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ヨネックスを世界一にした創業者・米山稔さんが「最期に伝えたかったこと」

2019年11月20日 06時00分更新

文● 小林信也(ダイヤモンド・オンライン

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ヨネックス創業者・米山稔さん
ヨネックスオープン2015に登場した米山稔さん Photo:YUTAKA/AFLO SPORT

 ヨネックス創業者・米山稔氏が11月11日午前10時12分、老衰のため新潟県内の病院で95歳の天寿を全うされた。

 改めて説明するまでもなく、ヨネックスは世界のバドミントン界で圧倒的な支持とシェアを誇っている。他の競技を見回しても、トップ選手の9割前後が同じメーカーの道具を愛用しているスポーツなど、バドミントンほど競技人口の多い競技では思いつかない。

 バドミントン・ラケットを米山製作所で作り始めたのが1958年。最初はサンバタという当時大手メーカーの下請けだった。サンバタの倒産を機に自社ブランドで販売を始めたのが1961年。やがてヨネックスとブランド名を改め、海外での支持を広げる。これら発展の過程で、開発から営業、広報まですべて先頭に立って走ったのが米山稔氏だった。

 自社のラケットを世界中の選手に使ってもらうにはどうしたらいいか? 世界戦略を展望し、「頂上作戦」を考え出したのも稔氏だ。いまなら当たり前のプロモーションだが、当時はまだ珍しかった。

「世界最高プレーヤーにヨネックスを」
諦めない交渉でキング夫人とも契約へ

 インドネシアの大会を視察したとき、ルディー・ハルトノという高校生選手の才気あふれる試合ぶりに心を魅かれた。後にハルトノが来日したとき、稔氏はすぐラケットを持ってハルトノに会い、専属契約を申し入れた。しかし、他の有名メーカーとの契約が決まっていたため、叶わなかった。

 それでも、稔氏はあきらめなかった。機会あるごとに「木製ラケットが好きだ」というハルトノの要望に合わせ、改良したラケットを届け続けた。数年後、ついにハルトノは稔氏の誠意と高品質のラケットに心を動かされ、ヨネックスと契約した。

 すでに世界のレジェンドになっていたハルトノは、ヨネックスのラケットで全英オープン選手権6連覇、7連覇を果たす。王者ハルトノが選んだヨネックスの評判は勢いを増した。

 こうした実績が実を結び、自社ブランド販売開始から10年後の1971年、ヨネックスは世界一の販売量を誇るバドミントン・ラケット・メーカーとなった。

 やがてヨネックスは、バドミントンで培ったカーボン加工技術を応用し、テニス・ラケット、ゴルフ・クラブなどの製造販売に幅を広げる。テニスでも頂上作戦が実行された。アメリカ進出を模索し、滞在していた小さなホテルの一室で偶然見たテニス中継。テレビ画面の中で存在感を漂わせていたのが当時女王の座にあったビリー・ジーン・キング夫人だった。

 この選手だ!

 ひらめいた稔氏は、キング夫人が来日した際、果敢にアプローチした。ヨネックスのラケットを渡し、契約を申し入れた。すると、知性派で知られるキング夫人は次々に質問を浴びせてきた。そのとき彼女が契約していたラケットと稔氏が渡したラケットを持って、

「この2本で私がサービス打つと、それぞれ秒速何メートルのスピードが出るか?」

 キング夫人の質問にまったく答えられなかった。

「そんなことも知らずに私と契約したいというのですか」

 いわば門前払いだったが、これであきらめないのが稔氏だ。勉強し、改良し、キング夫人を訪ね続けた。その度、課題を提示され、勉強の甘さを指摘された。そして数年後、ついに契約にこぎつけた。

 さらに、キング夫人から紹介された有望な若手選手がマルチナ・ナブラチロワだった。ナブラチロワは圧倒的な実力で一時代を築いた。その手にはヨネックスのラケットがあった。こうしてヨネックスはテニスでも一目置かれる世界的なブランドとなり、伊達公子、マルチナ・ヒンギス、さらには大坂なおみらがその系譜を受け継いでいる。

米山会長が5年前に私に語った
「どうしても書き残したかったこと」

 私は5年前、米山稔名誉会長(当時)から「どうしても書き残したいことがある」との強い気持ちを受けて、聞き書きを引き受けた。それをまとめたのが『越後の雪だるま ヨネックス創業者・米山稔物語』だ。

 私がその役を担った理由は主に2つ。稔氏の長男で当時社長だった米山勉会長と長岡高校の同期でいまも親交がある。そして、「親父が喋ってもみんな理解できない。小林君ならわかるでしょ」と勉君が見込んでくれた“語学力”のおかげだ。名誉会長は昔ながらの新潟弁でお話しになる。どうやら東京育ちの人には聞き取れないらしい。私は同郷の出身、いわばネイティブだから、心置きなく普段の言葉で心情を表現してもらえた。

 書き残したいこと、それは何か?

