できることとなり、喜びもひとしおだったそう。
「いざ移住してみたら笠岡市は、意外と便利だし都会だな〜って印象でした(笑)。大阪からJRで行けますし、時間もそんなにかからない。スーパーや薬局などもたくさんあって、生活に何も困らなさそう!と思いました。もともと地元が栃木で、笠岡よりもっと田舎なので、いわゆる思っていた〝移住〟というイメージとはちょっと違ったかもしれません。大阪からちょっと遠くに引っ越したなって感じでした」
「3年間がんばろう!と気合満タンでした」というmamikoさんだが、ほかの協力隊の活動内容を知って、少し不安も感じたという。
「笠岡市には10人ほどの隊員がいるのですが、みんな活動がさまざまで同じことをしている人はだれ一人いません。地元食品を使った商品開発、福祉グループホームの運営、空き家やテナントの利活用、笠岡諸島の観光事業などなど。みなさんとても優秀な方々で、なんだか雲の上の存在みたいというか、『私、大丈夫かな…』と最初は思ってしまいました。もちろん今では、協力隊同士非常に仲がよく、困った時は助け合ったり、時には一緒にイベントを行ったりといい関係を築けています」
そんなフリーミッションの協力隊の活動でmamikoさんがまず取り組んだのは、地域の情報を発信することだった。
「着任してすぐは、SNSを利用して笠岡市のイベントなどを発信したり、地域のイベントのチラシを作成したりしていました。ですので、さまざまなイベントに顔を出したり、ボランティアスタッフをしたり、外食をしてお店の人と仲良くなったり…と。笠岡に知り合いがいなかったので、まずはいろんな人と繋がろうとあちこちに行っていましたね」
お酒を飲むのが大好きというmamikoさんは主に笠岡市の飲食店に行き、客やスタッフと一緒に飲みながら交流を深めていったそう。
「もともと人と喋ったり仲良くなるのは得意なので、順調に地域の方と仲良くなっていけたと思います。でもその反面、『移住者だから』と心無い言葉をかけられることも多々ありましたし、今でもあります…。『よそ者が勝手に住むな!』的な(笑)。協力隊のことを応援してくれる人と、疎ましく思う人と半々といったところでしょうか」
地域の人との交流やさまざまな活動を通して、自分の得意とすることや地域の課題、需要などがわかってきたmamikoさん。徐々に活動内容にも変化が出てきたという。
「半年くらい経って、地域おこし協力隊の存在を知らない地元の方が多いことを感じたんです。笠岡の協力隊はおもしろい方ばかりなのにもったいない!と思い、『snack mamiko』というイベントを企画。駅前のレンタルスペースを借りて、お酒と食事を提供。協力隊と地域の方を呼び、私たちの活動を知ってもらうというイベントを2〜3か月に1回のペースで開催しました。また、自分の活動内容をもっと知ってもらうために『月刊mamiko』というフリーペーパーを作り出したのもこの時期です」
さらにこの時期から、笠岡市内の飲食店やおすすめスポットなどの記事を書くなど、ライターとしての活動もスタート。そして、あっという間に協力隊としての1年間は過ぎた。
「2年目に入り、ずっと行いたかったシルクスクリーンのワークショップを開催。もともと私が生まれ育った栃木の田舎では習い事などの選択肢が少なかったことから、子どもにさまざまな経験をしてほしいという思いが背景にありました」