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なぜ川口能活は25年間も現役プロサッカー選手を続けられたのか

2018年11月07日 06時00分更新

文● 藤江直人(ダイヤモンド・オンライン

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川口能活
川口能活選手が今シーズンで現役を引退することを発表しました 写真:長田洋平/アフロスポーツ

日本サッカー界を牽引してきたレジェンドがまた一人、ユニフォームを脱ぐ決断を下した。ワールドカップに臨む日本代表に4大会連続で名前を連ね、ゴールキーパーでは最多、日本歴代でも3位タイとなる国際Aマッチ通算116試合に出場。「炎の守護神」の異名とともにゴールキーパーのステータスをも引き上げた川口能活が、今シーズン限りで現役を引退することが所属するJ3のSC相模原から発表された。横浜マリノス(当時)でプロの第一歩を踏み出してちょうど四半世紀。海外を含めて6つのクラブのゴールマウスを守った43歳が歩んできた、波瀾万丈に富んだサッカー人生を、相模原に移籍した2016シーズン以降にスポットライトをあてながらあらためて振り返った。(ノンフィクションライター 藤江直人)

W杯フランス大会から20年
いまだに現役を続ける数少ない存在に

 競技のジャンルに関係なく、人間である以上は誰もが必ず、現役に別れを告げる決断を下す。51歳の今もJ2の横浜FCでプレーするレジェンド、FWカズからこんな言葉を聞いたことがある。

「そういった日がなるべく近づかないように、努力していきたいよね」

 川口能活も不断の努力を怠らなかった。日々の練習でストイックなまでに自分自身を追い込み、真摯な姿勢を貫くことを信条としてきた。ベストの体重を維持するために1日に5度も体重計に乗り、それこそ100グラム単位の増減にまで気をつかってきた話はあまりにも有名だ。

 静岡県の強豪・清水商業(現清水桜が丘)の守護神として、決勝戦で国見(長崎)を撃破して全国高校サッカー選手権を制したのが1994年1月。高校ナンバーワンキーパーの肩書を引っさげて横浜マリノス(当時)に加入し、2年目の開幕直後からレギュラーの座をゲットした。

 若き守護神を擁したマリノスは1995シーズンのサントリーシリーズを制し、前身の日本リーグ時代からの宿敵・ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)と対峙したチャンピオンシップも制覇。川口は新人王にも輝き、Jリーグチャンピオンの栄光に花を添えた。

 日本が28年ぶりにオリンピックの舞台に立った1996年のアトランタ大会では、グループリーグ初戦で28本ものシュートを浴びながらサッカー王国ブラジル代表を零封。今も語り継がれる「マイアミの奇跡」を成就させたヒーローの一人となり、世界中を驚かせた。

 勢いをそのままにA代表の守護神へ登り詰め、歴代の日本代表がはね返され続けたアジア最終予選を苦戦しながらも突破。アジア第3代表決定戦で対峙したイラン代表を延長Vゴールの末に撃破し、日本を悲願のワールドカップ初出場へと導いた「ジョホールバルの歓喜」では深夜の日本列島を涙で震わせた。

 迎えた1998年のフランス大会。結果は3戦全敗でグループリーグ敗退となったが、それでもファンやサポーターの夢と期待を背負って世界最高峰の舞台に臨んだ22人の代表メンバーの中で、20年がたった今シーズンの開幕時で現役を続けているのはわずか5人だけとなっていた。

 最年少の18歳で選出されたMF小野伸二は北海道コンサドーレ札幌のスーパーサブとして、サンフレッチェ広島との開幕戦の後半26分からピッチに立った。一方でGK楢崎正剛(名古屋グランパス)、FW中山雅史、MF伊東輝悦(ともにJ3アスルクラロ沼津)はベンチ入りしていない。

 ただ一人、川口だけがSC相模原の守護神として先発フル出場を果たしていた。戦いの場をJ3へ求めて3シーズン目で、開幕戦のゴールマウスを守るのは意外にも初めて。対峙したY.S.C.C.横浜のホーム、ニッパツ三ツ沢球技場はマリノス時代に何度もプレーした、思い出深いスタジアムだった。

