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フジテレビプロデューサー赤池洋文が紡ぐ!読むだけで美味しいラーメン「物語」 第18回

小泉さんも絶賛! 極貧生活、和食の修業、大震災……稀有な壮絶人生の末に辿り着いた「カワイイ」お店 マルソン(東京・青梅)(前編)

2020年06月24日 12時00分更新

文● 赤池洋文 編集●ラーメンWalker

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 私がラーメンを食べる上で「味」よりも大切にしているのが「物語」。「物語」は何にも勝る最高の調味料。お店がこれまで紡いできた「物語」と、私が勝手にお店と紡いでいる偏りまくった「物語」を紹介します。

 その店主と初めてお会いしたのは、とあるラーメン店主催の忘年会。その忘年会では毎年、何軒かのラーメン店の店主がオリジナルのラーメンを作って、参加者たちに振る舞うという嬉しい催しが行われています。そこで初めて、私はその店主の作ったラーメンを頂いたのですが、あまりの美味しさに衝撃を受けました!

 それまでお店の存在は知っていたものの、場所が少し遠いこともあり、未訪のままでした。ただ、そのラーメンを食べて目が覚めた私は、改めてお店に伺ったのでした。

 そんな、今回私が「物語」を紡ぐお店は、「マルソン」です。

東京都青梅市の名店「マルソン」

 先にお断りしておきますが、今回も前編・後編の2本立てです。できれば1回に簡潔にまとめてお届けしたいと思っているのですが、「マルソン」の丸山店主が、かなり稀有で壮絶な人生を歩まれてまして……私の筆力では到底1回にまとめきれないので、ご容赦下さい。読み応えは十分だと思います!

店主の丸山さん

 「マルソン」は、場所こそ青梅とちょっと都心からは離れていますが、お店に行ってみると、何とも可愛らしい内装。普通のラーメン店とは一線を画した、女性ウケ間違いなしのデザインも、人気の理由の1つ言えます。

可愛らしいインテリア

カラフルな内装

店内の至る所に落書き。実は過去に提供したメニュー名が記されている

 もちろん、提供されるラーメンも多彩で、いずれも絶品。漫画『ラーメン大好き小泉さん』の作者である、鳴見なる先生(https://twitter.com/naruminaru3)も「マルソン」の熱烈なファンの一人です。

鳴見先生直筆のイラストやサインも

 今回、先生からもコメントを頂いたのですが、

 「個人的にクセになる、帰ってきたくなるラーメンだと思っています。割りスープやカップ茶碗蒸しで最後の一滴まで旨味を堪能できるのも◎。ユニークな限定メニューを含め、いつ伺っても胃にも脳にも美味しい刺激を与えてくれる大好きなお店です」

 と大絶賛!

スープ割りとカップ茶碗蒸し。鳴見先生もお気に入り

 店主の丸山さんは、ご覧の通りのオシャレ&イケメン。

 なるほど、いかにもこのお店を作りそうなスタイリッシュな感じです。歳はパッと見、私のちょっと下、つまり四十路に入ったか否かくらいかな、と思いつつ、早速取材を開始しました。

 「すいません、まずはお名前と、差し支えなければお歳をお聞きしても宜しいでしょうか?」

 「はい、丸山モウソン。51歳です」

 はいはい、51歳と……って、えーーー!!!??? 見た目若すぎやしませんか!? それから、年齢の衝撃で一瞬スルーしそうになりましたが、お名前の「モウソン」って本名ですか?

 「はい、申年(さるどし)生まれなので、『申』の字を入れて、父が付けました」

 お父様はナント、兵庫県神戸市で、茶人として、華道家として、そして料理人として名を轟かせる大人物。それを聞けば、このような名前を付けるのも納得です。しかし、丸山さんが幼い時にご両親は離婚。丸山さんは母親に引き取られたのですが、母親も負けん気の強い方で、「元旦那のお金は一切受けとらない」と、養育費を拒否。かと言って、お金があったわけでないので、丸山さんは極貧生活を強いられることとなります。

 これが最近ではあまり聞かないような壮絶な生活で、本当にその日食べるものに困るような状態。家にご飯などなく、母親が唯一買い与えてくれたお菓子のラムネで生活したそうです。一度、母親のいないタイミングに、父親が会いに来たことがあったのですが、その時丸山少年は嬉しくて、「お父さん、ご飯食べる?」と、ラムネを差し出したところ、それを見たお父さんは涙を流したという……切なさ過ぎるエピソードをお聞きしました。

 中学卒業と同時に、父親が経営する日本料理屋に修業に入りました。極貧生活を通して、食に対して人一倍強い想いを抱くようになった丸山さん。自分が料理人なれば、食べ物に困ることなく、母親にラクさせてあげられると、迷わずこの道を選んだそうです。

 当時父親のお店は、神戸に3店舗ほどあり、従業員も20名くらい抱える大所帯。父親も息子を特別扱いしないように、「従業員には一切息子だいうことは言うな」と言われ、「たすく」という全く別の名前を付けられたそうです。料理の修業はもちろんのこと、「一流の料理人はあらゆることに精通していなくてはならない」という父親の考えの元、茶道や華道までみっちり教え込まれました。

 これが実は、のちの丸山さんの人生において大いに役に立つことになるのですが、当時弱冠16歳では、「お茶やお花が料理の何に役立つのか?」と、その重要性を理解することはできませんでした。

