ドイツの菓子職人、カール・ユーハイムが、広島でバウムクーヘンを国内初披露したのが1919年。その彼が創業して以来、100周年を迎えたユーハイムは、昨今のコロナ禍で大打撃を被っていた。記念すべき創業100周年が、一転して100年に一度の危機と化してしまった同社は、その苦難をどう乗り越えたのか。最大のピンチを救ったのはファンの愛だった!? 一大イベント「バウムクーヘン博覧会」の大成功で証明した企業理念などについて、エリアLOVEウォーカー総編集長の玉置泰紀が聞いた。
ユーハイム100年の歴史は日本の洋菓子の歴史
今や日本全国、津々浦々に1000種類ほどもあるという、定番洋菓子のバウムクーヘン。ユーハイムの創業者であるカール・ユーハイムが、第一次世界大戦時に捕虜として来日し、戦後の1919年3月4日に、広島県物産陳列館(現原爆ドーム)で日本人に振る舞ったことから、我が国での歴史が始まった。しかしカールは1922年、横浜で開いた店が関東大震災で被災したため、神戸に移る。以来100年余り、ユーハイムは日本と、日本の洋菓子の歴史とともに歩むことになる。
――もし創業者のカール・ユーハイムさんが来なければ、日本にバウムクーヘンは存在しなかったかも知れませんね
河本「カールさんも、戦争がなければ、たぶん日本に来ることはなかったでしょうね。もともとはドイツの租借地だった、中国の青島で喫茶店をやっていて。青島は当時、ヨーロッパの玄関口のようなところでした。その後はアメリカに行きたかったのに、第一次世界大戦時に青島を攻めた、日本軍の捕虜となって日本に来たんですね」
――その後、横浜で店を開いた直後に、関東大震災に遭って神戸に行ったというのも運命的ですよね。今となってはユーハイムといえば神戸ですが
河本「当時は横浜と神戸が外国人居留地でした。横浜で被災したカールさんが頼るのはやはり外国人の仲間ですから、大震災がなかったらカールさんは神戸にも来ていなかったと思います。
そしてカールさんは、日本に残ろうと決めてくれた。これが日本の洋菓子の歴史にとって、ものすごく大切なことでした。あの時代に戦争と地震という困難を経験してもなお、残ってくれたのは日本人との交流があったからなのでしょう。第一次世界大戦当時は、ドイツ人俘虜(ふりょ)収容所が瀬戸内海の周りに10か所ぐらいあったんです」
――最近、似島俘虜収容所(現広島市南区)の様子を伝える新たな資料が発見されて、カール・ユーハイムさんの名が記された名簿も見つかりましたね
河本「あれは驚きましたね。収容所といってもドイツ村のような感じでした。カールさんも、いわゆる強制労働させられていたわけではないんですよ。ドイツ人捕虜の中でも専門知識や技術がある人たちは、学校の先生になったり楽器を教えたりしていたんです」
――日本人とドイツ人捕虜の交流は『バルトの楽園(がくえん)』という映画にもなりました
河本「ドイツ人には『職業召命観』という、仕事を通して人生を豊かにしていく、国や社会も良くしていくという観念があります。だから捕虜になっても仕事を続ける、これが一番大事なことなんです。
カールさんは菓子職人でしたので、お菓子を作って収容所内の仲間や近隣の人たちとも交流していました。それを通じて『これから絶対、この国にはお菓子が必要になる』と在留を決心してくれたことが、日本の洋菓子の始まりみたいな形でしたから。
僕は今、ヨーロッパなどへよく行きますが、日本のお菓子はすごく美味しいし、お菓子文化が盛んな国としては、日本が一番なんじゃないかと思います」
――日本を選んでくれたカールさんのおかげですね
河本「なぜかと言えば“誰かのために作る”という恩返しだったと思うんです。例えば、ある日本人が青島に行って修業して帰ってきただけだとしたら、今、日本人が作る洋菓子も、また少し違ったものになっていたでしょう。でも、交流を持った日本人への恩返しの思いを抱いて、外国人たちが定住して日本人のためにお菓子を作ってくれた。これが大変なことなんです」
――カールさん自身、日本人にすごく惹かれる何かがあった?
