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遠藤諭のプログラミング+日記 第148回

ジャンボ油揚げと上杉謙信と秋葉三尺坊――《アキバ》の由来をとことんさかのぼる

2022年10月04日 09時00分更新

文● 遠藤諭(角川アスキー総合研究所)

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これが世界のアキハバラの原点だ!

 8月2日、3日、3年ぶりの開催となった長岡花火2022を堪能してきた。むかしから、日本一の大花火と言われてきたが、やっぱり体験してはじめて実感するものがある。今回のベスト花火は「故郷はひとつ」ですかね(AQUA Geo Graphicさんのプラネタリウム上映をイメージしたという8K 360度VR)。2日目は小雨まじりの天候だったが、風がこちら向きだったこともあり花火の大きさも音も大迫力で1日目より大満足だった。

 さて、5月にこのコラムで秋葉原の地名の由来について言及した「 ボクらの秋葉原をさかのぼっていくと秋葉三尺坊という人物にたどりつく」の後日談をお届けしたいと思う。

 前回記事に書いたとおり、秋葉原という地名が秋葉神社からきていると聞いて「秋葉神社なら小学校のとき遠足で行ったゾ」となった私だった。私が、生まれたのは新潟県長岡市蔵王町だが、当時、栃尾鉄道という私鉄でトコトコと出かけたのが、栃尾市(当時=現在は長岡市に編入)にあった秋葉神社だったのだ(私が小学生ということは1960年代)。

 この秋葉神社、江戸時代にはコンビニエンスストアなみに存在したのだが、その二大霊山とされるものの1つが、なんと私が小学生のときにでかけた栃尾の秋葉神社だったのだ(秋葉三尺坊大権現 別当常安寺)。

 ほとんど個人的なことなのだが、その後、パソコン雑誌で仕事をしてアキバにはいやというほどお世話になる。個人的にだが、カッキーンと50年ほどの時間をグルンとまたいで大きな円を描くように繋がった感じなのだ。とはいえ、アキバの由来をとことんたどってみるということなら、ASCII.JPの読者の方々も無関係ではないってことで今回もできればお付き合いいただきたい。

 ところで、前回記事では、小学校のときの古い写真まで引っ張りだしたりしたのだが、肝心の栃尾の秋葉神社のいまの姿をお伝えしていなかった。私のなかにちょっとだけそれがひっかかっていたのだが、長岡花火2022に行くことになり、地元の友人Sくんが親切にも車で連れていってくれるという。ということで、長岡!

 まず、JR長岡駅の改札内で出迎えてくれるのがこれ。火焔土器の「馬高」だ。

 小学生のときに、悠久山にあった当時の博物館に展示されていたものを見たショックはありありと覚えている。近年はガチャにもなっている縄文土器だが(もちろんコンプリートでゲットしている)、私は、やっぱりこの「馬高」がいちばん美しいと思う。ムービーは、お行儀よく手に触れることもできず飾られているのではなく、縄文人になって自由に眺めたりいじりまわして見れる気分で作ってみたもの。JR長岡駅に展示されているレプリカをフォトグラメトリさせてもらったものだ(https://metascan.ai/s/QeUx4n)。

 この写真は、長岡花火2022の会場にいく途中にある模型店「龍文堂」。長岡の男の子たちで知らないやつはモグリ。これも、今回のテーマと関係ない写真に見えるが、前回のコラムのとおり私が小学生のときのお話がベースである。というかあまりに懐かしくて掲載させてもらっている。工作で使うニューム管やバルサ材やセメダインなんかを買いに家から遠いのにわざわざ出かけたものだ。長岡花火のためか定休日だと。

 長岡で青春期を過ごした人ならこれのお世話にならなかった人はいないはずのフレンドの「イタリアン」。いまや全国区的に知れ渡るほどになったイタリアンだが、なぜ、そんなに有名なのかというと圧倒的に安くて旨い。なんと350円。奥に見えるのはやはり名物のギョウザ。私がはじめて食べたときはどちらも80円、中学生頃ほろ苦かったコーヒーやソフトクリームは50円だったと記憶するが、きちんとした記録は見つからない(To Be Verified)。

 長岡駅前の目ぬき通りはこれだらけ。映画『峠』もあったので長岡藩を率いた河合継之助のこんな旗が町中にひらひらしている。《米百俵》で知られる小林虎三郎とも学校の教科書には出てこないなぁなんて思っていたが、世界的なスケールの視点の高さにいまさら驚かされる(映画では、継之助が妻にスイス製の立派なオルゴールをプレゼントするくだりがある)。8月にNHK BSの『英雄たちの選択』で河井継之助をやっていた(再放送)。これも私ごとだが、むかしお世話になった稲川明雄さん(河井継之助記念館館長)が出てきてうれしかった。

 さて、そんな今年訪れてみた長岡だったわけだが、秋葉三尺坊の話に入っていくことにしよう。

上杉謙信が作った常安寺、そして秋葉神社!