「1年目はけがで、去年もコンディションがあまりよくなくて出られなかった。チームの始動時からけがもなくいい調整ができて、コンディションを上げてこられたからこそ開幕戦のピッチに立つことができました」

 日本人でただ一人、4大会連続でワールドカップ代表に名前を連ねた。国際Aマッチ通算116試合出場はゴールキーパーで最多で、全体でも歴代3位タイにランクされる。2001年10月にはイングランド2部のポーツマスへ移籍。日本人のゴールキーパーとして初めて海外へ飛び出し、2003年9月にはデンマークリーグのFCノアシェランへ活躍の場を求めた。

 2005年にジュビロ磐田へ移籍し、J2のFC岐阜をへて2016年から相模原の一員となった。弱肉強食が掟のプロの世界に挑んで、今シーズンでちょうど四半世紀。当初は「プロサッカー選手として、25年間もプレーできるなんて思いもよらなかった」と、川口は穏やかな笑顔を浮かべながら振り返ったことがある。

「だからこそ、今こうしてプロのチームで試合ができていることに感謝しないといけない。自分を生んで育ててくれた両親、今現在を支えてくれる家族、そして数多くの指導者がいなかったら今の自分はないので。いろいろな出会いがあったからこそ、今もプレーできているという感謝の思いは絶対に忘れちゃいけない。試合に出るための準備と努力を日々積み重ねて、常に自分と向き合いながらやっていきたい」

2009年の骨折から紆余曲折の日々
最後の舞台にJ3の相模原を選んだワケ

 ゴールキーパーへ向けられる視線を180度変えた先駆者は、波瀾万丈に富んだサッカー人生を歩んできた。2009年9月に右足脛骨を骨折、2012年3月には右足アキレス腱を断裂して長期離脱を強いられた。ともに契約延長を見送られる形で、ジュビロと岐阜を退団している。

 岐阜からの退団が発表される直前のこと。右ひざ痛から約7ヵ月半ぶりに復帰した、アビスパ福岡との2015シーズン最終戦に先発するも4失点を喫して敗れた後に、川口は「このままでは終わりたくない」と偽らざる思いを絞り出している。おそらくはこの時点で、契約満了を告げられていたのだろう。

 それでも、新天地として発足して3シーズン目となるJ3の、それもクラブ創設が2008年と歴史も浅い相模原を選んだ決断は、サッカー界を少なからず驚かせた。実は岐阜からの退団が発表されてから間髪入れずに、まさに電光石火でオファーを出してきたのが相模原だった。

 2015シーズンのオフに届いたオファーは、川口によれば相模原のひとつだけだった。というよりも、ほぼ即決だったがゆえに、その後にどのような動きがあったのかは分からないと屈託なく笑ったこともある。もっとも、例え別のチームから誘われていとしても、川口の決意は変わらなかった。

 相模原の創設者にして現在は会長を務める元日本代表MFの望月重良氏は、母校・清水商業の2学年先輩でもある。岐阜での川口の動向を気にかけていた望月会長は、現役続行を望む川口の思いだけでなく、アビスパ戦でのパフォーマンスもチェックした上で獲得に動いていた。

「このまま終わってほしくない。ウチでもうひと花咲かせてほしい。一緒にやろう」

 交渉の席で投げ込まれた、単刀直入かつ熱い言葉が川口の心を大きく動かした。望月会長からオファーを受けるのは、実は2度目になる。セピア色になりかけている記憶を紐解いていくと、静岡・東海大学第一中学校の3年生だった1990年にたどり着く。

 当時の川口は3年連続で全国中学校サッカー選手権に出場。2年時と3年時には大会優秀選手にも選出されるなど、サッカーどころの静岡でも名前の知れたゴールキーパーとして君臨し、卒業後は系列校の東海大学第一高校へ進学する予定になっていた。

 それでも、清水商業を率いる名物監督、大滝雅良氏はどうしても川口を入学させたかった。そして、スカウトの密命を受けたのが、2年生だった望月氏だった。

「当時の静岡選抜は中学生と高校生が合同で合宿をしていたんですけど、ある時に一緒に参加していた重良さんから『お前、ウチに来い』と言われて。今回が生涯2度目のオファーですね。すぐに声をかけていただいたこともありますし、何よりも相模原の誠意にも応えたかった。必要とされるクラブでプレーしたい、チャレンジしたいという思いから相模原に決めました」

