新横浜ラーメン博物館のウラ話 第19回

ラー博にまつわるエトセトラ Vol.14

あの銘店をもう一度”94年組”がスタート! トップバッターは引退に向けた最後の舞台。目黒「支那そば 勝丸」

文●中野正博

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 みなさんこんにちは。2024年の3月に迎える30周年に向けて、これまで実施してきましたさまざまなプロジェクトが、どのように誕生したかというプロセスを、ご紹介していく「ラー博にまつわるエトセトラ」。

前回の記事はこちら: 札幌ブラックの先駆者 札幌「名人の味 爐(いろり)」

過去の連載はこちら:新横浜ラーメン博物館のウラ話

 2022年7月より、過去にご出店いただいた約40店舗の銘店を2年間かけて、3週間のリレー形式で出店していただく「あの銘店をもう一度」がスタートしました。そして2022年11月7日(月)より、1994年のラー博開業時の8店舗が(現在出店中の熊本「こむらさき」を除く)、3ヶ月前後のリレー形式で出店する「あの銘店をもう一度“94年組”」をスタートします。

 コンセプトは「94年当時の味の再現」。

 “94年組”のトップバッターを飾るのは、目黒「支那そば 勝丸」。

 店主 後藤勝彦さんは、2022年11月11日(金)で80歳を迎え、ラーメン職人歴50年の集大成として、引退に向けた最後の舞台として挑戦をします。

 まずは「支那そば 勝丸」の歴史から。創業者は後藤 勝彦(ごとう かつひこ)さん。

 1942(昭和17)年11月11日、8人姉弟の次男として青森県北津軽郡に生まれる。中学卒業後、高校に通うも1年半で退学。その間、映画館のアルバイトや地元で有名だった「秋常食堂(現在は閉店)」という煮干しダシのラーメンを出す食堂で半年ほど働く。後藤さんにとって秋常食堂の煮干しラーメンは原点であり、ここでアルバイトをしなければラーメンの道に進まなかったかもしれません。その後、東京への憧れがあり、兄を頼って17歳の時に上京。上京後、さまざまな職業を転々とし、2種免許を取得し、タクシー会社へ入社。タクシーの運転手の傍ら、ラーメンを食べ歩き、その頃「ホープ軒」(現・千駄ヶ谷)や、下渡橋の「土佐っ子」が屋台で繁盛しており、いつか自分も煮干しの味で、ラーメン店をやりたいという気持ちになったようです。

1967(昭和42)年ごろの後藤さん

 そして、1972(昭和47)年に軽トラックを改造した移動式屋台でラーメン店を開業。天候や駐車スペースの問題があったものの、徐々に評判となり、数年で1日250杯を売る繁盛店となりました。さらにその繁盛ぶりを見たある番組が「都内三大名物」として紹介し、都内屈指の繁盛店となりました。

屋台でラーメンを作る後藤さん(昭和50年代)

 その後、知り合いから「そろそろ屋台じゃなく店を持てばよい」とアドバイスを受け、1984(昭和59)年8月7日、念願の店舗を持つこととなりました。場所は白金の魚らん坂下近く(東京都港区白金1丁目)。オープン後、屋台時代のお客さんがたくさん訪れ、すぐに人気店となりました。

1984(昭和59)年。念願の店舗を白金に構える

 白金を開業して3年後、旗の台(品川区旗の台)に支店をオープン。そして白金のお店は8年後に立ち退きとなり、本店を目黒へ1992(平成4年)頃に移します。

 そして新横浜ラーメン博物館への出店。当館が後藤氏に出店の話を持ち掛けたのが1992年1月24日。その交渉記録によると「興味はあるが人員不足のため、出店するのであれば旗の台のお店を閉めて出店しなければならない。また失礼ですがこの手の詐欺も多いので慎重に考えたい」と書かれていました。出店を決めた理由について後藤氏に伺うと『岩岡さん(当館の館長)が何度も何度も足を運んでくれたのが一番の理由ですが、世界初のラーメンの博物館といのは、もしかしたら大きな話題になるではないかという期待もありました』とのこと。

  1994(平成6)年3月6日。世界初のラーメンのフードアミューズメントパーク「新横浜ラーメン博物館」がオープンしました。後藤氏によると『オープン前に多くの取材も来ていたので、本店のピークぐらいの混雑は想定していました。しかし始まってみると私の想像の2倍~3倍でした。あの忙しさは今でも忘れられません。仕込みが追いつかず、閉店後、朝2~3時まで仕込みをして、2~3時間の仮眠をとってまた翌日という期間が長く続きました。いや~本当に忙しかったし、きつかったですが、今思えば本当によくやったと思います。』

94年当時の味の再現 極上煮干しラーメン

 後藤さん曰く『私の原点は煮干しです。今でこそ煮干しの濃い味というのは受け入れられていますが、私が30年前に出店したころ初めて食べる方から「煮干しくさい」という声が多くありました。一口で残される方も少なくはありませんでした。私はショックでオープン後すぐに煮干しの香りが強い「マイワシ」から香りがマイルドな「カタクチイワシ」に変えました。これが良かったのか悪かったのかはわかりませんが、今回は元々の「マイワシ」をふんだんに使用した「極上煮干しラーメン」を提供します。昨今、煮干しは高騰してかなり高価になりましたが、惜しみなく使いたいと思います。』

今回使用する境港産の極上「マイワシ」

  最後に店主・後藤 勝彦さんよりコメントをいただきました。

 『若いころは色々な食材を入れたりもしましたが、入れればよいというものではありません。今回のラーメンはある意味引き算のラーメンであり、煮干し本来の良さが伝わる、私らしいラーメンに仕上がっています。このラーメンは私の人生そのものです。ラーメン職人歴50年の集大成として、引退に向けた最後の舞台、是非皆様、足を運んでください。』

 次回は銘店シリーズ第8弾 久留米「大砲ラーメン」について発表させていただきます。 お楽しみに!!

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文/中野正博

プロフィール
1974年生まれ。海外留学をきっかけに日本の食文化を海外に発信する仕事に就きたいと思い、1998年に新横浜ラーメン博物館に入社。日本の食文化としてのラーメンを世界に広げるべく、将来の夢は五大陸にラーメン博物館を立ち上げること。