 ということで、長岡市の中心部から車で30分ほどもすると、いまやジャンボ油揚げで有名になった栃尾の市街地に到着する。私が、でかけたのは8月4日なので、残念ながら日程的に過ぎていたのだが、7月24日に、「日本第一総本廟 秋葉三尺坊大権現 秋葉の火祭り」なるものが開催されたようだ。その資料に、常安寺や秋葉神社にてついふれているので引用させてもらう。

 栃尾は新潟県の中央に位置する長岡市の東側、水と緑に恵まれた自然豊かなまち。戦国の武将・上杉謙信(当時:長尾景虎)が最も多感な青年期を過ごし、旗揚げしたところです。天文17年(1548)、19歳の景虎は、勇猛果敢な栃尾衆を引き連れて春日山城(現在の上越市高田)に入城し、越後の盟主になりました。

 このまちには、今も謙信公の足跡が数多く残されています。その一つに、天文16年(1547)、謙信公は常安寺を建立し、その守護神として秋葉三尺坊大権現(秋葉神社)を秋葉山上に遷宮しました。

 火伏の紙の祭りは、毎年7月24日、三尺坊の祥月命日の夜開かれます。夜8時、暗く静まる秋葉の山に法螺貝の音が響き渡ります。松明を灯す修験者に先導された行列は、常安寺を出て127段の石段を登り、結界の組まれた秋葉公園を目指します。結界正面には、三尺坊を歓請した神輿が据えられます。

 少し補足させてもらうと、秋葉三尺坊は、そもそも栃尾の地があってこそ大権現たりえたといってよい。平安時代末期に信州に生まれ、戸隠、飯縄山で飯縄信仰というものを修行、幼名を周国(かねくに)といった。栃尾の楡原(現在の長岡市楡原)にあった岩野の蔵王堂でさらなる修行をすることで極意を感得。その後、静岡県秋葉山におもむき秋葉三尺坊大権現となり火伏の神として知れ渡ることになったとされる。

 上杉謙信は、常安寺を建立するにあたり、超有名になった秋葉三尺坊大権現をふたたびその修行の地である栃尾にまつったというわけだ。

 昭和54年に建てられた本堂が門の向こうにうかがえる常安寺。前回触れた、藤子作品やドラゴンボールZあたりに出てくるエアスクーターみたいなデザインの杉謙信の兜の前立(まえたて)など貴重な文化財が保存されている。まさに、秋葉三尺坊が獲得した飛行術が、同じ信仰であり同じスタイルのものである。

 常安寺の横から秋葉神社につづく石段が見えてくる。私は、秋葉神社を訪れた遠足のときにこの石段を上ったのか? なんとなく覚えているような覚えていないような、小学生にとってはなかなかの段数だと思うのだが。

 石段を登りきると、遠くに秋葉神社が視界に入ってくる。こんなに綺麗な公園の中に位置していたのか? これも、正直、あまりきちんと覚えていない。

 ようやく秋葉神社に到着!

 たしかに「秋葉大権現」とある。

 広い秋葉公園の中に秋葉神社はある。たしかに小学生が遠足にやってくるのにちょうどよさそうな場所。しかも、私が小学生の頃には栃尾鉄道というトコトコ走る電車が通じていたので、同じく栃尾鉄道でいける悠久山とならぶ行きやすさだったのだと思う(蛇足ながら神田神保町の古書街はほとんどが長岡出身者によって始まったもので悠久堂はこの悠久山からきているそうだ)。

 私の記憶に完全に残っている風景が、秋葉神社の奥の院だった。これは、風雨から守る建屋に収められた奥の院側から秋葉神社の本殿を見たところ。

 この独特なシルエットと木彫の作り込みの印象は私の頭の中にはっきり残っていたのだ。この奥の院、弘化3年(1846)に完成した後、石川雲蝶と小林源太郎により8年の歳月を掛けて彫刻がほどこされた。雲蝶は、越後のミケランジェロとして近年再評価されているなどと調べると出てくる。近づいて見ることはできないが、小学生だった私の心になにしろこれだけが刺さっていた。

 今回は、あいにく雨と台風ということもあって、私の小学生のときの記憶を確認できただけで大満足。岩野の蔵王堂まで足をのばすことはせず秋葉山をあとにした。

 それでも、栃尾にきたからにはジャンボ油揚げを! とういことで、ちらりとお店によって帰ることにした。Sくんの奥さんお勧めお店で、油揚げランチ。とにかく栃尾の油揚げは大きいのだが、低温・高温の2つの鍋で1回ずつ揚げることで、あの中はふかふかの食感を作り出しているそうだ。前回、ほぼテキストにしたと言ってよい『火防 秋葉信仰の歴史』には、昔は、馬市のたつ豊かな土地で油の使用制限がかけられなかったのが栃尾の油揚げの始まりだという説を紹介している。

 それで連想したのだが、長岡花火2022の関係で、長岡市の職員の方から旧山古志村(現新潟県長岡市)のNishikigoi NFTの方たちを紹介された。このプロジェクトそのものについては、公式サイトを見てほしいのだが、なかなか面白いお話も聞けた。というのは、山古志は、人口800人の限界集落といえるようなところだが、彼らの口から「昔は山の中のほうが豊かだった」というセリフが出てきたからだ。

 山古志には、闘牛(牛の角突き)のような文化があり、錦鯉が鑑賞用に作られる発祥の地となったという説得力がある。長岡市の中心部など平地部は、昭和に分水など治水事業が進むまで信濃川の洪水に悩まされていた。「昔は山の中のほうが……」というのは、たぶん本当でそれをすっかり忘れているのが我々なのだと思う。

 

遠藤諭(えんどうさとし)

 株式会社角川アスキー総合研究所 主席研究員。プログラマを経て1985年に株式会社アスキー入社。月刊アスキー編集長、株式会社アスキー取締役などを経て、2013年より現職。角川アスキー総研では、スマートフォンとネットの時代の人々のライフスタイルに関して、調査・コンサルティングを行っている。「AMSCLS」(LHAで全面的に使われている)や「親指ぴゅん」(親指シフトキーボードエミュレーター)などフリーソフトウェアの作者でもある。趣味は、カレーと錯視と文具作り。2018、2019年に日本基礎心理学会の「錯視・錯聴コンテスト」で2年連続入賞。その錯視を利用したアニメーションフローティングペンを作っている。著書に、『計算機屋かく戦えり』(アスキー)、『頭のいい人が変えた10の世界 NHK ITホワイトボックス』(共著、講談社)など。

Twitter:@hortense667

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