河本「カールさんはサッカーも大好きでした。大阪、神戸、広島、瀬戸内周辺って昔からサッカーが盛んじゃないですか。
カールさんがサッカーしている写真も残っていますし、そういう形での交流が本当にあったんですよね。第二次世界大戦時のことはいろいろ難しい問題があって伝わってこないけれど、第一次世界大戦時のことは、もう100年経ちましたから、日本人とドイツ人の交流についてもいろんな話が出てきています。ある時、突然4000人ぐらいのドイツ人がやって来て交流をしたわけですから。
そこでの人と人との関係が、カールさんにとっても大切になって、これからこの国に必要になってくるだろう、お菓子を作ろうと思ってくれたんじゃないかな」
――歴史の波に翻弄されたカールさんは大変でしたけど、そのおかげで日本の洋菓子の大きな歴史が生まれたんですね
バウムクーヘンのルーツは紀元前
世界最古のデザートだった!?
――日本のバウムクーヘンは100周年を迎えましたが、ドイツでの歴史とは?
河本「それが何か上手くできているなと思うのが、日本が100周年を迎えた2019年は、ドイツでのバウムクーヘン誕生200周年でもあるんですよ」
――もっと昔からあると思っていましたが
河本「近代バウムクーヘンの歴史ですね。実はバウムクーヘンのルーツは、狩猟採集時代まで遡ります。人類は、獲物を捕まえてきては、その肉を焼いて食べていました。当時は火を通すのに、棒を刺して焚き火の上でグルグル回していたんです。この肉を食べ終わった後の棒に、スペルト(古代小麦)の生地をつないで巻き付けながら、残り火で焼いたのがバウムクーヘンの始まりです。焼肉の後に食べる、いわば人類最古のデザートだったんですよ」
――なんとルーツは紀元前!
河本「それがお菓子として、特にヨーロッパの14、15世紀に発達していって、一番発展したところが、現在のドレスデンなどドイツ東部の街です。ドイツには、いくつかバウムクーヘン発祥の地とされるところがありますが、一番大きな街はドレスデン近くのコトブス。そこで見つかったバウムクーヘン最古のレシピが1819年のもの。日本で100周年イベントをしていた時、コドブスでは200周年を祝っていたんです」
――偶然とは思えないですね
河本「そうなんです。カールさんが日本に来て店を始めた1900年代初頭、コトブスではバウムクーヘンが一大産業だったんです。
20か所以上の工場があって、そこからヨーロッパやアメリカなど世界中へ輸出し、パッケージに入れて運んだという記録が残っています。機械で作ってきっちり切り分けてパッケージに入れるって、いわゆるバウハウスじゃないですか。だから最初の工業菓子でもあるんですよね」
――そういえばバウハウスも2019年で開校100周年。バウムクーヘンは、いろんな意味で歴史的なお菓子なんですね
河本「ところが、ドイツでは第一次、第二次世界大戦を通して、バウムクーヘンが一度絶滅します。コトブスのような一大産業だった街からも一切消えてしまうんですね。
ドイツって、いろんなことをきっちり決めるじゃないですか。バウムクーヘンは菓子組合の象徴でありマークになっている。マイスターの称号も最終試験でこれをきちんと焼いて初めてもらえます。そういう象徴的な菓子だからこそ、バウムクーヘンと呼ぶには、菓子組合が決めた材料や製法など厳密な規定に沿って、専用機で焼かないといけないのです。平時はそれでこそ、しっかりと伝統が守られるのですが、戦時中は物資も不足し、専用機を作る工場も失くなる。すべての条件を満たすことができないから作れない。ついに工場もゼロになり、消滅してしまったんですね。
でもこのコトブスで30〜40年前から、もう一度バウムクーヘンの街として復活させようという動きが始まった。200年祭は、いわば復刻祭の延長なんです」
――そう考えるとユーハイムのバウムクーヘンが20世紀初頭から、日本にしっかり残っているのはスゴいことですね
創業100周年が100年に一度の危機に
2019年に100周年イベントを行っていた最中のユーハイムを、新型コロナが直撃。
――コロナ禍の影響はどのようでしたか
河本「通常の売り上げの3分の1になったのが数か月ありました。(主な販路の)百貨店や、テーマパークに至っては半年閉まってしまったので、お菓子を作りたくても売る場所がなくて作れない。創業100周年が、一気に100年に一度の危機になったわけです。本当に会社潰れちゃうんじゃないかと」
――デパートやテーマパークが全部閉店という想定外の事態に備えた準備などしていなかったですよね
河本「していませんでしたね。私は偶然、2020年3月は仕事でロンドンにいたのですが、ロックダウンすると聞いたけど、ロックダウンって何?といった感じで。でも、これから半年ぐらいは本当に何もできない、全部店が閉まるぞというので、すぐに帰国して銀行へ駆け込みました。本当に売り上げがなくなったので」
――どうやって乗り越えましたか?
