日本の工業力は世界と比べて大きく劣っている
小平浪平氏は、1888年に栃木高等小学校を卒業後に上京し、14歳で東京英語学校に入学。そのときすでに、四書五経を諳んじることができたというエピソードが残っている。ジャーナリストであり、小説家であった村井弦斎氏の薦めで電気工学を学ぶことを高等学校時代に決意。1896年に第一高等学校を卒業して、東京帝国大学工科大学電気工学科に入学。蒸気機関から電気へと、動力の主力が変わる時勢を捉えて、最先端の技術を学んだ。
東京帝国大学工科大学では、電気の長距離送電や発電機の研究を行ったが、海外の技術を学ぶなかで、日本の工業力が、欧米に比べて大きく遅れていることに驚いた小平氏は、このころから、自分のやるべきことは、日本の工業力を高めることだと思いはじめていた。
学生時代から、自らの力で電気機械を製作したいという志を持っていたが、まずは、発電所や鉱山に勤務し、エンジニアとしての実績を積んだ。藤田組小坂鉱山の電気主任技師であった28歳のときには、同氏が設計した小坂鉱山止滝発電所の試運転に成功。その後、広島水力電気や東京電燈を経て、1906年に久原鉱業所日立鉱山に入社した。
東京電燈時代には、発電所の設計や施工を担当したが、発電機や水車のほか、送電施設もすべて外国製であり、据え付けも外国企業から派遣された外国人技師の指導の下で行わなければならなかった状況を見て落胆。周りの反対を押し切って、約1年で退社。「これらの機械器具を日本で作れるようにしなければならぬ」との思いを強くしたという。
そうした強い意志を持って入社した久原鉱業所日立鉱山では、鉱山王と称された同社の久原房之助氏との話し合いにより、1910年に日立鉱山内に電気機械製作工場を設立して、その地名をもとにして、日立製作所と命名。のちに、このときを日立製作所の創業と位置づけた。日立製作所の第1号製品となる国産初の5馬力誘導電動機(5馬力モーター)を完成させたのも1910年だ。創業時の従業員は約400人だった。
1915年には日立製作所の所長に就任。1920年には久原鉱業から分離独立して、日立製作所を設立し、専務取締役に就任。55歳となった1929年に日立製作所の社長に就任した。
なお、終戦後の1947年には公職追放により、日立製作所の社長を辞任。1951年には公職追放が解除され、日立製作所の相談役に就任したが、同年10月5日に逝去した。享年77歳だった。
雑に扱われて壊れる機械、その修理は日本でやるしかない
1910年に、日立鉱山内に電気機械製作工場を設立する直前までは、工作課として、電気機械製作を担うことになっていたが、その名称は名ばかりで鉱山機械の修理の仕事がほとんどだったという。久原鉱業所が驚くべき勢いで成長を遂げた時期であり、鉱山作業員の機械器具の取り扱いは乱暴で、現場では、モーターが焼けても、少しでも多くの仕事をやるという意識が強く、機械器具の故障は日常茶飯事だった。
鉱山機械の多くは、GEやウェスチングハウスなどの米国製品であり、故障するたび米国に送るわけにいかないため、工作課が修理を担当。徹夜作業が繰り返えされる状態だったという。
小平氏は、「性能が良くて、壊れにくい製品ならば、修理も減らせて鉱山の稼働率もあがる。いつまでも外国製の製品に頼っていないで、良い製品を自分たちで作ることができないだろうか」と考え、久原房之助氏に相談。社内には、電気機械製作事業よりも、鉱山事業への投資を優先したいという空気があったが、小平氏は根強く交渉。それまでの修理経験をもとに、5馬力モーターを完成させたのであった。
だが、当初は苦労の連続だった。小平氏は「モーターは回るもんだが、なかなか回らなかった。やっと回ると、モーターの周りを皆で手をつないで、うれし泣きしながら回ったものだ」と、苦労の様子を明らかにしている。
その後、「鉱山で使うものはどんどん作ろう」と意気込んだものの、変圧器や油入開閉器、電動機、発電機、遮断機、配電盤など、日立製作所が作った製品のほとんどで問題が発生したという。
そのため、事業化を認めた久原房之助氏も、当時は、日立製作所の技術力を信用しておらず、「製作所を育てようとして鉱山を犠牲にすることは困る。立ち行かぬくらいならば潰れてもやむを得ない。製作所は鉱山を当てにせず、むしろ外部の仕事を増やしてもらいたい」と語っていたほどだった。日立製作所は、創業直後から製品を外販することが求められたが、これも厳しい状況が続いた。最初の実績は、1911年に茨城電気に2kVA変圧器を20台納入したことだったが、1913年には、従業員に一時的に休業させる「帰休」を実施せざるを得なかったという。
1914年の第一次世界大戦により、電気機械製品の輸入が途絶状態となり国産に対する受注が増加。だが、ここでも開発の失敗や製品が続き、小平氏は「進退伺い」を用意するところまで追い込まれた。だが、日立製作所は、こうした失敗の経験を繰り返しながらも、品質への取り組みを強化。徐々に信頼を高めていった。
だが、悪いことは続くものである。1919年に変圧器試験場で火災が発生。隣接する大物工場、撚線工場、事務所、倉庫が全焼し、完成品や作りかけの製品のほとんどが燃えてしまったのだ。
小平氏は、「途方に暮れた。いっそ製品事業を止めようかとも思ったが、私はこの事業の前途に相当の自信を持っている。これぐらいのことで、つまずいてはならない。こんなことで落胆してはいけない。この大事によって焼け太り、さらに一層大きくならねばならない」と宣言した。この言葉に奮起した社員たちは、製品の再製作を開始。1920年には、久原鉱業所から日立製作所が独立。小平氏の「日本人の手で電気機械器具を製作し、日本の工業振興に貢献したい」、「外国技術に頼らない日本の技術力の向上が、国内工業の発展に欠かせない」という強い信念が実現されることになる。
創業時から行ってきた発電機や変圧器などの電気機械に加えて、合併した久原鉱業所の水車やポンプ機械も生産。このとき、日立製作所は、日本初の総合電気機械製作経営の端緒を開くことになった。
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