「富士ビルヂング」(三菱仲7号館〈第13号館〉、三菱仲5号館〈第15号館〉)「東京會舘ビル」「東京商工会議所ビル」の建設
現在、丸の内二重橋ビルの建っている街区には、もともと北東側に「三菱仲7号館(第13号館)」、南東側に「三菱仲5号館(第15号館)」、南西側に「東京會舘ビル」、北西側に「東京商工会議所ビル」が建っており、のちに三菱仲7号館と三菱仲5号館が解体されて「富士ビルヂング」が建設されました。
・富士ビルヂング
「三菱仲7号館」は、街区北東側に位置していたビルで、旧称は三菱第13号館です。三菱合資会社は丸の内地区に多くの地所や貸事務所建築を保有しており、第12号館に続く第13号館として1907年9月25日に着工、1911年2月28日に竣工しました。1918年に仲7号館と改称され、第二次世界大戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の接収を受けて女子将校・軍属宿舎として利用されました。1960年に取り壊されると、その跡地には富士製鐵ビルヂング(のちの富士ビルヂング)が建設されました。
建物は保岡勝也、内田祥三、福田重義が設計を担当し、小寺金治と三浦錬二が現場監督を務めました。平面計画は各棟ごとに玄関を独立させた棟割長屋形式で、煉瓦造3階建て、地下室付きという当時の貸事務所としては最後の煉瓦造建築の例でした。軒出にはテラコッタを使用し、建築美に優れた意匠を示しました。別館は1924年(大正13年)10月に着工し、翌1925年(大正14年)4月に竣工、竹葉亭が入居しましたが、戦後の接収や建て替えに伴い1960年に取り壊されました。
「三菱仲5号館」は、街区南東側に位置していたビルで、旧称は三菱第15号館です。三菱仲5号館は三菱第14・15・16・17号館として同時に建設された事務所ビル群で、1912年に竣工した丸の内で初期の鉄筋コンクリート造建築群のうちのひとつです。これらの建物は、すべて手作業で半樽を担ぎ上げながらコンクリートを打設するという当時としては重労働の工法で建設されました。
仲通りを挟んで14・16号館、15・17号館がそれぞれ同じ平面・立面を採用しており、南側と同様に北側の街路景観にも統一感を持たせたデザインが施されています。従来の1〜13号館では煉瓦壁が主体でしたが、14号館以降は鉄筋コンクリートおよび鉄骨鉄筋コンクリートが導入されました。ただし14・15号館で採用された鉄筋コンクリート壁の使われ方は、煉瓦壁と類似しており、下層になるほど壁を厚くする点や、壁に設けた突起で大梁を支える点が挙げられます。梁と壁は別々に配筋・打設されており、構造的に一体化していないため、鉄骨梁と煉瓦壁の関係に近い構造となっています。この方式は地震力に対して壁が主体的に抵抗する「壁式構造」の思想によるもので、丸の内における構造技術の転換点として重要な建物群でした。
・東京會舘
「東京會舘」は、街区南西側に位置していたビルで、1922年に田辺淳吉設計によるルネサンス様式の初代本館として開業しました。社交場としての性格を持ち、大正期の西洋文化浸透の象徴的施設となりました。関東大震災後の休館や戦中の大政翼賛会接収、「大東亜会館」としての改称、戦後のGHQ接収などを経て、1946年に本来の営業を再開しました。
1970年6月には、谷口吉郎の設計による2代目本館が着工し、1971年12月に竣工し、宴会場やレストラン、結婚式場、クッキングスクールなどの機能が大幅に拡充されました。現在の3代目本館は丸の内二重橋ビル内に組み込まれており、初代本館の意匠を継承する重厚なアーチ状装飾梁を正面玄関に再現しています。館内では、猪熊弦一郎作のモザイクタイル壁画「都市・窓」をロビーに保存展示するほか、国際規模の催事に対応できる宴会場「ローズ」、初代本館の貴賓室を再現した「バイオレット」など、歴代の意匠が随所に受け継がれています。
・東京商工会議所ビル
