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「ボカロ世代」に伝えたい、今こそ中森明菜を聞くべき理由

2021年04月03日 06時00分更新

文● 白川 司(ダイヤモンド・オンライン

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Photo:JIJI

最近、1980年代前後の日本の歌謡曲の人気が海外で高まっているという。当時はアイドル全盛期で、人気の双璧といえば松田聖子と中森明菜だった。アイドルの王道を歩んでいた松田聖子に対し、後からデビューした中森明菜はなぜあれほどの人気を勝ち得たのか。(評論家・翻訳家 白川 司)

本音で語る「ルール違反」と
高い歌唱力でトップアイドルに

『少女A』

 中森明菜の人気が沸騰したのは、デビューから2曲目の『少女A』(1982年7月)からだった。

 何度目かのアイドル全盛期時代にあって、中森明菜は当初、歌唱力が高いが、小泉今日子や早見優など華やかなアイドルに比べると地味な存在とみられていた。デビュー当時からいつかはスターになれる逸材とみる向きはあったものの、2曲目で同世代アイドルのトップに立ったことは彼女に注目していた人たちにも意外だったはずだ。

 忘れられない中森明菜のインタビュー記事がある。記者が「『少女A』がヒットして、最優秀新人賞(「日本レコード大賞最優秀新人賞」のこと)がとれると思いますか?」と聞くと、中森明菜はこう答えた。「誰がとるかはもう決まっているから、興味がありません」。

 書店で立ち読みしながら、高校生の私はのけぞるくらいに驚いた。今の若い人には想像できないだろうが、当時のアイドルがこういった本音を語ることはありえなかった。事務所がコントロールして無難なことしか言わせなかったからだ。

 結局その年の最優秀新人賞はジャニーズ事務所の大型新人グループのシブがき隊がとり、予言どおりと言うべきか、のちに日本レコード大賞を2年連続でとる中森明菜は(1985年『ミ・アモーレ』、1986年『DESIRE‐情熱‐』)、新人賞にはノミネートすらされなかった。

 過去の記事では何度も繰り返しているが、日本のアイドルは「未成熟をファンに応援してもらう」という基本構造で成立する。逆に言えば、アイドル側は求められる「未成熟」を演じる必要がある。だとすれば、本当にまだ何も知らないままにデビューして操り人形に徹するか、男性ファンが何を求めているかがわかるくらいの経験と度胸があることが求められる。ほとんどの場合は後者だ。

 中森明菜も後者だったが、それをあえて隠そうとしなかった。むしろ、自分が貧しい家庭に生まれ家族がいかに経済的に苦労してきたか、歌がどれほど自分を救ってきたか、またアイドルにはご法度であろう「芸能界全体の中の自分の地位」などといったことまで語り続けた。

 彼女がアイドルとしての「ルール違反」を犯すごとに、中森明菜人気はさらに高まった。やがて先行する松田聖子に追いつき、聖子&明菜の2大アイドル時代が到来した。

 中森明菜が突出した人気を勝ち得た理由として、楽曲の質が高く歌唱力に恵まれていたことがある。ただ、アイドルとしての人気を考えると、高い歌唱力が強みになるとは限らない。実際、抜群の歌唱力を備えていた松田聖子も、当初はわざとうまさを隠すような演出していたともいわれている。

脱アイドル化する
きっかけとなった2曲

 おそらく時代が中森明菜の味方をしたのだろう。当時、「作り物のアイドル」に飽き始めていた世間の需要に合致した。反対に、松田聖子が従来型アイドルとして頂点を極め、その反動で「ぶりっ子」と落としめられて日本中を巻き込む「聖子バッシング」に至っており、ありのままに自分を語った中森明菜は、アンチ聖子のよりどころとしても理想的な存在だった。

「未成熟の一生懸命」というアイドルの型を壊して、「貧しさすらありのままに自分を語るアイドル」を、中森明菜は成立させた。なぜそれが成立しえたかを説明するのは難しく、天性のスター性があったからだとしか言いようがない。

『スローモーション』

 初期の中森明菜の楽曲を大きく分ければ「情緒系」と「ヤンキー系」の2つのタイプがあった。デビュー曲『スローモーション』(1982年5月)が情緒系、2曲目の『少女A』がヤンキー系、3曲目の『セカンド・ラブ』(1982年11月)が情緒系と、おおよそ交互に作られた。

