200万人のスキルアップを目標に掲げるSAP、その学習責任者に聞くIT人材教育の現在とこれから
「IT職の就職では学位よりもスキル認定が重要になる」その理由
2022年11月29日 08時00分更新
IT人材の不足は世界的な課題だ。IDCの予測によると、2025年には世界のIT人材不足が400万人規模に達するという。そうした状況下で「2025年までに200万人のスキルアップを目指す」と約束するのが、SAPだ。
SAPが米カリフォルニア州に構える学習センターで、チーフ・ラーニング・オフィサーのマックスウェル・ベッセル(Maxwell Wessel)氏に、SAPが展開する人材教育/スキル学習の取り組みについて聞いた。
無料/有料、オンライン/対面をすべて集約した「SAP Learning」
――ベッセルさんは2020年からSAPのチーフ・ラーニング・オフィサーを務め、SAPにおける人材教育、スキル学習の取り組みを率いています。社内向け、社外向けの両方を担当しているのでしょうか。
ベッセル氏:そのとおりだ。わたしの職務は、SAPの成功を目標として、社内と社外の両方でスキル学習の取り組みを考え、実践するというものだ。
まず社内の取り組みにおいては、11万人のSAP従業員を「スキルトランスフォーメーション」していくことが成功の鍵を握る。われわれの同僚をエンパワーし、彼らのスキル開発のために正しいアプローチとはどんなものなのかを常に考えている。
一方で社外の取り組みも重要だ。開発者、パートナーなど、SAPには2450万人のコミュニティがあるが、彼らのスキル学習もSAPの成功には不可欠だ。ここではオンラインの学習ポータルである「SAP Learning」が重要な役割を果たす。
――SAP Learningとはどんなものなのでしょうか。
ベッセル氏:まずは過去の取り組みから説明させてほしい。SAPでは過去にも、ドキュメンテーション、コミュニティラーニングといった一部のプレミアム学習コンテンツを無料で公開してきた。さらに大規模公開型のオンライントレーニングとして、伝統的な講義スタイルのトレーニングコースである「openSAP」も無料提供してきた。
加えて、SAPは世界47カ所のトレーニングセンターを持っており、ここでプロフェッショナル向けの有料トレーニングコンテンツを提供してきた。そのコンテンツにアクセスできる有料のデジタルコースも用意した。
そして、2021年にこれらを統合したのがSAP Learningだ。ここでは、有料のプロフェッショナル向け認定レベルのコンテンツについても、誰もが受けられるようになっている。トレーニングコースは当初7種類でスタートしたが、現在は24種類に拡大している。
「S/4 HANA」「SucessFactors」などの有料トレーニングでは、テスト用システムでハンズオンが受けられるプレミアムラボアクセスも用意している。また「SAP Business Technology Platform(BTP)」向けに無料で提供するラボシステムもあり、学習者はBTP環境にサインアップして使うことができる。
インストラクターが進める有料のトレーニングも、オンラインと対面の両方で展開している。
――無料と有料、さらにオンラインと対面のすべてのトレーニングがSAP Learningに集約されているわけですね。
ベッセル氏:11月に開催した開発者向けイベント「SAP TechEd」では、認定取得のための有料コンテンツを1万人に無料で提供することを発表した。無料のコンテンツにたくさんの演習問題を組み込んでいるが、これらに正答するだけでは専門知識の証明にはならない。そこで別途、オンラインと対面の両方で試験官付きのテストを行い、専門知識として認定するようにしている。
また学生向けのコンテンツも増やしている。学生専用ゾーンに登録すれば、有料コンテンツ、ラボへのアクセスなども無料で利用することができる。
より多くの学習者を招き入れるため、アプローチを「変革」
――SAPでは「2025年までに200万人のスキルアップを目指す」としています。200万人となると、これまでSAPとの関わりを持ってこなかった人もSAPのエコシステムに呼び込む必要がありますよね。それを可能にする、SAPの学習コンテンツの革新性はどこにあるのでしょうか?
