新横浜ラーメン博物館のウラ話 第7回

【連載】ラー博にまつわるエトセトラ Vol.2

ラー博歴代記録を総なめ 和歌山「井出商店」

文●中野正博

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 みなさんこんにちは。2024年の3月に迎える30周年に向けて、これまで実施してきましたさまざまなプロジェクトが、どのように誕生したかというプロセスを、ご紹介していく「ラー博にまつわるエトセトラ」

 今回は、前号でお話ししました「新横浜着 全国ラーメン紀行」の第5弾として、1998年10月から1999年の5月30日まで出店いただいた和歌山「井出商店」についての秘話をお伝えします。

 前回の記事はこちら

ご当地ラーメンブームはここからはじまった ~V字回復までの軌跡~ 

 過去の連載はこちら:新横浜ラーメン博物館のウラ話

 「新横浜着 全国ラーメン紀行」がスタートした当初は「ご当地ラーメン」という文化が中々広まらなかったのですが、第4弾の旭川「青葉」から、「旭川のラーメン? どんなラーメンなの?」といったように、少しずつメディアも騒ぎはじめ、ご当地ラーメンの特集や、ご当地の即席めんなども発売されるようになりました。

 そんな流れの中、旭川ラーメンの次のご当地として私たちは和歌山ラーメンを誘致・紹介することとなりました。今でこそ和歌山ラーメンは知られている存在ですが、当時の和歌山のイメージは「みかん」や「梅干し」くらいでラーメンを連想する人は皆無でした。

1998年出店時の告知ポスター

 私たちは1998年の春に契約を終え、出店の準備をしていたのですが、出店の2ヵ月前にある大きな事件が起こりました。その事件とは、皆様の記憶にも残っていると思いますが「和歌山カレー事件」です。

 この事件が起こったのが7月25日、Wikipediaによると「住民の数を上回るマスメディア関係者が2ヵ月以上も居座り続けるという異常な報道態勢などが連日伝えられた」と書かれているように、井出商店がオープンする直前まで毎日のようにこの事件が報道されておりました。

 私たちはこの報道が長期化することに対し、気が気でなかったのです。

 そんな中、事件から約10日後の8月5日、私たちは和歌山「井出商店」がオープンすることを発表しました。しかし不安をよそに、8月後半から取材が殺到することとなり、オープンまでに多くのメディアに取材をしていただきました。

 何故ここまで取材が多かったのか? 私たちは後にその事実を知ることとなりました。

 先ほど述べましたように、あの事件は全国のメディアが和歌山に駆け付け、長期間滞在していました。

 滞在中、メディアの皆さんは食事として「和歌山ラーメン」を食べていたようで、メディアの間で和歌山ラーメンが大ブームになっていたそうです。中でも井出商店は人気が高く「あの井出商店が首都圏で食べられるのか!」ということで取材が殺到したのでした。

 紆余曲折ありましたが、1998年10月1日、ラー博に井出商店がオープンしました。初日から大行列となり、そこから期間終了となる5月30日までの238日間、一度も列が切れることなく期間を満了したのです。

1998年時の井出商店の外観(左)、当時の行列(右)

井出商店が残した記録
・連続行列日数:238日間
・最大待ち時間:210分(列を作れる場所があればさらに伸びていたと思われます)
・1日平均杯数:893杯(わずか23席)期間中21万2610杯

 そして井出商店は、和歌山ラーメンブームの牽引役となり、「和歌山ラーメン」の名を全国に広めた功績が認められ、1999年3月25日和歌山県知事から「観光功労者感謝状」を授与しました。これもラーメン店としては異例のことで、多額の資金を投下した観光施設ではなく、戦後屋台から始めた1ラーメン店の功績が世間を驚かせました。

 その後、井出商店はお客様からの多くのリクエストにより2003年3月に再出店(2011年12月卒業)していただきました。

 次号は、今では来館者の65%以上が注文する「ミニラーメン」の誕生秘話についてお話ししたいと思います。

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文/中野正博

1974年生まれ。海外留学をきっかけに日本の食文化を海外に発信する仕事に就きたいと思い、1998年に新横浜ラーメン博物館に入社。日本の食文化としてのラーメンを世界に広げるべく、将来の夢は五大陸にラーメン博物館を立ち上げること。