「東京商工会議所ビル」は、 街区北西側に位置していたビルで、1878年創設の東京商法会議所を前身とする歴史ある組織の活動拠点として発展してきました。1899年には妻木頼黄設計による赤煉瓦の初代建物が竣工し、ルネサンス様式を採用した近代的なビジネスセンターとして産業振興に寄与しました。しかし、老朽化と機能不足により建て替えが決まり、1960年に二代目建物が完成しました。
二代目東京商工会議所ビルは地上8階、地下3階、塔屋3階の鉄骨鉄筋コンクリート造で、国際会議場や会議室、集会場、貸事務所など多用途に対応する近代的施設として整備されました。外装には当時としては珍しい本磨きの花崗石が全面採用され、隣接する明治生命館との調和を図りつつ重厚なデザインを実現しています。また、道路側の二重サッシによる静音対策、十分な階高による設備更新への柔軟性、計画的な維持保全による機能向上など、長寿命建築としての先見性も備えています。竣工後も空調・電気・防水・エレベーターなどの改修が段階的に行われ、丸の内ビジネス街の象徴的存在となっていました。
1948年3月の空撮。南東側に「三菱仲5号館(第15号館)」、北東側に「三菱仲7号館(第13号館)」、南西側に「東京會舘ビル」、北西側に「東京商工会議所ビル」が建ち並んでいる(出典:国土地理院撮影の空中写真)
富士ビルヂングの建設
富士ビルヂングは、街区東側に位置していたビルで、2015年に建替えのため解体されました。建設地にはかつて三菱仲5号館・仲7号館が建っており、仲5号館は1956年に取り壊され仮設建物が建ち、仲7号館は戦後、外国商社の事務所として使用されていました。これらの建物のテナント移転は比較的スムーズに進んだため、建替え計画は順調に進行しました。
1960年9月3日、大成建設の施工により鉄骨鉄筋コンクリート造、地上9階、地下4階の新ビルの工事が開始されました。主要テナントとして富士製鐵の入居が決まり、1961年1月に「富士製鐵ビルヂング」と命名されました。1962年2月にボイラーの火入れ式が行われ、同年3月15日に竣工しました。外観にはステンレス鋼を多用しており、光の加減で七色に輝くデザインが話題となりました。1970年に富士製鐵が八幡製鐵と合併し、新会社の新日本製鐵が別のビルに本社を移したことに伴い、ビル名称は「富士ビルヂング」に変更されました。
また、隣接する東京會舘との共同建設も行われ、3階から8階の一部は富士ビルの専有部分として連絡通路で結ばれ、空調も富士ビル側で管理されました。一方、宴会場やレストランなどは東京會舘の専有部分として設けられ、地下2・3階は両者の共有部として整備されました。周辺ビルとの一体建て替え計画の進捗により、富士ビルは2014年に閉館し、その後解体されました。
丸の内二重橋ビルの建設
2012年11月に、「東京會舘ビル」「東京商工会議所ビル」「富士ビルヂング」が建っていた街区を一体的に建て替えるプロジェクト「(仮称)丸の内3-2計画」が発表されました。その後、建設地は都市再生特別地区に指定され、容積率は1,300%から1,500%に緩和されています。既存建築物の解体は2015年1月19日に着手され、2015年11月16日に正式に建設工事が開始されました。地下工事では、大深度かつ広大な敷地条件を踏まえ、逆打ち工法と順打ち工法を組み合わせたハイブリッド工法を採用し、安全性を確保しつつ工期短縮が図られました。高層部では躯体施工と仕上げ工事を並行して進められたほか、低層部の宴会場や商業店舗エリアについても、鉄骨ヤードを活用して仕上げ工事を早期に着手するなどの工夫が施されました。設計は株式会社三菱地所設計および東京會舘専有部を日建設計コンストラクション・マネジメント株式会社、施工は大成建設株式会社が担当しました。建物は2018年10月15日に竣工し、同年10月21日に竣工式が執り行われました。
以上で今回の建築ツアーは終了。年月を経て3つのビルが融合した「丸の内二重橋ビル」は、今や丸の内を代表するビルの一つとして周囲と見事に調和しています。丸の内仲通りを歩くと楽しく感じるのは、このビルが持つデザイン力も理由の一つなのかもしれませんね。
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