ベッセル氏:わたしの考えでは「イノベーションの源泉は、発明が用途を見出すところにある」。良いアイディアがあっても、実際に使われなければそれは本物のイノベーションとは言えない。
チーフ・ラーニング・オフィサーに着任して学習ポートフォリオを見たとき、まず考えたことは「世界中の学習者がどのように教材を利用しているのか」「どのようにエンゲージしているのか」といったことだった。
SAPは、スキル学習がトレーニングルーム(教室)で行われていた時代に誕生した企業だ。当時はまだ短期間でスキルを構築する必要ななかったため、講師が学習者に一方通行で教えればよかったし、学習者の側からこちらに出向いてくれた。
だが、200万人を対象とするSAP Learningでは、その考え方を大きく変える必要があった。変革のためには「われわれの側から学習者のもとへ出向く」必要があったわけだ。受講場所だけでなく、学習者が学習にあたって抱える問題をよく理解し、それを軽減、解消していく必要があった。
デザインシンキングの実践を通じて、われわれはいくつかの気づきを得ることができた。まず、学習者はGoogle検索やYouTubeで教材を探しているということ。そこでSAPでも、Googleにインデックスされるようにコンテンツの対策を行った。これにより、未知の学習者にもSAPの学習コンテンツを知ってもらう可能性が広がる。
2つめとして、学習者は教材を参照元にしていることもわかった。そこで、すべてのページに「ブックマーク」ボタンを用意し、さらにコードを簡単にコピー&ペーストしたり、編集してシミュレーションしたりできるようにもしている。学習者は認定資格の取得だけを目指して教材を利用しているのではなく、実際に使ってみたいと思っている。ここでもブックマークは役に立つだろう。
3つめの発見は、人々の注意が持続する時間が短くなっているということ。好むと好まざるとに関わらず、われわれはスマートフォンの影響を受けている。昔の技術者ならばオライリー(O'Reilly)の分厚い技術書を数日がかりで読み、学習してくれたかもしれないが、現在はそれよりも短いコンテンツが好まれる傾向にある。そこで、コンテンツのフォーマットは動画を中心とし、さらに2~3分ごとにチャプター区切りも入れている。つまり学習者はコンテンツの中からすぐに、知りたい内容の説明部分に飛ぶことができる。
このように、SAP Learningでは学習者の変化に合わせて、さまざまな面でアプローチを変えた。
――デジタルコンテンツを通じた学習を大きく変革したのはわかりましたが、その一方で対面形式のトレーニングも残しています。「ハイブリッド化」が進んでいるのでしょうか。
ベッセル氏:そのとおりだ。インストラクターが進行するトレーニングの学習者は年間数万人規模に及び、その多くが対面形式をとってきた。現在はオンラインの比率が70%程度まで増えているが、インストラクターが対面で、トレーニングルームで教えるスタイルも残っており、ハイブリッドな形式に進みつつあると言える。
たとえば大規模公開型のオンラインコースに申し込むと、講義はオンラインで進められるが、受講後に課題が出され、それを提出すると講師からのフィードバックが受けられる。一方通行のやり取りではなく、オンラインと対面の両方をうまく組み合わせている。
また、これまでの学びではトレーニングルームという部屋があった。デジタル化してもその役割は必要だと考えており、セルフサービス型の学習者は、SAPエキスパートがいる専用グループに招待され、そこでベストプラクティスなどの情報交換ができる。
たとえばBTPの学習グループでは、学習者どうしがお互いに疑問点を質問し合ったり、SAPから参加している専門家が補足知識を得るための適切なコンテンツを紹介したりしている。
――SAP Learningで提供している学習コースは、SAP関連の知識、スキルに限定されるのでしょうか。
ベッセル氏:たとえば「ビジネスプロセスの統合」というコースならば、SAPで学んだ知識はそのままSAPで実践するのが成果を発揮しやすいだろう。その一方で、たとえば「Order to Cashプロセス」を学べば、その知識はどんなシステムで使うのかに関係なく役立つ。学習そのものはSAPのシステムをベースにして行うが、多くの学習内容はベンダーを問わず使える。
ほかにも「UX基礎」ではJavaScript、HTML、CSSのトレーニングを提供している。また、edX(https://www.edx.org/)にあるMITのサプライチェーンについてのコンテンツなど、パートナーのコンテンツを組み込んでいるものもある。このように、SAP固有かどうかに関係なく「現場で役に立つスキル」として、学習すべきことをきちんと盛り込んだコンテンツを組み立てている。
IT技術職では学位よりもスキル認定が重視されるようになる
――SAPではスキル認定プログラムの価値を強調されています。実際、雇用主はどの程度ベンダーによるスキル認定を重視しているのでしょうか。学位と比べてどうですか?
