前へ 1 2 次へ

歴史的建造物と高層ビルが融合! 都市開発マニアが案内する「丸の内建築ツアー」 第26回

こいつがあるから有楽町はおもしろい! ”エンタメの街”という色付けの発信地「有楽町マリオン」はいかにして建てられたのか?

文●きりぼうくん

  • この記事をはてなブックマークに追加
  • 本文印刷

再開発前の旧「朝日新聞東京本社」、旧「日本劇場(日劇)」、旧「丸の内ピカデリー」

【南町奉行所】

 有楽町マリオンが建設される以前、この一帯は江戸時代から東京の中枢機能を担ってきた、きわめて由緒ある土地でした。江戸期には南町奉行所が置かれ、町人地を管轄する行政・司法の拠点として重要な役割を果たしていました。裁判や治安維持を司る場であったこの地は、江戸の都市運営を支える中核の一つであり、現在も周辺には史跡碑などが残され、近世から近代へと連なる都市の記憶を今に伝えています。明治以降、奉行所の機能は姿を消しますが、この場所は引き続き東京の「時代の最前線」として歩むことになります。

【旧東京朝日新聞社社屋】

 昭和初期になると、有楽町周辺は情報と文化が集中するエリアへと変貌します。1927年には朝日新聞社が当地に東京本社を構え、周辺には読売新聞社や毎日新聞社なども集積しました。「旧東京朝日新聞社社屋(有楽町社屋)」は、鉄筋コンクリート造、地上7階、地下1階、塔屋2階のビルとして石本喜久治の設計、竹中工務店の施工によって建設されました。

 外観デザインは、1~2階が平和を意味する「青色」、3階以上が希望を意味する「黄色」で塗装されたものとなっていました。また、6~7階には大ホールが入り、1,200人を収容することができたほか、塔屋1階に設けられた鳩舎には、200羽の伝書鳩を収容することができたという特徴がありました。こうして有楽町一帯は、新聞社が何社も集まってきたことから、「新聞街」「インクの町」と呼ばれるようになり、号外が配られる光景は街の日常風景として定着します。政治・経済・社会の動きをリアルタイムで伝える拠点として、有楽町は世論形成の舞台となっていきました。

【日本劇場】

 一方で、娯楽・文化の分野においても、この地は大きな存在感を示していきます。1933年12月に誕生した日本劇場、通称「日劇」は、その象徴的な存在でした。建築家・渡辺仁の設計、大林組の施工による地上7階、地下3階のアールデコ様式の建物は、当時としては先進的なデザインと大規模な収容力を備え、映画と実演を組み合わせた新しい興行スタイルを確立しました。日劇は瞬く間に日本を代表する娯楽施設となり、「日劇に出ること」が一流の証とされるほどの影響力を持つようになります。

 館内は当初、映画館として計画された建築であったことから、舞台の奥行きは比較的限られていたほか、廻り舞台こそ設けられていませんでした。客席は1階から3階までの三層構成で、1階1,060席、2階540席、3階463席、合計2,063席を有しており、更に両側壁面には「ロイヤルボックス」と呼ばれるボックス席が設けられ、2階席前方の指定席とともに、日劇の中でも特別感のある空間として知られていました。さらに立ち見客を含めた最大収容人数を想定し、「4,000人劇場」とも称されるなど、その圧倒的な集客力は当時の娯楽施設の中でも群を抜くものでした。

 劇場内外のデザインもまた、日劇を象徴する大きな魅力でした。開場当初の館内は、ステンドグラスや大理石、さまざまなデザインのレリーフなどで豪華絢爛に彩られ、アールデコ様式による華やかな空間演出は、多くの来場者を驚かせました。単に演目を鑑賞する場にとどまらず、建築意匠や空間そのものが非日常体験を提供する装置として機能していた点も、日劇が高い評価を受けた理由の一つです。こうした建築的・空間的な完成度の高さに支えられ、日劇は映画館と劇場の枠を超えた総合娯楽施設として確固たる地位を築いていきました。

【丸の内ピカデリー】

 丸の内ピカデリーの歴史は、1924年7月に開業した劇場「邦楽座」にさかのぼります。邦楽座は、当初は歌舞伎や宝塚歌劇などを上演する芝居小屋として誕生しましたが、1927年からはアメリカの映画製作・配給会社パラマウントの直営館として映画興行を開始し、東京における洋画上映の拠点の一つとなりました。その後、1934年6月には松竹キネマの封切館として「丸の内松竹」と改称。戦後は一時、GHQに接収され「ピカデリー劇場」と名付けられますが、1949年の接収解除後は「丸の内ピカデリー」として再出発し、松竹洋画系の基幹劇場という位置付けを確立していきます。

 1957年には建物の改築が行われ、「丸の内ピカデリー」と「丸の内松竹」の2館体制となりました。この時期、千代田区内には数多くの映画館が集積しており、丸の内・有楽町エリアは日本有数の映画街として隆盛を極めていました。丸の内ピカデリーはその中心的存在として、話題作や大作映画の封切館を担い、映画文化の発信地として重要な役割を果たしていきます。

