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日銀の長短金利操作は、財政ファイナンスの「第5の方法」

2020年07月01日 06時00分更新

文● 森田京平(ダイヤモンド・オンライン

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写真はイメージです Photo:PIXTA

コロナ対策で財政赤字急増
「禁じ手」を懸念する声

 新型コロナウイルス問題の緊急対策を盛り込んだ巨額の補正予算が編成され、国債が増発される。これに対応して日本銀行は、従来の国債買い入れ上限のめどを撤廃し、無制限に国債を購入する方針を表明している。

 財政法で「禁じ手」とされている国債の直接引き受けに近づき財政ファイナンスの深みに入り込みかねないとの懸念の声も上がる。その可能性はないのか。

 政府債務残高や財政赤字、物価、金融政策(マネタリーベースと短期金利)の100年以上にわたる長期時系列データに基づいて、金融・財政政策の歴史を振り返り、現在の政策の枠組みの意味合いと位置づけを考えてみたい。

 政府が資金を調達する方法としては、日本は歴史的に4つを経験している。

 第1は日銀による国債引き受け(1931年に始まったいわゆる高橋財政)。

 第2がインフレ・ファイナンス(第2次大戦中~直後)、第3が均衡財政であるタックス・ファイナンス(1947~64年度)。

 そして第4が国債発行が常態化したデット・ファイナンス(1965年度~現在)である。

 しかし今後は、新たな「第5の方法」として「インフレなきマネタリー・ファイナンス」が意識される。

 日銀による現行の長短金利操作(イールドカーブコントロール、YCC)は、この「第5の方法」を具現化するツールといえよう。

 ただし、この「インフレなきマネタリー・ファイナンス」が継続し得るためには、日銀の物価安定の目標(CPI前年比2%)が実現しない状態が続くことが前提だ。

歴史に例を見ない政府債務残高
新たな財政ファイナンスに向かう

 日・米・英・独の政府債務残高(GDP比)を過去150年、つまり1870(明治3)年以降について振り返ると、今日に比肩する規模に膨れ上がった時期を見いだすことができる。それは1930~40年代(とりわけ40年代)だ(図表1参照)。

 第2次世界大戦が迫る中、各国が軍備関連の調達を急ぎ政府債務が膨張したことが主因だ。

 ただし図表1に基づいて、2点の確認が必要だ。

 第1は、今日の政府債務残高(GDP比)がすでに1930~40年代のピークを越えているのは、日・米・英・独のうち日本だけだ。

 したがって、以下の議論は日本を主たる対象とする。

 第2に、1930~40年に急膨張した債務残高GDP比は、終戦後の1950年代初頭までに一気に収縮した。それはまさに瞬間蒸発ともいえるスピードだった。

 この経験から考えれば今日でも政府債務残高(GDP比)の圧縮は十分可能かもしれない。だが、結論を先に言えば、当時の債務圧縮の経験は今後の参考にはならず、日本は歴史上、新たな財政ファイナンスの方法に向かうことになるだろう。

 ストックである政府債務残高(GDP比)が財政の持続性を評価する一つの指標である一方、各年度の財政運営の姿勢はフローである歳出と財政赤字に表れる。

 そこで、中央政府(つまり国)の一般会計の歳出と財政赤字(新規財源調達のための国債発行=公債金)の状況を見てみよう(図表2参照)。

 すでに成立した2020年度第2次補正予算を含めると、20年度の財政赤字の対GDP比は17%程度に膨らもうとしている。これは1870(明治3)年以降、150年の歴史においても、先例を見ない膨大な額である

 150年の歴史の中で、日本は2度、均衡財政、つまり新規財源国債を発行しない財政運営を実現した。

 1度目は1874~95(明治7~28)年の21年間、2度目は1947~64(昭和22~39)年の17年間である。

 特に後者は、1947年に成立した「財政法」が、但し書きで建設国債の発行を許容しながらも、原則、均衡財政を謳ったことを背景とする。なお、この法律は今もあるが、1965年度以降、財政赤字は常態化している。

 そして2020年度では、上述したように150年の歴史に例を見ない巨額の財政赤字が記録されようとしている。

「高橋財政」の教訓
金融政策巻き込むと「歯止め」利かず

 財政法制定以前に目を向けると、財政赤字が大きくなった局面として、(1)高橋財政(1931~36年)、(2)第2次世界大戦(1939~45年)を挙げることができる(前出図表2参照)。