 だが、共通点もある。それは自己主張をしたくてもできない内向的な歌詞だったことだ。たとえば、情緒系楽曲の名作『トワイライト』(1983年6月)で、主人公は絵はがきに「元気です」と書いて投函するだけ、あとは延々と内面描写が続く。『セカンド・ラブ』に続いて大ヒットしたヤンキー系の『1/2の神話』(1983年2月)では「あいつは男にだらしない」と陰口をたたかれることに「いい加減にして」と悪態はつくが、「私は純粋だ(少なくとも半分は)」と愚痴るのみで、基本的にいずれもピュアで一途な少女像を描いている。

 初期の中森明菜は他のアイドルが手を出せないヤンキー系を歌いこなせることに強みがあった。当時の若者文化は「ヤンキー系」と「サンリオ系」の2つの大勢力がある。アイドルはサンリオ系と相性がよく、ヤンキー系とは本来的に水が合わない。それを熟知する仕掛け人たちは「ヤンキー系アイドル」に挑戦したが、成功例はドラマのイメージを生かした三原順子(現・三原じゅん子)や、おニャン子クラブ出身の工藤静香など数えるほどしかいない。

 また、ヤンキー系の楽曲を「アイドル」として歌いこなすには、水準以上の歌唱力と、曲のイメージに汚されない高貴な清潔感が必要である。素行の悪さや下品さが見えたら「アイドル」ではなくなる(「バラドル」や「汚れ」などの別カテゴリーに移る)。だからこそ、いくら大きな潜在マーケットがあろうとも、アイドルとしてそこで成功するのは稀有だったのである。

 だから、従来の「作り物のアイドル」に飽き始めていたヤンキー系への嗜好(しこう)がある若者が、等身大の自分を隠さない中森明菜に飛びつくのは理解できた。ただし、彼女が同世代でとりわけ自己主張が強かったわけではないだろう。隠すか隠さないかだけだ。ただ、彼女が本来的に持つ潔さが、多くの者に新鮮な印象を与えて、幸運にも多くのファンがついたのだろう。

『十戒』

 ただ、先述のように、ヤンキー系であろうと情緒系であろうと、中森明菜の歌う世界が「ピュアで一途な少女」であることに変わりはなかったのだが、その殻を打ち破ったのが、男を「坊や」と呼ぶ(山口百恵『プレイバックPart2』〈1978年〉の模倣だろう)『十戒』(1984年7月)と、そのあとにリリースされた『飾りじゃないのよ涙は』(同年11月)である。特に『飾りじゃないのよ涙は』は、中森明菜のポジションを根本的に変えるほどの地殻変動を起こした。

 天才ソングライター井上陽水が作った『飾りじゃないのよ涙は』は、おそらく松田聖子の『瞳はダイアモンド』(1983年)、特に最後の歌詞「涙はダイアモンド」に当てつけたものだろう。「何をされても泣いたことがない」という女の子が、涙の重さゆえに絶対に泣くわけがないと強弁する、井上の独特な世界観を、中森明菜はみごとに自分のものにして歌い上げた。

 中森明菜にけんかを売る気などなかっただろうが、この曲は、松田陣営にすれば、松本隆の日常を美しい言葉で包み込んでいく世界観をぶちこわす「殴り込み」にほかならなかった。また、この2曲で殻を破った中森明菜は、それまでなんとなく共存していた松田聖子と、真の意味で敵対(ライバル)関係となり、「アンチ聖子」として脱アイドル化したのである。

 この転換は大きく、中森明菜の歌は成熟した大人がカラオケで歌っても違和感のないものになる。これ以降、中森明菜のファン層は大人の女性を含めて大きく広がっていく。

無国籍の表現者として
アイドルの次のステージへ

『ミ・アモーレ』

 脱アイドルした中森明菜陣営にとって、「一途な少女」を描けなくなることは大きな壁だった。井上陽水のような異才に依頼し続けるという選択肢もあっただろうが、彼女は別の方向に行く。その一つの解となったのが、次の『ミ・アモーレ』(1985年3月)だろう。

 スペイン語で「私の恋人は…」を意味する『ミ・アモーレ』は、もともと『赤い鳥逃げた』というタイトルのもと歌詞がつけられていた。『赤い鳥逃げた』(1985年5月)は従来の一途な少女を描いたものだったが、同じ旋律で「異国」を描いた歌詞に変更されて、『赤い鳥逃げた』は別の曲としてリリースされた。

『DESIRE』

 そのあとに続く『SAND BEIGE』(1985年6月)、『SOLITUDE』(同年10月)、『DESIRE』(1986年2月)、『ジプシー・クイーン』(同年5月)、『Fin』(同年9月)、『TANGO NOIR』(1987年2月)、『BLONDE』(同年6月)を並べると、中東や南米など当時の日本人に知識のない、それゆえにエキゾチズムをかき立てる異国や無国籍な曲が多いことに気づく。

