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カレーライス誕生秘話、国民食は海軍軍医が健康のため発案した

2018年05月18日 06時00分更新

文● 木原洋美(ダイヤモンド・オンライン

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海軍軍医が考案した国民的グルメ、カレーライス誕生秘話

病気の背景まで
網羅的に診よ

 日本人の国民食、カレーライス――。

 そのルーツが海軍であり、明治時代から食されるようになったことはかなり知られているが、脚気(かっけ)予防のための健康食として、一人の海軍軍医が考案した事実は、案外知られていない。

 軍医の名は、高木兼寛(たかき・かねひろ)。東京慈恵会医科大学の創設者である。まだ、世界中のどこにも「食事で病気を予防する」という発想が浸透していなかった時代、彼はどうやって「カレーライスを食べれば脚気にならない」などという先進的な確信にたどり着いたのか。考察してみたい。

 脚気は江戸時代には「江戸患い」と呼ばれ、明治・大正時代には結核と並ぶ「2大国民病」と称されるほどポピュラーな病気だった。昭和の初めごろまでは毎年1万人以上もの人が、この病気で亡くなっていたし、現在でも、偏った食生活をしている若者を中心に脚気、あるいは脚気の予備群が存在しているといわれている。

 中でも海軍・陸軍軍人の罹患(りかん)率は高く、病死の最大の要因になっていた。その理由は明白だ。脚気の原因はビタミンB1の不足だが、当時の日本軍は、軍の特権として白米食が提供されていたため、玄米・麦飯等が主食の一般人に比べ、ビタミンB1やタンパク質が大幅に不足していたのである。

 高木は、嘉永2年(1849年)、現在の宮崎市高岡町穆佐(むかさ)に郷士の長男として生まれた。貧富の別なく診療にあたり高潔な人格者として讃えられていた穆佐の医師・黒木了輔に憧れ、医学の道に進むことを決意。18歳で鹿児島の医学校に入学し、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍。明治8年(1875年)には、海軍軍医学校の師であるウィリアム・アンダーソンの勧めで、英国ロンドンの聖トーマス病院医学校(現キングス・カレッジ・ロンドン)に留学する。

 当時は、ドイツを中心とした「研究第一の医学」が他国の医学を圧倒していたが、高木は「貧しい病人のための病院で働く医者を育てることが重要である」とする英国式の「臨床医学」を学んだ。

 貧富の別なく病人を診る。研究室ではなく、臨床医として病人と向き合う。高木は終生、この2つの姿勢を貫いた。

 優秀な成績を得て帰国し、東京慈恵会医科大学付属病院の前身である有志共立東京病院を設立し、「病気を診ずして、病人を診よ」の精神に基づく医療に生涯を捧げた。「病気を診ずして~」というのは、病気を診るのは当たり前で、医者はさらに、その人の生活や生い立ちなどの背景までを網羅的に診るべし、という意味。

 脚気の原因として、食事と栄養を疑った人物ならではの言葉だ。

伊藤博文の後押しで
航海実験が実現

 日英の食事を比較した高木が着目したのは、英国人が、日本人よりはるかに多くのタンパク質(パン、肉)をとっていることだった(※イギリスで使われていた小麦は北米産の高タンパクな小麦だった)。実際、日本の艦船、兵営、学校を視察すると、山盛りの「銀シャリ」と塩辛い「たくあん」が供されていた。「白米のような炭水化物を多くとりすぎ、タンパク質が不足するためにおこる病気である。すなわち食事の栄養欠陥から脚気がおこる」と仮説を立て、「兵食改善」による脚気の予防航海実験でそれを実証しようと考えた。

 海軍食を、パン、肉類を取り入れた食事内容に改善しようとしたのである。しかし当時、脚気はウイルスによる感染症であるという説が有力で、原因が食事にあるとは誰も考えていなかったため、取り組みは難航を極めた。

 風向きを変えたのは明治16年(1883年)、南米に練習航海に出た軍艦「龍驤(りゅうじょう)」が乗組員376名のうち169名の重症脚気患者を出し、そのうち25名が死亡という痛ましい惨事だった。帰途、ホノルル港で野菜や肉を調達して提供すると、患者はなんと全員回復。その報告に確信を得た高木は、伊藤博文に嘆願。明治天皇への拝謁を許され、ようやく航海実験が実現した。