河本「いや、もうその瞬間はただ必死で。300店ほどあった店を1年間で1割減らし、同時に工場も2つ閉鎖しました。商品アイテム数は3分の2にしましたし、ブランドの統合にも取り掛かりました。海外も4か国から撤退という状況でしたね」
――社長としての決断は相当大変だったんじゃないですか
河本「そうですね。でも一気にやってしまわないと、会社が潰れてしまうので。まずできることはすべてやりました」
この先100年のために。企業理念の新訳と1on1での対話
――逆にピンチだからこそ生まれた、新しい発想もあったのでは
河本「生き残るために、やれることはすべてやらなきゃいけないという1年でしたけれども、同時に先ほど話したように、100周年が100年に一度の危機になったので、いろいろ考えますよね。行事やイベントも全部中止して。会社が潰れるかもしれないなんて、思ったことがなかったですから。
でも創業100年で考えなきゃいけないのは、こういう経験をしたからこそ、ここから100年先まで、我々が生き残っていくためには何が必要なんだろうかということ。今までの100年とこれからの100年のことを、この瞬間にすごく考えて取り組んだことが2つあります。ひとつめは企業理念の書き換えです」
――公式HPにも分かりやすく載っていますね
お菓子には世界を平和にする力がある
Peace by Piece
河本「我々はこれを“パーパス”と呼んでいますけれども、もともとは『平和を創り出す人達は幸せである』という、エリーゼさんが好きだった言葉でした。これは神戸・西宮にある社員墓の、カール夫妻のお墓に刻まれています。
企業理念は永遠で何も変わらないものです。ただコロナの影響などで環境が変わる、あるいは世代で変わっていくこともあるので、それに合わせて言葉を見直していく。言葉が変わると行動が変わりますから。創業者の言葉を現代風に言い換えることによって、同じ思いを共有し、もう一度みんなで考えていこう、と。
今の人たちに向けて、もう一度語り掛け直すために社員全員と対話したんです。これまではみんなを集めて、私が一方的に話して終わりでしたが、コロナ禍でオンラインでのやり取りも当たり前になりました」
――1on1なんですね。個々の社員の顔が見えるし、考えていることも分かる
河本「おっしゃる通りです。研修や対応がZOOMでとてもやりやすくなって、回数も増えましたし、みんなとしっかり対話することができました」
――なかなか社長が1on1で社員に向き合わないですよ。素晴らしい!
河本「不思議と相手も、だんだん乗った感じになってきて、面白いですよね。すごく話も進みましたし」
職人の系譜とお菓子の見直しを徹底
バウムクーヘンが長く愛される理由
――コロナ禍でされたこと、2つめは何ですか?