 高橋財政とは、高橋是清蔵相(当時)が1931年12月の金輸出再禁止(金本位制の停止)を皮切りに、1936年2月の二・二六事件で命を落とすまでに行った一連の財政・金融政策を指す。

 今から80年以上も前の政策運営ではあるが、この時に、現在でもとられている数々の政策ツールが採用された。

 高橋財政の略史は、財政政策とそれを補完する金融政策の組み合わせに満ちている(図表3参照)。

 高橋財政の端緒は1931年12月13日の蔵相就任当日に行った「金輸出再禁止」だった。

 これによって日本は金本位制から離脱し、円は減価(円安)した。その後も、高橋蔵相は財政政策と金融政策の距離を近づけ、両者を結び付ける政策運営を展開し、それはまさにポリシーミックスと呼ぶにふさわしいかのように見えた。

 なぜ「かのように見えた」のかというと、財政政策と金融政策の距離を近づけすぎたことで、財政健全化を目指した高橋蔵相自身の政策姿勢が、後に軍部との対立を強めたからだ。

 高橋財政後期に当たる1935年、高橋蔵相は公債漸減方針(今日的な表現では財政健全化)を打ち出し、それを翌1936年度予算で実現しようとしたが、軍事費削減に反発した軍部との対立が先鋭化し、後の二・二六事件につながった。

 いったん、金融政策を巻き込む形で財政政策が膨張すると、それに歯止めをかけることがいかに政治的に難しいかを体現したことも、高橋財政の教訓だろう。

 したがって、財政政策と金融政策のポリシーミックスという点のみで高橋財政を評価することはできない。

 そして高橋財政の後、第2次世界大戦(1939年開戦)、あるいは太平洋戦争(1941年開戦)に向けて、財政赤字は高水準で常態化した。

急速に政府債務残高(GDP比)が
収縮した戦後(1940年代後半)

 ただし第2次大戦の前後の時期で興味深いのは、財政赤字の拡大や政府債務残高の膨張だけではない。

 むしろ同残高のGDP比が、終戦直後の1940年代後半に見事に下がったことも注目すべきことだ。(前出図表1参照)。

 では、債務残高GDPが急速に下がった1940年代後半、当時の政府は何を行ったのだろうか。

 戦後の経済の立て直しと債務圧縮を狙った当時の対応策としては、主に(1)預金封鎖、(2)新円切り替え、(3)財産税の創設、(4)戦時補償特別税の創設の4つを挙げることができる(図表4参照)。

 このうち(1)と(2)がインフレ抑制、(3)と(4)が財政再建を狙ったものだ。

「預金封鎖」は(一定の限度額以上の)現金を預金から引き出せなくさせる策である。ただし、これだけでは、すでに市中に出回っている現金に対しては効果がない。

 そこで、預金封鎖とセットで行われたのが「新円切り替え」だった。

 1946年3月3日、それまでの日銀券は「旧券」とされ、法的な通用力を剥奪された。それに先立つ2月25日、「新券」の発行が始まり、限定的に許されていた預金からの引き出しはすべて新円で行われることになった。

 法的通用力を失った旧券は次々と預貯金口座に持ち込まれ、既存の預貯金とともに封鎖された。

 これによって、既存の預貯金だけでなく、すでに市中に出回っていた現金も預貯金に吸収され、封鎖することができた。こうした預金封鎖と新円切り替えによって、通貨の流通速度(=名目GDP/マネーストック)を下げ、ひいてはインフレ率の抑制が図られたのだ。

 なお、預金封鎖は現金を預金に強制的に吸収するものだが、それは通貨の形態が現金から預金に変わるだけで、通貨の量自体が変わるわけではない。しかも、旧券と新券の交換比率は1:1だった。

 つまり、預金封鎖と新円切り替えは通貨を量的に引き締める策ではない。あくまで、通貨の流通速度を急激に下げる(感覚的に言うと通貨の使い勝手を悪くする)ことで、インフレの抑制を狙ったものだ。

