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任天堂、ポケモンで活躍、作曲の田中宏和さんに迫る!同姓同名「田中宏和」対談 ──作曲の田中宏和さん

2019年08月04日 06時00分更新

文● ダイヤモンド編集部(ダイヤモンド・オンライン

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田中宏和が田中宏和に会う――。たまたま同じ名前で、同じ時代を生きる二人。偶然なのか、必然なのか。二つの人生における“たまたまの宿命”を覗き見る対談です。ホストは一般社団法人田中宏和の会「ほぼ幹事の田中宏和」。正式な連載になるかどうかは読者の皆さんの反応次第。今回の対談相手は、1957年生まれでゲームミュージックの創生期からその渦中で活動を続け、現在はゲーム関連の企画制作会社経営者でもある「作曲の田中宏和さん」です。

田中宏和の中で
一番有名な田中宏和さん

ほぼ幹事の田中宏和(以下、ほぼ幹事) 作曲の田中宏和さんは、わたくし田中宏和が2番目に会った他人の田中宏和さんです。2003年に初めて「渋谷の田中宏和さん」(第1回参照)に会った翌年でした。

3人の田中宏和
ほぼ幹事の田中宏和(中央)と、渋谷の田中宏和さん(左)と作曲の田中宏和さん(右)のスリーショット

 作家の荒俣宏さんから「色んなコレクターは知っているけど、同じ名前を集めているのは田中くんしか知らない」と、朝日新聞の連載コーナーに推薦してくださったんです。それでせっかくなら新しい別の田中宏和さんに出会いたいと思い、記者の方に「田中宏和の中で一番有名な田中宏和さんと会いたい」とお願いしまして、わたくし田中宏和と渋谷の田中宏和さんと作曲の田中宏和さんのスリーショットが実現できました。

作曲の田中宏和(以下、作曲) あの時は朝日新聞の土曜版でしたが、大きくカラー写真が掲載されて、その後いつもの定食屋に行ったら店のおばちゃんに「新聞に出てたやろ」と言われ、恥ずかしい思いをしました(笑)。

ほぼ幹事 「田中宏和運動」ではいつも恥ずかしい思いをしてもらってすみません。自分でもこんなに大きく発展するとは思いませんでした。

作曲 まだ田中宏和が10名以下の頃は、うちの会社が集合場所になってましたね。

ほぼ幹事 そうでした。当時は作曲の田中宏和さんの会社が日本橋にありました。どこに住んでいるかわからない人たちと待ち合わせるのに、東京駅というのは一番不公平感がないと思ったんです。だから東京駅近くの作曲さんの会社集合なら初対面の田中宏和さんも安心して来られるだろうと考えました。

 その後の懇親の宴会も工夫しました。ベジタリアンの田中宏和さんも、肉しか食べない偏食の田中宏和さんも中華料理店なら何か食べられるだろうと、作曲さんの会社近所の中華で円卓の個室を恒例にして親睦を深めました。

作曲 全員田中宏和というオッさんの集まりは、周りには迷惑やからね。

『田中宏和のうた』のレコーディング風景
オリジナル楽曲『田中宏和のうた』のレコーディング風景

ほぼ幹事 作曲の田中宏和さんといえば、オリジナル楽曲『田中宏和のうた』を一緒に作れたことが田中宏和運動にとっては大きかったです。ちょうど田中宏和さんが10名を超えたくらいの2009年に「そろそろ田中宏和のテーマ曲が欲しいんですが、どうでしょう?」とお聞きしたら、「詩があったら作りますよ」と。

作曲 レコーディングスタジオも本格的やったし、あの時初めて会った田中宏和さんもいたけど、たまたま一人も音痴がいなくて、11人全員でしっかり歌えたのがよかった。YouTubeにアップしたら海外から取材依頼がきたのにはビックリしたね。

京都の丹後地方で
米国文化を浴びた少年期

ほぼ幹事 今日はあらためて、作曲の田中宏和さんのこれまでの人生についてお聞きしたいと思っています。

作曲 昭和32年に京都の丹後地方、海が見え、裏手は山という環境で育ちました。だから小さい頃から自然の中で遊び倒しましたね。海に潜ってはイソギンチャク取って、ナタやノコギリを持って山を駆けずり回ってました。でも夜は真っ暗で、自然の中というのは怖かった。沼なんか落ちたら死ぬしね。だから山に入る時は、ヘビの抜け殻を切り株に垂らして「タコの神様」とか言って、手を合わせて拝んでから奥へ入ったりしてましたよ。

ほぼ幹事 イマジネーション豊かな遊びですね。その頃の自然体験が今も生きていますか?