 軍艦「筑波」による航海実験で、大好評を博したのが、留学先のロンドンで覚えた味――イギリス海軍で提供されていたカレー風味のシチューに小麦粉でとろみを付けて、たんぱく質を多く含んでいるということで麦と米を半分ずつ混ぜた麦飯にかけた「ライスカレー」だった。麦を混ぜたおかげで期せずしてビタミンB1の不足も補え、結果、明治18年には海軍の脚気の罹患者数は41名、死亡者数なし、と劇的に改善。海軍は脚気の撲滅に成功する。

 この時に採用されたレシピが、海軍と共に歩んできた町・横須賀の名物「よこすか海軍カレー」のルーツとなり、今や一番人気のご当地カレーとして、日本中で愛されている。

 さらにもう1つ、『カレーライスと日本人』(森枝卓士著、講談社学術文庫)に興味深いエピソードが紹介されている。

〈明治17(西暦1884)年の12月27日。明治天皇はお昼ご飯にカレーを食べている。デザートにミルフィーユというフランス料理のコースの食事だが、その中に鴨肉のカレーがあった。

 場所は延遼館。日本初の西洋石造風建築物にして、鹿鳴館以前の社交の場。浜離宮内にあって、多くの国賓を迎えた。東京都が2020年のオリンピックまでにこれを復元して、賓客を迎えるということで、その名がまた出てきている。

「御陪食」、つまり一緒に食事をしたその相手も分かっている。伊藤宮内卿。あの伊藤博文である。伊藤が初代総理となるのが、1年後。内閣制度さえなかった時代、伊藤博文と明治天皇が、一緒にカレーを食べていたということなのである。カレー好き、歴史好きには、ちょっとした驚きのエピソードではあるまいか〉

 高木の仮説を信じ、明治天皇につないだのは伊藤博文である。おそらく食事の席は、海軍カレーと高木の話題で盛り上がったに違いない。

現代なら「カレー男爵」と
呼ばれたかもしれない

 明治天皇にも認められた海軍の脚気対策は、陸軍にはなかなか採用されなかった。一説には、いわゆる「メンツ」が邪魔をしたと考えられている。

 この時、高木のライバルとして陸軍の軍医総監を務めていたのは森鴎外(もり・おうがい)。文学者として高名な人物だが、同時に、東京帝国大学出身のエリート軍医として君臨していた。彼は「脚気 ウイルス説」をかたくなに支持しており、栄養説を唱えた高木を猛烈に批判。陸軍への麦飯導入を拒み続けた。

 その裏には、ドイツ医学を学んだ矜持、英国医学への侮蔑があったことは想像に難くない。あわせて、薬ではなく、食事で病気を予防・治療するという発想に対する嫌悪感もあったかもしれない。

 麦飯という庶民の食物が、白米よりも健康にいいと認めるのは、生粋のエリートである彼には、受け入れがたかったのだろう。

 逆に言うと、高木がカレーライスを考案できたのは、カレーの本場インドを領土にしていた英国に留学したからであり、麦飯を導入できたのは、貧富の別なく診療する臨床医だったからなのだ。

 結果、陸軍は日露戦争において約25万人の脚気患者が発生し、約2万7000人が死亡する事態となったのだが、森鴎外は生涯、間違いを改めようとはしなかった。

 一方高木は、明治21年(1888年)、日本最初の博士号授与者(文学・法学・工学・医学各4名)の列に加えられ、医学博士に。さらに明治38年(1905年)には、海軍における脚気撲滅の功績が認められて男爵位を獲得、世間から「麦飯男爵」の異名で呼ばれるようになった。

「麦飯~」という揶揄(やゆ)するような異名には、「白米ごはん」への憧れを捨てきれない、庶民の素朴な想いがつまっている。現代なら、「カレーライス男爵」と呼ばれていたはずだ。

 明治44年(1910年)には、鈴木梅太郎によってビタミンが発見されたが、その礎を築いた高木の業績は今も世界中で高く評価され、「ビタミンの父」という呼び名と共に、語り継がれている。

(医療ジャーナリスト 木原洋美)


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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