 一方、財産税と戦時補償特別税の新設は財政再建を狙ったもので、それぞれの概要は図表4の通りだが、税収を増やすことで財政再建に貢献できるとの考えがあったようだ。

ハイパーインフレ当時でも
マネタリーベースは小さかった

 では、1940年代後半の政府債務残高(GDP比)の減少に、実際に貢献した要素は何だったのか。結論を先に言えば、それはインフレだった。

 先の政府債務残高と同様、日・米・英・独の4カ国について、過去150年のインフレ率を振り返ると、第1次大戦後の独(インフレ率のピークは1923年の前年比約1060億%!!)ほどではないにしても、第2次大戦後の日本が強烈なハイパーインフレに見舞われたことが分かる(図表5参照)。

 これによって政府債務残高GDP比の分母に当たる名目GDPが一気に膨れ上がり、結果的に政府債務残高GDP比は瞬間蒸発したかのごとく縮小した。まさに財政のインフレ・ファイナンスといっていい。

 そのような強烈なインフレがもたらされた1940年代後半の金融政策は、今日と比べて相当の金融緩和が行われたはずだ。そう想像をしながら、日銀券の発行が始まった1885年以降のマネタリーベース(GDP比)、基準貸付利率(2006年8月までは公定歩合)、コールレートの動きを見ると、想像は見事に裏切られる。

 現在のマネタリーベースはGDP比90%を超えつつあるが、このようなマネタリーベースの規模は、日銀券の発行が始まった1885年以降の歴史において一度も例はない(図表6参照)。

 現在に比べたら、日本がハイパーインフレに直面した1940年代後半のマネタリーベースの規模などむしろ小さいとさえいえる。

 マネタリーベースと物価の関係が、いかに曖昧でフワフワとしたものであるかが痛感させられる。

財政赤字を中銀が貨幣化
インフレなきマネタリー・ファイナンスへ

 こうして過去の政府債務残高や財政、金融政策のかかわりを振り返ってみると、今のマネタリーベースの急増は、これまで経験したものとはまた違う「インフレなき財政ファイナンス」の状況と考えた方がいい。

 それは、(1)高橋財政下の1932年に始まった日銀による国債引き受け、(2)第2次大戦中~直後のインフレ・ファイナンス、(3)1947~64年度のタックス・ファイナンス(均衡財政)、(4)1965年度~現在のデット・ファイナンスに続く5つ目のファイナンス方法、つまり財政赤字を結果的に中央銀行が貨幣化する「マネタリー・ファイナンス」である。

 無論、すべての中央銀行はマネタリー・ファイナンスを否定する。日銀の黒田総裁も、日銀の金融政策と政府の財政政策はポリシーミックスの関係にあるのであって、金融政策が財政政策をファイナンス(マネタイゼーション)しているわけではないと説明する。

 しかし、ポリシーミックスとマネタイゼーションは、金融政策が出口を迎えるまで、ほとんど識別できない。

 それは、資産価格の上昇がバブルであるかは、それがはじける(資産価格上昇の出口)まで分からないのと似ている。

 それでも外形的には、今の日銀の政策はマネタイゼーション、つまり政府のマネタリー・ファイナンスに近づいているように思われる。

 政府と中央銀行について、相互に保有している債権・債務(例えば政府の債務であり日銀の資産である国債や、政府の資産であり日銀の債務である政府預金、など)を相殺して連結化した概念は、しばしば「統合政府」と呼ばれる。

 この統合政府の負債側では、歴史上、初めてのことが起きている。すなわち、統合政府外で保有される長期国債をマネタリーベースが上回っているのだ(図表7参照)。

 これは、政府の資金調達が日銀という存在を(暗黙にでも)前提とし始めていることを印象付ける。

 まして歴史に例を見ない規模に膨らみつつある2020年度の財政規模は、もはや日銀による国債買い入れを前提としない限り、想定しがたいものとなっているのだ。

 この意味で、財政政策が主、金融政策が従という色合いが濃くなっている(当然、日銀は否定するだろうが)。長短金利操作(YCC)は両者のこのような関係を具体化させるツールといえる。

 明示的にYCCを導入するかはともかく、他の主要中央銀行(Fed、ECBなど)も長期金利を意識した政策運営に今後、一段と踏み入ることになるだろう。

(クレディ・アグリコル証券チーフエコノミスト 森田京平)

※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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