作曲 今のエンターテイメントの仕事に生きてます。幼い時に自然を見て、それも肌で感じる経験は自分の原型をつくったと思っています。自然というランダムの中に規則性を感じたり、バランス感覚を読み取ったり、美しさを見出す感性が磨かれました。社長業という意味でも、物事を長く続けるための様々なアイディアは、自然体験がベースになった感性から生まれている気がするんです。例えば、物事の本質は運動である。強い運動体は同期性を持つと思っているんです。

ほぼ幹事 われわれも田中宏和「運動」ですからね。

 自然の中で遊ぶ一方で、音楽についてはどうだったんですか?

ソノシートのジャケット
子供の頃によく聴いていたソノシート。

作曲 母が父を説得したんでしょうね。そんなに余裕があったとは思えないのですが、4歳から音楽教室に通い、小学校からピアノを習いました。テレビの「ウルトラマンシリーズ」や「お荷物小荷物」のドラマの音楽が好きでした。ソノシートでサン・サーンスの「動物の謝肉祭」で動物の鳴き声を真似る演奏やドラマ性のある「森の鍛冶屋」も気にいっていました。蓄音機で軍歌唱歌も聞いていましたね。

ほぼ幹事 ジャンルは関係なく音楽を貪るように聞いていらしたのですね。

作曲 そう、そう、とにかく何でも聞いていたのですが、今にして思えば、ドラマの「奥様は魔女」「わんぱくフリッパー」「ローハイド」やベンチャーズなど、アメリカの文化をたくさん浴びました。小学校の高学年になると、ジョニ・ミッチェルやサイモンとガーファンクルの曲を演奏する楽団ものが好きになりました。本人の音楽を聞いてはいないんですよ。もちろんビートルズも聴いていましたが、アメリカの音楽の影響を強く感じています。あと機械が好きだった。

ほぼ幹事 音楽周りの機械ですか?

作曲 テープレコーダーが好きで自分の声やテレビを採ったり、あとゴミとして捨てられているテレビを拾ってきて、ブラウン管を叩き割って部品を板に貼ってました。音楽を聴く時も、一度聴いた後に、次は低音を切って聴き比べてみたりとか。

ほぼ幹事 今とやっていることが変わらないじゃないですか(笑)

作曲 そうなんです。機械をいじるのが好きで、楽器もメカニカルな魅力のあるドラムを小学生ではじめたんです。ドラムを借りてきて自分の部屋で好き勝手に叩いていても親に怒られることは一度もなかった。今から思えば理解のある親ですね。

ほぼ幹事 今、子供にそれをされたら確実に嫌ですね。

作曲 ドラムにいったから、ピアノがあまりうまくならないままに今まできています。むしろピアノが中途半端なのが振り返ると良かったですね。中途半端はいいですよ。自分は根がラテン気質からかもしれないけど。

ほぼ幹事 バンドを組んで人前で演奏はしなかったのですか?

作曲 中学生になって二人組のバンドを作りました。わたしがピアノとギターで、バンド名は「グラス・オニオン」とビートルズ・ナンバーから取りました。文化祭で相方のボーカルが、灯油を口に含んで吹いて火をつけて大問題になったのをよく覚えてますよ。

母親に泣かれて
任天堂に就職

ほぼ幹事 じゃあ、それ以来ずっとバンド活動をされていたのですか?

作曲 そう。大学時代は大阪にいたのですが、キーボード担当でプロになりかけました。大学の電子工学の研究室の教授からは「出て行け」と言われたので無事卒業できて、でも就職する気になれなくてバンドで遠征していたらツアー先に母親から電話がかかってきたんです。「就職しないなら、死ぬ!」と言われたんです。仕方ないから家に帰って、次の日に任天堂に就職することにしました(笑)。

ほぼ幹事 あ、任天堂の内定はもらっていたんですか?

作曲 医療機器メーカーと任天堂を受けました。任天堂の募集要項に「おもちゃの開発」とあって、おもちゃは気楽そうやなぁと思っていたら先に決まったので任天堂にしました。1980年のことです。

ほぼ幹事 その頃の任天堂といえば、京都出身なのでよく覚えているのですが、京阪沿線から見える「花札・トランプの任天堂」の看板の会社のイメージです。

作曲 ちょうど「ゲーム&ウォッチ」が出た年です。いきなり約20人くらいの開発部署に放り込まれて、「基盤の設計せい!」と言われ、古本屋で技術書を買い込んで必死で取り組みました。2年目で業務用、アーケードゲームのドンキーコングやスーパーマリオの開発に関わりました。