河本「お菓子の見直しです。職人たちと一緒に徹底的に行いました」
――バウムクーヘンは職人技の集合体
河本「ドイツの最盛期に来日したカールさんが伝えてくれた、バウムクーヘンをずっと磨き続けている。途絶えさせずに続けることが、実は美味しくするためにはとても大切なことなんです。
そこで僕らは職人の系譜をもう一度整理しよう、と。職人には今日より明日、明日より明後日と技術を磨き、代々受け継がれてきたものを前の代よりも、もっと美味しくして次の代へと渡していく。この繰り返しが実は一番大事なんです。100年前のカールさんも同じだったんじゃないか、と気付いたんですね」
――伝統技術を磨き続けて継承していく
河本「なぜ100年もの間、バウムクーヘンが愛され続けているかというと、まず素材がめちゃくちゃシンプルで、小麦粉、卵、砂糖、バター、以上です。職人のこだわりの焼き方で味を作るわけですよ。この技術がお菓子を美味しくしていく。
だから職人の系譜の中で、技術が引き継がれていかなきゃいけないし、100年間美味しくなり続けたから、今も愛されるお菓子になっているんだと思います」
――素材といえば「純正自然宣言」。添加物を極力使わないということですね
河本「この宣言を出したのも、ちょうどコロナ直前のことですが、実はもともと1969年に私の祖父、つまり2代前の社長が宣言した社命でもあるんです。化学に頼らず、自然の素材を使って確かな技術で作っていくことを改めて宣言しまして、食品添加物をひとつひとつ抜いていくという試みを行いました。
食品添加物ができたからこそ、大量生産や遠距離物流が可能になり、誰もが食で豊かになれるようになった。この50年間ほどで、そういうケミストリー(化学)の発展があったからこそ、今の状況があるんですよね。
ただ我々は職人なので、職人はケミストリーを嫌うんです。なぜならバウムクーヘンは、材料はシンプルでも、こう重ねていったら美味しくなるという『焼きの技術』が味を作っているからです」
――味は技術で作る
河本「実はドイツでも、1930~40年頃に食品添加物が出てきた際に、菓子組合が『バウムクーヘンだけは生地作りにも乳化剤を入れてはいけない』ルールを明文化していたのです。
食品添加物を使えば誰にでも同じようなものが作れるようになるので、生産性こそ向上しますけれども、誰もが同じ生地を作れたら、その先も変わらないものしかできなくなる。すると職人も要らなくなり、技術もそこで止まってしまいます」
――伝統の継承と技術開発。SDGsの世界ですね
河本「まさにそうなんです。ウチの職人も食品添加物を入れると腕が上がらない、落ちるとよく言っていますし。昔ながらの職人は、そうなんですよね。だからコロナの時でも、お菓子を本当に美味しくし続けなければ、と改めて思ったので、工場の親方や、開発力に長けた親方たち、選りすぐりの職人でお菓子をひとつひとつ見直しました。それはもう徹底してやりましたよ」
コロナ禍の苦境を支えたファンのユーハイム愛
――「ユーハイム100周年アンバサダーキャンペーン」とはユニークな試みですが、どういったものでしょうか?
河本「ファンと交流するコミュニティのようなものですね。もともとユーハイムには、コアなファンがたくさんいらっしゃいます。医者から食品添加物を使ってないお菓子だったら食べてもいい、と言われたからユーハイム。子供の頃から食べている、おじいちゃん、おばあちゃんが美味しそうに食べていたお菓子、あるいは一緒に食べていたお菓子だから大好き、などと言って下さるんですよ。
アンバサダーキャンペーンは、コロナ禍の2020年10月に開催した『オンライン工場見学』に参加した方から寄せられた『ユーハイムのお菓子を、全国各地の人と食べられてうれしかった』というメッセージから始まったものなんです。ファンの方たちにアンバサダーになってもらい、ユーハイムのお菓子を食べて、インスタで感想などを発信してもらおうという企画です」
――ファンの方のユーハイム愛をダイレクトに感じられる
河本「そういう意味ではこんなこともありました。2020年に『純正自然宣言』を出した直後に、出荷した一部のお菓子にカビが発生してしまった。コロナの状況によって生産調整をするため、工場を開けたり閉めたりしていた時期で、いつもは動かしっぱなしのものを止めると環境に影響があって、さらに猛暑が重なったのが原因かと思いますが、弊社初の自主回収をすることになったんです。
初めての自主回収が約174万個に及び、いきなりニュースサイトのトップに上がってしまいました。非難のコメントが殺到するかと思いきや、ファンの方たちから『純正自然にこだわっているから、むしろ当然』といった応援コメントが、1000通ぐらいバーッと書き込まれたんです。カビと言っても非常に特殊なもので微量だったんですが、『純正自然宣言』をしたばかりということもあり、早めに自主回収に踏み切ったんですね。その判断も良かったのかもしれません。
その後、1か月で生産再開するんですけども、今度は一部の社員たちが『もう怖くて作れない』『やっぱり純正自然は怖いんだ』と怯えてしまいました。そこで、ニュースサイトに寄せられた応援コメントを1000通ぐらい全部プリントアウトして、社員全員を集めた朝礼で、それを読んでもらったんです。
『これを見ても再開できないの?』と言ったら、何人かは本当に感激して泣いていましたからね。今でも廊下に貼り出してあります」
また今度は、お客様に対しても真摯に説明しようということで、実際にお客様に工場へ来てもらったり、『オンライン工場見学』では、職人たちが『私たちはこういう思いでこういう風に作っています』と語ったんですね」
――理想のオープンファクトリーです
河本「これも本当にZOOMでやってよかったです。ファンの人たちの顔が見えて、とても感動しましたね。それで、この応援してくれる人たちをアンバサダーにしたいと。
募集を掛けた時は正直、定員の5000人も来るとは思いませんでしたが、おかげさまで満員御礼。お菓子を作り続けてきて本当に良かったな、と実感しました」
バレンタインを超えた⁉「バウムクーヘン博覧会」と「ファイナルクーヘン総選挙」が大盛況!
