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ウルトラマン放送開始50年記念企画“ウルトラお宝大進撃” 第15回

「初代ウルトラマンは熱量の塊だった」円谷プロ社長は語る

2016年12月10日 19時00分更新

文● 盛田 諒(Ryo Morita) 撮影● 高橋 智

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手間とお金をたくさんかけて
ウルトラマンは作られた

── 空想特撮シリーズは「ウルトラQ」「ウルトラマン」と続きます。

 『ウルトラQ』は先に撮影してあって、ほとんどの撮影が終わった段階で放送順を決めて始まったでしょう。『ウルトラマン』はその後だから、撮影の経験値はあったでしょうね。ただ『ウルトラQ』はモノクロでしょう。『ウルトラマン』はカラー。当時カラーって何本かやっていたと思うけど、円谷では初めてだから分からないことだらけでしたよね。

大岡新一社長は1947年生まれ。1969年に円谷プロ入社、『帰ってきたウルトラマン』などの作品に携わってきた

── モノクロとカラーの違いはどこですか?

 たとえば『ウルトラQ』のときは35mmのカメラを使っていたけど、『ウルトラマン』からはコストの関係もあって16mmに切り替えて、合成だけは35mmでやったんですよ。16mmのままだと絵が揺れちゃうんですよね。「山の向こうに怪獣が出る」という合成をすると、芝居の絵と特撮の絵を重ねるとぴっちり止まらなくて揺れるんです。

 通常35mmの場合はパーフォレーション(穿孔)、4つの穴がある。そのうち1つを「レジストレーションピン」というもので止めるという仕掛けがあったんです。ところが16mmにはそういう仕組みがないので、絵が揺れてしまうわけです。完成度がそこで落ちる。それを避けるために、円谷では合成を全部35mmでやっていた。

── 16mmで撮って、35mmで合成する。手間がかかりそうですね。

 手間もお金もかかるんです。撮影のたび35mmを東宝から借りなきゃならなくなるから。円谷も35mmは持っていたけど、合成に合っていなかったんです。

 だけど東宝も自分たちで当然撮影はしているから、合成用カメラの台数は限られてくる。それで機械というのは精度が「優秀」「まあまあ」「ちょいとやばいね」みたいなものがあるでしょう。そうすると円谷には「ちょいとやばいね」級しか来ないわけですよ(笑)。優秀なのは東宝が自分たちで使いたいわけですから。そういうせめぎあいをしながら作ってきたという背景がありましたね。

 ぼくも『帰ってきたウルトラマン』をやっていたとき、東宝さんに「これ貸してください」とやったんだけど、それは早めに手を打って向こうの人と仲良くなり、「かならずおさえておいてくださいね」みたいなことをやるわけですよ。じゃないと目止まりの悪いキャメラが出てきちゃう。だから総合芸術なんですよ、映画って(笑)

── 設備以外にも手間がかかってきそうです。

 合成手法にも手間がかかっていましたね。

 当時、円谷英二さんに師事した優秀なオプチカル合成責任者に中野稔さんという人がいるのですが、彼がブルーバックは嫌いだったという話を後年聞きまして。あれはけっこう技術的に難しいものがあるんです。合成するプロセスの中でフイルムもけっこう使うし、仕上がりが難しいんですよね。色もズレるし。

 それで円谷プロのほとんどは「トラベリングマット」という技法で、人間のマスクを手書きで抜いていったんです。セルに投影して鉛筆で1枚1枚。いわゆる「流れゴマ」ってあるでしょう。それは合成できないの、マスクにできないから。

 現場でも「そういうアクションしちゃダメ」「微妙に動いて」「激しい動きはダメ」「ソバージュみたいな髪の毛はダメ」みたいな制約がすごくあった。立ちっぱなしもダメ。立っているだけなら静止してるように見えるけど、人って微妙に動いてズレているから、それをマスクで追いかけるというのは不可能なわけですよ。

 それが平成シリーズになると、撮影の後、ビデオ変換してから合成するようになってクロマキー合成等もできるようになったり、進化していったわけですけど……ぼく、この辺の話は始めると長いですよ(笑)

経営的にどうこう言ったら
『ウルトラマン』はできなかった

── 空想特撮シリーズは「大人の鑑賞にも堪える」と評価されています。

 結果的には子供にも届きましたけど、脚本の内容を見ても当時は子供ありきではなかったですよね。今では「ファミリー向け」なんて言うけど、当時ファミリーなんて言葉そのものがなかったわけですし。「一般家庭」という言葉くらい。

 初期シリーズ、『帰ってきたウルトラマン』もそうかもしれないですけど、強烈な社会的メッセージを込めたエピソードがありますよね。今だと企画を通すのも大変だなというようなものもあった。しかし、結局はそれが評価されたわけです。

 それはスタート時点から円谷英二さんというより金城哲夫さんに強い思いがあったと思います。そういう作家に声かけをして全体的なトーンをまとめたのが円谷英二さんだったわけですけど。

── 企画としてはきわどく、お金もかかる。会社として考えたらよく作れたなと感じてしまいます。

 トータルで俯瞰的に見て経営的にどうだこうだ、というのは当時なかったと思いますよ。だってどう考えたってやる前から赤字なんですから。でも、そんなことを考えていたらウルトラマンシリーズというのは生まれなかった。

 今思うと、当時のスタッフ、キャストもそうだけど、ぼくは熱量だと思います。新しい作品をつくりたいという熱量がすべて。怪獣、特撮、社会的に認知されていないものを仕事として受けた以上、やってやろうじゃないかという熱ですよ。

 そこで具体的にどういう方法論をとればいいのか、というのは誰もわかってなかったと思いますが、やっていくうちに反応があって、最高視聴率も42.8%までいって、スタッフは元気づけられた。これをくりかえして作り続けてきた。

 まあ結局、それで作り続けちゃったから39話でおしまいになっちゃったんですけどね(笑)。

── 制作が追いつかず、作品が間に合わなくなってしまった。

 納品も間に合わないし、お金も足りなくなっちゃった。だからどうしてもコンプリートできなかった。番組は1週間に1本放送するわけですから、ストックを少なくとも2本持って新作を2本持ちでやっていかなければいけなかったわけですよね。

 本編の芝居を撮る班と、特撮の班で2班に分かれて撮影していくわけです。それを編集して合成して音入れをする。この方法で2週間未満で2本が撮れないと、必ずどこかで破綻するわけです。ところがそれが追いついてきちゃった。

 途中から円谷英二さんまで現場に出ざるをえなくなり、特撮の班を2班に増やして3班体制にしましたけどね。話数によっては成立していたかもしれないけれど、基本的には破綻していたとは思います。よくやっていたなと思います。

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