戦後の1948年3月時点の様子。当時は外濠が存在し、現在、有楽町マリオンが建っている場所には、「旧東京朝日新聞社社屋」や、「日本劇場」、「丸の内ピカデリー」が建っていた(出典:国土地理院撮影の空中写真)

有楽町マリオン建設前の1979年11月の様子。外濠部分は東京高速道路として生まれ変わった(出典:国土地理院撮影の空中写真)

有楽町マリオン完成後の1989年10月の様子。有楽町マリオンが竣工した(出典:国土地理院撮影の空中写真)

2025年現在の様子。周辺の再開発も進み、超高層ビルが増えている(出典:国土地理院撮影の空中写真)

有楽町マリオンの定礎

朝日新聞東京本社跡であること示す金属板

有楽町駅前には「南町奉行所」があったことを示す記念碑も設置されている

有楽町マリオンの南側には、有楽町を紹介する案内板があり、この地に外濠が存在したことがわかる昔の地図も設けられていた

有楽町センタービルの建設

 戦後の有楽町駅前では、戦災後に急造された建物やすし屋横丁などの有楽町駅前一帯を再開発する計画が浮上し、北側のA地区に1965年6月に「東京交通会館」が完成します。その後の1970年代後半から1980年代初頭にかけて、現在、有楽町マリオンが建つC地区では、朝日新聞東京本社の築地移転、日本劇場の閉館、丸の内ピカデリーの老朽化による解体が相次ぎ、長年親しまれてきた街並みは大きな転換点を迎えます。

 これを契機として、有楽町駅前市街地再開発事業が具体化し、東京都の都市計画決定を受けたのち、朝日新聞社、東宝、松竹の三社が共同で再開発を進めることとなり、権利関係を維持しながら、映画館・ホール・商業施設を一体的に整備する方針が示されました。1982年7月には建設工事に着手され、設計・施工ともに竹中工務店によって工事が進められました。1984年9月に有楽町センタービルは竣工。1984年10月6日、有楽町駅前再開発事業の中核施設として、1期ビル(本館)が開業します。

 核テナントには当初は西武百貨店が全館に入る予定でしたが、阪急東宝グループで銀座に数寄屋橋阪急を展開していた阪急百貨店が対抗して出店することになり、館内には「有楽町西武」と「有楽町阪急」が入り、都心型百貨店が向かい合う象徴的な構成となりました。1987年には2期ビル(別館)も完成し、映画館街やホール機能を含めた一体的な施設として本格稼働を開始します。館内には複数の大型映画館が集積し、総座席数では長年にわたり日本最大規模を誇る「映画の街」として知られる存在となりました。

 その後、バブル崩壊や流通業界の再編といった社会経済の変化を受け、施設構成は大きく変化していきます。2010年に有楽町西武が閉店し、2011年にはその跡地にルミネ有楽町が開業、有楽町阪急も阪急メンズ東京として再編されました。映画館についても、丸の内ルーブルやTOHOシネマズ日劇の閉館を経て、ホールやプラネタリウム、ドルビーシネマなど、多様な文化施設へと機能転換が進められています。

 このように有楽町センタービルは、単なる商業施設にとどまらず、時代ごとの都市課題や文化の変化に応じて柔軟に姿を変えながら、有楽町という街の記憶と賑わいを継承してきました。江戸の行政拠点、近代の新聞・劇場街を経て、現代の複合文化拠点へと進化した有楽町マリオンは、民間主導による都心再開発の成功例として、現在も有楽町の象徴的存在であり続けています。

センターモールを挟んで東側に「ルミネ有楽町」、西側に「阪急メンズ東京」が位置する

建物中央部を南北に貫き、巨大な吹き抜けがある「センターモール」

8階から11階にかけてのセンターロビーはエスカレーターを囲むようにして、照明やガラス、鏡が設置されており、反射効果によって幻想的な雰囲気が演出されている

1期ビルと2期ビルの間は空中通路によって結ばれており、地上には広場が設けられている

有楽町マリオンの愛称のもとになった窓と窓を仕切る縦枠材である方立「マリオン」が光の陰影を創り出していた

地下では、丸の内と銀座を結ぶ地下通路網「丸の内ダンジョン」に直結しており、通路としての機能も有する

この地に古くからあった丸の内ピカデリーや日本劇場を受け継ぐ「TOHOシネマズ日劇」、「丸の内ピカデリー」、「丸の内ルーブル」の3サイトの映画館が入る

建物全体を1期ビルの4つと2期ビルの1つの計5つのブロックに分節化して、各ブロック間には、水平・垂直の緩衝帯(バッファゾーン)が設けられている

空中通路はガラス張りで居心地の良い空間となっている

直径約2.6メートルの時計盤が特徴的な大型からくり時計「マリオン・クロック」

マリオン・クロックは毎正時に時計盤がせり上がる

正午12時になると、時計盤が上に上がり始めた…

中からは3体のかわいらしい人形が出てきて、金管を叩きながら演奏が行われる

 以上で今回の建築ツアーは終了。マリオン・クロックが有名な有楽町マリオンですが、実は江戸時代から現在に至るまで、時代に合わせた役割を果たしてきた場所でもありました。100年先はどんな場所になっているのか、今から楽しみです。

前へ 1 2 次へ

この連載の記事