 脱アイドル後の中森明菜は、『ミ・アモーレ』によって無国籍の表現者になることで、次なるステージに進んだのである。

 この中でも特に出色なのは「情熱」とサブタイトルを付けられた『DESIRE』だろう。この曲ではアイドルにはタブーである「野心」が表現され、「ダンス」などの言葉で肉体関係も暗喩されている。すでに中森明菜が「アイドル」ではなくなっていることの証左である。

 この曲では、中森明菜自身が考えた衣装は着物をアレンジし、髪型はボブ、足にはハイヒールという表現しがたい奇抜な衣装で(今なら「和モダン」と呼ばれただろう)、長いハイトーンで歌い上げた。一つの何かにとどまることを拒否しながら、かっこよさが印象に残るという不思議な曲で、『ミ・アモーレ』に続いて日本レコード大賞を受賞し、中森明菜は日本を代表するプロ歌手へと脱皮した。

 ちなみに、日本の音楽界に洗練された形で「中東」を持ちこんだのは、久保田早紀の『異邦人』(1979年)だろう。『異邦人』が破格な売り上げを見せながら、「中東」のマーケットを広げることなく沈んでいったが、久保田という才能がまいた種子は、時を置いて、中森明菜という天才的表現者によって再び開花したのである。

 中森明菜の強みに、幼い頃からモダンバレエを習って表現力のあるダンスができることがあった。「中東」を歌うとき、彼女はそれを体でも表現することができた。

 久保田がまいた中東という種は、『異邦人』のメガヒット以降は表現の壁にぶつかるが、中森明菜は歌で演じることで壁を乗り越えてしまう。砂漠の真ん中で「サハラの夕日をあなたに見せたい」とつぶやいたり、国籍のない虚構性の世界を自由に行き来できる特権を持ち、久保田の抽象的だった中東のイメージを、映像的にリアルに描いた。このときの中森明菜は歌で演じる女優だったと言っていいだろう。

中森明菜の内面を表現した
『LIAR』と『難破船』

『難破船』

 無国籍路線を進む中で、中森明菜は一度だけ日本回帰したことがある。それが加藤登紀子の曲をカバーした『難破船』(1987年9月)である。これは、中森明菜が「歌いたい」と思って選んだ曲であり、与えられた世界を自分のものにしてプロ歌手として演じ続けていた中で、数少ない自己表現の曲だった。

『難破船』はのちに日本中に衝撃を与えるある男性歌手との別離と自殺未遂を先取りした内容に思える。もしかしたら、すでに障害にぶち当たっていて、彼女は自分の芸能人としての人生を成就させるはずだった「結婚」がダメになるという不安を抱え込んでいたのかもしれない。

『LIAR』

 中森明菜が自殺未遂を起こした1989年4月に発売された『LIAR』は、私の知る限り、初期の『北ウイング』(1984年1月)とともにコアなファンが熱烈に支持する名曲である。中森明菜は高音の伸びに比べると低音が若干不安定だが、『LIAR』ではその不安定さが抑制となって耐える女の表現に昇華した。liarは「嘘つき」の意味だが、この曲はうそを重ねる男性との悪夢のような恋愛から自由になろうとする女性の内面を描いている。

 この曲が長く支持されてきたのは、『難破船』同様に「歌う女優」である中森明菜が自己表現に没頭し、多くの女性たちに共感を呼び起こしたからだろう。

 だが、現実の彼女は『LIAR』の中の強く耐える女性ではなく、文字どおり脆弱(ぜいじゃく)な『難破船』だった。山口百恵がヤンキー系女性の特徴である「早い結婚」で芸能生活を成就させたように、中森明菜もそのあとを追うべきだったのだが、不幸にもそうはならなかった。

 そのあとの中森明菜は一気に輝きを失ってしまう。そんな中でも多くのファンが復活を望み、傑出した曲はいくつかあったものの、全盛期の力を取り戻すことはなかった。山口百恵と同様、結婚をゴールに燃え尽きるべきだったのかもしれない。

 ただ、中森明菜の数年間が生み出した奇跡のような名曲群が色あせることはない。生演奏で歌う姿を直接知らない世代が、YouTubeなどを通して中森明菜を評価しているのを見て、うれしいとともに、なぜか「誇らしい」という気持ちになってしまうのである。

※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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