ほぼ幹事 まさかその後、世界的な大ヒットを生む現場にいるとは思わないですよね。

作曲 その業務用のゲームが絶好調の時に、時の山内溥社長の指示で撤退。次は家庭用をやれ、でした。開発に伴うリクープの話は全くなく、真実はどうだったかわかりませんが、先輩から「会社から1人あたり月3~4万円の研究費が出てるから」と言われ、自由気ままに電子部品を買い漁り、本当に自由に勉強も含め研究開発に取り組んでました。そしてファミコンが生まれました。

 今でこそゲームミュージックの創生期にいたといわれ、こないだもNETFLIXのドキュメンタリー番組の取材を受けましたが、自分の仕事は、会社の商品開発ということで、音楽を作っている、作曲をしているとは全く思っていませんでした。多分、プログラマーとしても、高いレベルではなかったと思うのですが、そのことが逆に独特な音楽の質を生み出すきっかけとなったと思います。また、中途半端が功を奏したんでしょうね。

ほぼ幹事 と言うものの、今や世界中に作曲の田中宏和さんのゲームミュージックファンがたくさんいるわけじゃないですか。いつ頃からゲームを通じて送り出すご自分の音楽について意識されました?

作曲 30歳くらいでひょっとしたら影響力があるのかなと思いはじめました。「MOTHER」の時も糸井重里さんや鈴木慶一さんという人たちのプロの現場に入らせてもらって、商品を完成するサポート役という感覚でした。

60歳にして
フジロックにデビュー

ほぼ幹事 作曲の田中宏和さんにとっての転機とは、いつでしたか?

作曲 やはり任天堂を辞めたあたりでしょうね。1996年、39歳の頃ですね。ポケモンの石原プロデューサーから「アニメの音楽を作ってくれませんか?」と言われて、やってみたら大ヒットしました。2年後、山内社長に「辞めます」と言いにいったら、社長室に貼ってあったポスターを指差して「あの音楽をやってんねんな!」と言われました。

 任天堂の強さは、京都の町外れの中小企業の野生の強さだと思いますね。のらりくらりとした自由さと思いきった決断力がある。優れたゲーム工房としての強さは、今でもDNAとして残っていると感じますね。

ほぼ幹事 主にポケモンのCGモデルおよびカード開発に携わる企画制作会社の社長として、十数年経営に携わっていらっしゃいます。振り返ってみてどうですか?

作曲 ほぼ運ですよ(笑)。たまたまファミコンができる前の任天堂に入って、その後ポケモンに出合った。どちらもこんなに世界的に広まると思う気持ちは当初はゼロで、こんなに大きくなりました。

ほぼ幹事  2010年頃から作曲の田中宏和さんは「CHIP TANAKA」として、世界のクラブシーンで流れ、踊らせる音楽を送り出されています。去年は60歳にしてフジロックにデビュー、海外公演も成功させられました。

作曲 これまで、オーストラリア、スウェーデンでライブをしてきたけれど、アメリカへの恩返し(笑)というかニューヨークでのライブはいつか実現したいな。去年、アメリカの黒人ドライバーが運転中に自分の曲でノリノリで頭振ってる動画を見て、音楽やっていて良かったなとしみじみ思ったんです。

ほぼ幹事 作曲の田中宏和さんにとって、田中宏和の会はどうですか?

作曲 世の中的には珍しいネタの一つで、でも役に立たないところがええのかな。

 10年くらい前に10人くらいの田中宏和でバスを貸し切って、信州の田中宏和さんに会いに団体旅行したことがあったじゃないですか。あの時、温泉旅館で宿帳に全員が田中宏和と書いたり、全員で温泉に浸かっている時に猿に戻った気がしたんですよ。田中宏和さんたちで温泉の水面を叩いて音楽をつくるとか、全員で奈良の大仏の埃払いの掃除をするとか、そういう匿名性の高い集団としてアートができたら面白いかもね。

ほぼ幹事 アート! 実はわたくしの夢の一つは、ニューヨークの近代美術館(MOMA)で、「田中宏和展」を行うことなんですよ(笑)。

 最後に、田中宏和さんにとって、田中宏和とは何ですか?

作曲 自分です。他人のようで自分自身です。

「たまたまの宿命」対談を終えて

 もしお母さんが田中宏和さんを音楽教室に通わせなかったら、大学卒業してプロの音楽家を目指そうとした息子を、「死ぬ!」と言って引きとめなかったら、どんな人生が続いたのでしょね。
 そして、オリジナル楽曲の『田中宏和のうた』がなかったら、田中宏和運動はあまりテレビで取り上げられることもなく、こんなに広がらなかったのではと思います。
 人生は、時にたまたまの宿命に導かれます。(ほぼ幹事の田中宏和)

対談後のツーショット

※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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