 おそらくは最後のチームになる、という思いもあったのだろう。入団会見の席で「骨を埋める覚悟で」と意気込みを語った川口は、ジュビロの最終年だった2013年と岐阜での2年間を、単身赴任の形でプレーしている。久しぶりに味わう夫人と2人の子どもとの一家団らんも、不惑を超えた川口を喜ばせた。

「単身の時はすごくしんどかった。家族と一緒にいられることは、自分にとって大きな力になりますよね」

最後の出場試合では7失点、
直近では若手に先発を譲る状態に

 一方で年齢を重ねるごとに自分自身の肉体と会話を交わし、疲労からの回復具合などを確認する作業も増えてきた。2017シーズンは14試合で、先発の座を17歳年下の藤吉皆二朗(現奈良クラブ)に譲った。それでも常に万全のコンディションを整えてきた中で、こんな言葉を残してもいる。

「言い方は悪いけど、若い時はどれだけ自分を追い込んでも勝手に回復してくれた。あまり言いたくはないことですけど、年も年なのでやっぱり無理はできないですよね。とは言っても、ある程度は追い込まないとコンディションも上がってこないので、そこのさじ加減は気にするようにはなりました。ただ、練習や試合で実力を証明しないと、生き残っていくこともできない。そこはシビアに考えないといけないし、誰が見ても常にいい状態を見せる、ということは心がけています。多少は無理をしながら、治療とケアも入念に施してしっかりと疲労を取り除くサイクルを、今は大事にしています」

 開幕戦の先発を勝ち取った今シーズンだったが、相模原は4試合を終えて2分け2敗とひとつも白星を手にできず、この間に川口もすべての試合で合計10失点を許していた。そして、敵地でギラヴァンツ北九州と対峙した4月8日の第5節から、22歳の田中雄大が相模原のゴールマウスに立つようになった。

 青森山田高校から桐蔭横浜大学をへて加入したルーキーの田中は、川口がマリノスでJリーグチャンピオンになり、新人王を獲得した1995年生まれ。187cm、78kgのサイズを誇るホープが第5節以降で唯一欠場した、9月2日のガイナーレ鳥取戦で川口が先発に復帰するも、7失点を喫して大敗している。

 このガイナーレ戦が、現時点における川口の最後の出場試合となっている。失点のすべてをゴールキーパーだけの責任に帰結することはできない。それでも何度もゴールネットを揺らされる試合展開は、180cm、77kgと決して大きくはない川口の体に脈打ち、日本サッカー史に残る存在へ昇華させた信条に反していた。

「ピンチで失点するとチーム全体がガクッとなるし、逆に防ぐことで試合の流れを引き寄せられるし、その後の味方の得点にもつながる。そこはゴールキーパーの醍醐味というか、自分自身の真骨頂なので」

 今シーズン限りで現役を引退することが、相模原の公式ホームページ上で電撃的に発表されたのが4日の午後。ユニフォームを脱ぐ決意に至った経緯などを含めて、川口は今月14日に行われる引退会見の席で思いの丈をすべて語るとしている。ただ、ひとつだけ言えることがある。

「ゴールキーパーはワインと同じ。年を重ねるほどに味わいが出る」

 この名言を残したのは、40歳で出場した1982年のワールドカップ・スペイン大会でイタリア代表を3度目の優勝に導いた、守護神にしてキャプテンのレジェンド、ディノ・ゾフだった。8月に43歳になった川口には、この言葉がぴったりと当てはまる。

 いつしか「炎のゴールキーパー」と呼ばれる源になった、最後方から放つ真っ赤な存在感。そして、年齢を重ねるごとに色濃く漂わせてきた、穏やかさを感じさせる青き存在感。対極に位置するオーラを絶妙のバランスで、濃密すぎる経験とともに同居させながら、引退セレモニーが予定される12月2日の鹿児島ユナイテッドとの最終戦(相模原ギオンスタジアム)を含めた残り4試合へ、川口は自然体を貫いていく。


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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