2016年に始まった「バウムクーヘン博覧会」は、全国47都道府県のご当地バウムクーヘンと、その愛好家たちが集う日本最大のバウムクーヘンの祭典。7回目となる今回は、この10月下旬~11月上旬まで東京で初開催され、ファンの間で話題を呼んだ。
――東京でも「バウムクーヘン博覧会」が盛り上がっていますが、もともとどんな発想から始まったんですか?
河本「バウムクーヘン100周年に向かって、バウムクーヘンでひとつになりたかったんです。ひとつになるというのは、みんなでやるということですので。
でも、当初は『バウムクーヘンだけでイベントなんかできる訳ない』と大反対されたんですよ、ウチの社員からも。推進派は、僕と百貨店の店長だけ(笑)。半年間は一切何も動かなくて、いざ開催が決まってからも準備期間が半年しかなくて大変でした」
――それがまさかの大ヒット! 今、日本にバウムクーヘンは何種類ありますか?
河本「現在、全国に約1000種類ありますね。博覧会に集まるだけでも300種類。
先ほど、ドイツのバウムクーヘンは1種類、ひとつだけで、伝統と格式にのっとって『こうでなければバウムクーヘンと呼んではいけない』というお話をしましたが、日本ではいろんな土地で、いろんな材料を取り入れて、自分たちのバウムクーヘンを作っているわけです」
――“バウムクーヘンはこれだけ”なんてとても言えない(笑)
河本「僕らは、バウムクーヘンはこうでなきゃとか、料理でよくある元祖争いのようなことは止めて『もう全部バウムクーヘンだ』としています。そのおかげか、ひとつにこだわり過ぎたドイツのコトブスでは、一度途絶えてしまったけれど、日本では100年で全国津々浦々に広がっているじゃないですか。
そうしないと、日本でもなくなっていたかもしれないし、この先の100年は残らないかもしれないです」
――3月開催の神戸では2万人が来場したそう
河本「2万人はレジで会計した人数なので、来場者自体はもっと多いですね。9月の連休に名古屋で開催した時も大盛況で、コロナ前の売り上げを10%ぐらい上回りました。こうしたお菓子のイベントが、これからもどんどん盛んになっていく形を作れて、本当に良かったです」
――参加店も来場者も、コロナ禍でだいぶ鬱屈していた気持ちが、このバウムクーヘン博覧会で救われたかも
河本「皆さん、カゴの中に何個もバウムクーヘンを入れていましたよね」
――みんなでいろいろ食べ比べたいのでは
河本「おっしゃる通り。バウムクーヘンは大きいじゃないですか。もともと、ひとりで食べるお菓子ではなくて、昔から分けて食べていたものだし。
たぶんお菓子とは、みんなで食べるもの。つまりみんなで何かやろうよ、という感情のひとつの象徴なんじゃないかと思うんです。こんな風にお菓子を中心に人が集まるとか、太古の時代に肉を焼いて食べた後に、みんなで作ったバウムクーヘンを、みんなで分ける。こういう楽しみ方はずっと変わらないと思いますね」
――ご当地バウムの人気投票「ファイナルクーヘン総選挙」ですが、格付けをイヤがる店はありませんか?