 こうして、和食料理人として6年程の厳しい修業を経て、22歳の時に独立。実はこの独立の裏にもひと悶着ありました。当時父親が、岡山県の備前焼の高名な陶芸家の方と懇意にしていたことから、丸山さんに断りも入れずに、勝手にそこへ修業に出そうとしたのです。陶芸家になりたいハズもない丸山さんは、慌てて「独立して料理人として生きていきたい」と父親を説得し、事なきを得ました。本当に豪快なお父様です(笑)

 丸山さんは、神戸に自分の日本料理屋を開き、母親も呼んで一緒にお店を始めます。お店は小さいながらも、それなり繁盛していました。ところが──

 1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起こりました。

 幸い、丸山さんも母親も命に別状はありませんでしたが、店は全壊。復旧のメドは到底立ちません。そこで、丸山さんは「落ち込んでいても仕方ない。命が助かったのだから、好きに生きよう」と、気持ちを切り替え、上京を決意します。元々、東京に出たいという気持ちはずっと持っていました。実は、松田優作さんの大ファンで、松田さんのご自宅のある杉並にアパートを借りて、松田さんのゆかりの地を巡ったことも。丸山さんは、被災者用の都営住宅の抽選に申し込み、福生の住宅に住めることになりました。

 上京した丸山さんは、松田さんの影響もあり、バイトをしながら自主映画を撮り始めます。作品は意外にも評価されて、スカパーの映画番組で6本もの自主映画が放送されました。しかし、そこからなかなか思うように道は開けませんでした。29歳の時、神戸時代から付き合っていた彼女と結婚し、子供もできたことをきっかけに、ハローワークに行って職探しを始めます。そして、いくつかの職を転々とした末に、32歳で武蔵村山市の老人ホームでの調理の仕事を見つけました。

 「この仕事なら和食料理人としての経験も生かせる」と思って臨んだ仕事でしたが、老人ホームでの調理は、丸山さんの想像を絶するものでした。作る料理は、ミキサー食。文字通り、一度作った料理を全てミキサーにかけてペースト状にして食べさせる。咀嚼力の低下した老人用の介護食でした。仕方がないことですが、ショックは大きかったと言います。「せめて食べることを楽しんでもらいたい」。食べることへの想いが人一倍強かった丸山さんは、食事がただの作業になってしまっている状況を何とか打破できないかと考え始めました。

 まず、「せめて外出気分を味わってもらおう」と、老人ホームの食堂に簡易的な屋台を作って、そこで寿司を握ったり、船盛りを作って提供しました。さらに、殺風景だった部屋に花を活けて飾りました。これらの試みに、お年寄りたちは大喜び。当時は「何の役に立つのか?」と嫌々ながら父親から学んだことが、ここで生かされることとなったのです。

 こうして、この仕事にやりがいを感じた丸山さんは、さらにお年寄りが意外と皆ラーメンが好きだということに気が付きます。そこで、魚を捌いて出たアラでスープを取って、ラーメンを作り始めました。これが大好評を博したのです。

 これまでちゃんとラーメンを作ったことがなかった丸山さん。和食の出汁の取り方を応用した、見よう見真似のラーメンでしたが、お年寄りたちの笑顔を見て、一気に火が付きました。そこから独学で多種多様なラーメンを作り始めます。その数、実に1000種類に及びました。変な話、食材の予算と栄養バランスさえ守れば、献立は丸山さんの裁量で決めることができたので、結果的にこの場が丸山さんのラーメン修業の場となったのです。

 ホームの食事に革命を起こした丸山さんは、すぐに主任となり、市から賞をもらったりと大活躍。11年もの長きに渡って勤め上げました。しかし、43歳になった丸山さんの胸に、ふとある想いが去来します。元々料理人をやりながらも、人見知りが凄く、「自分は客商売に向いてないのでは?」と思っていました。ところが、老人ホームでお年寄りに接したことで、再び客商売をやりたいという気持ちが沸き上がってきたのです。今度は日本料理屋のような敷居の高いものではなく、お客さんとの距離が近い、そう、ラーメン屋さんをやりたいと。

 思えば、突然東京に出てきたり、自主映画を撮ったりと、「思い立ったら即行動」の丸山さん。すぐさまラーメン店の物件を探し始め、青梅市河辺に破格の安さの居抜き物件を見つけます。これが現在の「マルソン」です。そこに一目惚れしてしまった丸山さんはナント、即契約してしまいました。家族にも一切相談はしておらず、まだ老人ホームにも辞めるという話をしていませんでした。しかし、もう翌月から家賃が発生するのです。

 丸山さんの大暴走! はたしてどうなってしまうのか!?

 というわけで、前編はここまで。果たして、「マルソン」は無事オープンできるのか? 丸山さんの稀有な壮絶人生は、後編もまだまだ続きます! 是非ご期待下さい!

赤池洋文 Hirofumi Akaike (フジテレビ社員)

2001年フジテレビ入社。ドラマ「ラーメン大好き小泉さん」、ドキュメンタリー「NONFIX ドッキュ麺」「RAMEN-DO」などラーメンに特化した番組を多数企画。大学時代からの食べ歩き歴は20年を超え、現在も業務の合間を縫って都内中心に精力的に食べ歩く。ラーメン二郎をこよなく愛す。

百麺人(https://ramen.walkerplus.com/hyakumenjin/

本人Twitter @ekiaka

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