 当然、それが私の最大の使命だった。ところが、インタビューを重ねても、それらしき話にはたどり着かない。

 最初に東京の本社で会い、次に新潟・塚山の生産本部で会い、稔氏の案内で部外者立ち入り禁止の生産ラインもつぶさに見せていただいた。しかし、会話の中身はそれまでの著書に書かれたものと同じだった。

 おもむろにご自身の戦争体験を語り始めたのは、初対面から4ヵ月後。工場から徒歩数分のところにある塚山のご自宅のリビングだった。

 米山稔氏は第二次世界大戦に従軍し、沖縄戦線に派兵された。慶良間諸島の渡嘉敷島で激しい戦闘を体験している。

「世間では一般的に、赤松隊長の指示で渡嘉敷島の集団自決が起こったとされているのです。そんな命令が、あの状況下で本当にできたのかどうか……」

 稔氏はつぶやき、重い表情で黙り込んだ。慶良間諸島には、集団自決という悲惨な歴史が残されている。

「いやあ、その話を書くべきか、書かない方がいいのか、ずっと考えているのです。前の本を書いたときも、沖縄部隊の戦友たちの事務局に尋ねたら、『米山さん、あんまり余計なことは書かない方がいいよ』と言われてさ。少し触れる程度でやめたんだ」

 稔氏がずっと心の奥に抱えていたのは、重苦しい戦争体験の逡巡だった。集団自決で亡くなった島の人々とは交流があった。大切な命を救うことができなかった。自分自身も逃げ延びるので精一杯だった。

 稔氏が、つぶやいた。

「戦争が終わって、日本が負けた。途端に、それまで自分たちに命令し、服従させていた上官を仕返しのために殺そうとする兵隊もいた」

 戦争は人を狂気にかりたてる。日本人が日本人を殺すだなんて、そんな思考が誇り高き日本人の本質であるはずがない。そう信じたかった。が、終戦の混乱時に稔氏が見せつけられたのは、悲しすぎる日本人の愚かさだった。

「戦争に負けて捕虜になれば、男は殺される、女は強姦される」と刷り込まれていた。敗戦直後、稔氏は米軍に身柄を確保され、捕虜になった。

「檻の中ではあるけれど、アメリカ軍は手厚く保護してくれた。黒人兵たちも明るく、友好的だった」

 稔氏はそこで、アメリカのおおらかさ、人間の尊厳を尊重するアメリカに感銘を受けた。それは、鬼畜米英と教え込まれた極悪なイメージとは対極にあった。世界は広い、そして素晴らしい。

 ヨネックスのモノづくりの魂は、実はそこに原点がある。稔氏がどうしても書き残し、次世代に伝えたかったのはそれだった。

「日本人は素晴らしい国民だ。世界一の製品を作ってそれを確かめたかったし、証明したかった。そして、心のこもった製品を世界中に届けて、平和に貢献したかった」

 日本人の高潔さの証明、世界平和への貢献、米山稔氏にとっての結晶が「ラケット」だったのだ。

 11月15日、長岡での密葬に参列し、最後のお別れをしている間じゅう、小柄だが活力に満ち溢れた米山稔氏の姿が目の前に浮かび、人間のエネルギーの偉大さを改めて思い知った。

 雪深い寒村に生まれ育ち、終生の拠点にした「たった1人の人物」が、素晴らしい理解者や仲間たちの協力に恵まれて、無から有を生み、世界に感動を届けた。1人の人間にさえこれだけの大事が成せる。自分にだって少しはやれるのではないか。ひとりの人間の情熱と行動は無限の力を生み出す。旅立つ米山稔氏にそんな勇気を注いでもらった。

(作家・スポーツライター 小林信也)


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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