河本「いやいや、それどころか今、メチャクチャ盛り上がっていますよ!
今年は名古屋で前夜祭をやったのですが、北海道の方からは、次回は北海道でやって下さいとか、ドイツでやるのはいつですか?とか。とにかく参加店の方たちの熱量がものすごく高まっていました。まさにこれこそが、最初に僕が『バウムクーヘン博覧会』をやりたいと思った理由なんですよ。みんなでひとつになるという」
――夢がひとつ叶いましたね
河本「先に『お菓子には世界を平和にする力がある』という企業理念についてお話ししましたけれども、この言葉だけ聞いたら、お菓子にそんな力があるなんて大げさだ、と誰も信じないんですよね。でも実はこれに前文がありまして、それを話すとみんな信じられるようになるんです。
ひとつのお菓子では世界を平和にすることはできない。あるいはひとりの職人では、ひとつの会社では、世界を平和にすることはできないけれども、もし世界中の職人がつながって、ひとつのお菓子を作っていったり、世界中の会社がお菓子のことなら協力できる、ということなんです。
僕はそれを『バウムクーヘン博覧会』で証明できたと思っています。みんなでひとつになれば、こういうことができるんだ。だとしたら、お菓子には本当に世界を平和にする力があるかもしれないね、と」
――ひとつのお菓子や会社だけではできないけれど、みんなでひとつになればできる
河本「そうなんです。お菓子の催事は、洋菓子業界ではバレンタインが最大最強ということが、40年間ずっと変わらなかったのです。でもこの前、神戸で開催した時は2週間のバレンタイン催事を、1週間の『バウムクーヘン博覧会』が売り上げ(※)も来場者数も抜いたんですよ」
※1週間当たりの売り上げで比較
――バレンタイン超えはスゴい!
河本「いったい何が起きているかというと、バレンタイン催事は、場所によってはランキングを作ったりと、売り上げ競争なんですよね。でも『バウムクーヘン博覧会』は、全然雰囲気が違うんです。お客さんみんなに決めてもらおうよ、という」
――主催の河本さんの思いが伝わっているんですね
河本「これはたぶん、バウムクーヘンだからだと思います。先ほど言いましたように、バウムクーヘンはひとりで食べられるお菓子ではなく、みんなで食べるお菓子。だから催事もこうしてみんなでやっていく。それが、バウムクーヘン博覧会がどんどん成長している理由でしょうね」
バウムクーヘンが初めて日本にもたらされてから約100年。これほど長く愛され続ける理由は、創業者が伝えた技術を職人たちがずっと磨き続けてきたことにあった。
そのルーツは実は紀元前。人類最古のデザートから職人の技術とともに進化してきたバウムクーヘンだが、みんなで作ってみんなで食べるという楽しみ方は、太古の時代から変わらない。現代の『バウムクーヘン博覧会』でもそれは同じ。みんなでひとつになることで、ユーハイムが目指す“お菓子が世界を平和にする”時代が本当に来るのかもしれない。
河本英雄(かわもと・ひでお)●1969年生まれ、神戸市出身。1999年ユーハイム入社、2015年代表取締役社長に就任。ミーティング時のお茶はノンカフェイン派。趣味はバウムクーヘン・グレートジャーニーの旅。座右の銘は「お菓子には世界を平和にする力がある」。近況は「メタバースに興味があり、知識を深めています」とのこと。
聞き手=玉置泰紀(たまき・やすのり)●1961年生まれ、大阪府出身。エリアLOVEウォーカー総編集長、KADOKAWA拠点ブランディング・エグゼクティブプロデューサー。ほかにも日本型IRビジネスリポート編集委員など。座右の銘は「さよならだけが人生だ」。近況は、「大分県や石川県など、各地の観光スポットを、アートや食をテーマに廻ってます。大分県の臼杵市にオランダ船 デ・リーフデ号が漂着したのは1600年。日本とオランダの国交の始まりだった。第一次世界大戦の結果、日本にやってきたカール・ユーハイムさんもそうだが、国内外の交流によって生まれる文化や食に想いを馳せる日々です」。
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