ベッセル氏:認定プログラムの良いところは、スタートしやすく、かつ実際の雇用につながりやすいところだ。
先ほど紹介したとおり、SAPでは1万人の認定プログラムを無料でサポートする。これにより、今までその機会があたえられていなかった人も、トレーニングを受けてSAPの認定が受けられる。
単にバウチャーをばら撒くのではなく、SAPの学習コミュニティのメンバーとしてコースの履修をサポートし、修了すれば認定を渡す。女性やマイノリティなど、認定取得を通じてITの職を得られたというケースをいくつも見てきた。きっと意味のあるプログラムになるはずだと信じている。
雇用においては、必要条件として大学の学位を求めるケースは減っていると感じる。これまでは、10年前に作成された求人条件を少し変えて募集要項に載せている企業がほとんどで、学位の部分は手が加えられていなかった。しかしここに来て、求人側もじわじわと学位の「役割」を考えるようになっている。求人の条件から学位が完全になくなるとは思わないが、IT業界の雇用に関しては、以前ほど重要視されなくなってきている。
学位の代わりに、スキルを重視したリクルーティングが台頭してきている。米国の「O*NET(Occupational Information Network)」、欧州(EU)の「ESCO(European Skills, Competences, Qualifications and Occupations)」など、職種、能力、知識などを客観的に区分し数値化する動きがあり、これまでの職歴や経験を重視する方向に進んでいる。たとえばエンジニアならば、GitHubのプロフィールでどのような認定資格を持っているのか、デジタルのスキルがあるのかをチェックする、というかたちだ。
SAPでは社内公募を含むすべての求人で、候補者を見るときにスキルプロフィールを見て、適切な役割があるかどうかを検討している。
――そうすると、将来的にはIT職で学位の意味はなくなるのでしょうか?
ベッセル氏:HRの世界では、そうした議論がいまホットなトピックになっている。
まず、ハイテクスキルに対する需要が急激に伸びているという現状がある。わたしはスタンフォード大学で教えているが、2年間のMBA(経営学)プログラムを終えた人は、特殊な世界で成功するために必要なスキルを身につけている人は少ないが、考え方や幅広い理解力を身につけている。
ITやコンピュータサイエンスの学位で興味深いのは、幅広い考え方を持つ卒業生が多く、テクニカルな問題に対してどのように学べば良いのかを知っているということだ。この点は、雇用する側にとって、ある一定の形で配属できるという魅力になっている。
明確になりつつあるのは、トレンドの変化が激しいために、学校で得られるスキルはすぐに古びてしまい、時間の経過とともにその価値が薄れていくということだ。
つまり、エンジニアとしてのスキルを示すという点では、ITの学位の重要性は低下していると言える。これが何を意味するのかというと、既存のシステムについて教えるプログラムではなく、新たに登場する幅広いシステムを理解するための「考え方」や「学習方法」を教えるプログラムの重要性が高まるだろう、ということだ。
――たとえばSalesforceが「Trailblazer」プログラムを提供するなど、他のITベンダーの多くでも開発者の学習支援を進めています。あえてSAPの学習プログラムを選ぶ理由はどこにあると考えますか。
ベッセル氏:人手不足を背景として、テック業界ではSalesforceに限らず各社がスキル開発に投資している。それ自体は素晴らしいことだ。人材不足の解消に向けて、IT業界の各社は一種の“チーム”として取り組むべきだと考えている。
SAP自身の話をすると、SAPの開発者向けコミュニティ「SAP Developer Network」は来年で20周年を迎える。ピアツーピアの学習/開発プログラムという点では、SAPはどこよりも先行して取り組んできた。
それではなぜSAPを選ぶ(べきな)のか。世界のGDPのうち80%近くが何らかのかたちでSAPのシステムを介して取引されているなど、SAPエコシステムの影響力の大きさは言うまでもないが、それ以外に2つのことが言える。
1つめは「サステナビリティ」だ。SAPはサステナビリティの取り組みを進めているが、SAPにしかできないことがあり、Allbirds(サステナブルなスニーカーメーカー)などは、SAPを使うことで環境に配慮した生産方法をとることができている。
2つめは「ビジネスプロセス」。プロセスという言葉は魅力的な言葉ではないが(笑)、製造、サプライチェーン、財務、調達などの専門家がテクノロジー分野に興味があるのなら、SAPは大きなチャンスになる。SAPの機能やプロセスを理解し、ビジネスプロフェッショナルとしてどのように実行するのかを学び、技術的スキルを身につけることができる。これはSAPでしか学べないだろう。