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週刊キツカワ 第2回

1号「深夜放送の時代」

深夜放送はイノベーション、橘川幸夫が語る1960年代のラジオ

2016年11月26日 12時00分更新

文● 四本淑三

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 インターネットが普及するはるか前に、インターネットのようなものを作った男がいた。彼の名を橘川幸夫(きつかわゆきお)という。

 大学在学時の1972年に渋谷陽一、松村雄策、岩谷宏らと「ロッキング・オン」を創刊。その後、完全投稿制による雑誌「ポンプ」を1978年に創刊というのが彼の主なプロフィール。彼が辞めて以降のロッキング・オンは当たり前の商業音楽誌になったが、ポンプは最初から現在のソーシャルメディアのプロトタイプのようなものとして設計されていた。早過ぎたインターネットだったのだ。

「おしゃべりマガジン ポンプ!」。発行社は、現代新社。JICC出版局(現在の宝島社)の子会社だった。現代新社は現在は洋泉社になっている。刊行期間は1978年12月から1985年7月まで

 まず、文章にしても写真にしても、100%素人の投稿で成り立っている一般流通誌はほかになかった。テーマやキーワード、地域で分けられた投稿、それらすべてにレスポンスが付く仕組み、読者主催のオフラインミーティングや、投稿者の中から岡崎京子やデーモン小暮のような有名人を輩出するなど、機能・現象の両面で現在のソーシャルメディアに近い存在だった。違うのは紙に印刷されていたこと。そしてシステムの運用が完全に人力だったことである。

 しかし、現在のインターネットはポンプの刊行時に思い描いていたようなバラ色の世界をもたらさなかったし、良くも悪くもソーシャルメディアの雰囲気が世界の行方を左右するような兆候すら見られる。この先、インターネットやメディアはどうなればいいのか。

 よし、ポンプがオーパーツになる前に作った人に聞いてみよう!

 というのがこの連載の趣旨である。前回の週刊キツカワ0号では、1960年代以降の同人誌からミニコミへの流れ、そして参加型メディアとしてのロックについて語ってもらった。今回は、旧来のメディアが参加型の性格を帯び始めた事例「深夜放送」について。

 今回も40年近い長い付き合いになる私から橘川幸夫に聞くことは一切ないので、20代の若者代表としてASCII編集部の西牧くんが質問に回ってくれている。

かつてメディアは一方通行だった

四本 ちょっと橘川さん、もう息上がってませんか。あんなに急いで喋るものだから。先は長いですよ。

橘川 ぜえぜえ、まあな。で、俺が大学に入ったのは1968年だ。で、同人雑誌を作って、ミニコミになって、1970年代になってロック喫茶に出入りするようになって、72年にロッキング・オンを創刊。非常に単純な流れで来ているわけですよ。

息は上がっていますがまだ序盤。引き続き橘川さんにお話を聞きます

四本 前回のあらすじまでまとめてもらってありがとうございます。

西牧 でもなんか、ずいぶんとポンポン行っちゃってませんか。

橘川 もうストレートなんですよ。ね。時代の流れそのまま。はい。

四本 じゃ、面倒なんで、そっから先の話は近著「ロッキング・オンの時代」でも読んでください。

橘川 買って読んでください。はい。

四本 っていうわけにも行かないので、続けてください。

橘川 じゃあ、ロッキング・オン以前の世の中な。俺らの学生時代は、まだメディアに権威があったわけですよ。朝日新聞社とか、岩波書店とか、そういう大手の媒体や、明治以来の文学者や哲学者の拠点があったりしてさ。その人たちはもうジャズやクラッシックと同じで、手の届かない向こうっ側の人たちだったわけだ。俺らは、そこから上がってくる情報を、ただ承る。それだけの存在。

四本 つまり情報の流れが一方通行だったわけですよ。

西牧 はい。

橘川 それに対して、まずラジオの深夜放送が始まったんだ。ラジオ自体は古いメディアだけどな。

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