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ロードマップでわかる!当世プロセッサー事情 第406回

業界に痕跡を残して消えたメーカー データベースソフトdBASE IIで成功し会社経営に失敗したAshton-tate

2017年05月08日 11時00分更新

文● 大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/) 編集●北村/ASCII.jp

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サードパーティーを締め出し
多角経営も失敗するなど社内が大混乱

 ただし社内は大変なことになっていた。まずdBASE III+の開発が始まる直前にRatliff氏はAshton-Tateを辞めている。これはEsber氏が社内パーティーなどでRatliff氏に会った際に「彼(Ratliff氏)は、会社の警備員と同じくらい会社にとっては重要である」と、面と向かって言ったそうだ。

 一応真意としては、会社は開発チーム全体を尊重するのであって、特定のだれかを尊重するわけではない、ということらしい(これもずいぶん好意的な解釈である)が、面と向かってこんなことを言われて喜ぶエンジニアはいない。

 Ratliff氏はセールスやマーケティングの一群を引き連れて辞任し、自身でMigent Corporationを設立。ここでEmerald Bayと呼ばれる新しいデータベースエンジンの開発を手がけるが、これは上手くいかず、1988年1月には60人いた従業員のうち20人を解雇することになる。

 これに先んじて1987年にはAshton-tateから秘密情報を持ち出したという訴えを起こされており、その後程なくして消滅に至る。ちなみに一度Ratliff氏はAshton-tateに戻ろうとしたようだが、戻れたかどうかは定かではない。

 第2の問題は、同社がこれまで築いてきたサードパーティーのエコシステムをEsber氏がブチ壊したことだ。彼はdBASE言語を“Proprietary”(Ashton-tateが権利を持つ独自のもの)と宣言し、サードパーティーを寄生虫呼ばわりした。

 dBASE IIの時代には、dBASEを利用したり拡張したりするさまざまなソフトウェアを多くのメーカーがリリース、これを利用することでユーザーが広がるという好循環が形成されていた。

 ところがEsber氏は、こうしたサードパーティーはむしろAshton-tateの利益を損なうものという見方をしており、結果としてサードパーティーはdBASEを見放し、独自の標準規格“standard xBASE”を策定する方向に走り、これは当然長期的には同社の利益を損なうことになった。

 第3の問題は、またしても多角化である。Ashton-tateの売上げと利益はほぼdBASEに頼っており、これは財務上健全とは言えないというのは理解できるし、そのために製品の多角化を図ろうというのも、大筋では間違っていない。

 同社はWangの70年代のワープロを移植したMultiMate、グラフの描画を行なうChart Masterファミリー(Chart MasterのほかにSign MasterとDiagram Masterがあったらしい)、Framework(統合ソフト)、Byline(DTPソフト)、Friday!(dBASE IIをベースにした個人スケジュール管理ソフト)などいくつかの製品を手がけることになり、これらはことごとく失敗した。

 失敗して当然、というのはMultiMateはWangの仕様そのままなので、一度に表示できる画面は1ページのみで、装飾機能なども最低限、おまけにコードはアセンブラで記述されたスパゲッティー状態だったらしい。

 もっとも同じスパゲッティーでも、BASICで記述されてさらに性能が低かったChart Masterシリーズよりはマシだったのかもしれないが、手の入れようがないあたりは大して変わらない。

 どちらのソフトも、これを開発していた会社を買収して(MultiMateはMultiMate International、MasterシリーズはMaster Graphics, Inc.)ラインナップに加えたが、案の定雑誌などのレビューでは最低スコアを記録していたそうで、最終的にChartMasterシリーズはイチから作り直している。

 こうしたソフトウェアの開発やメンテナンスにもそれなりのエンジニアリングコストを要していたわけで、外から見えていたよりもずっと内部はドタバタしていた。

dBASE IVのバグ修正を遅らせた
経営判断が致命傷に

 そしてとどめを刺したのがdBASE IVであった。もともとdBASE IIやdBASE IIIはスタンドアローンでの利用を前提にしていたソフトウェアであるが、1980年代も後半に入るとネットワークでPCがつながるようになってきており、これに対応するというニーズが出てきた。

 こうした状況を踏まえて、クライアント・サーバー方式に対応すべく開発していたのがdBASE IVであったが、1988年2月に発表されたものの、7月に発売予定とされたdBASE IVの出荷は10月に延び、しかも性能が低くバグも多かった。

 特にバグに関しては、メモリー管理に重大な欠点を抱えていたほか、内蔵するコンパイラの生成するコードにも問題があり、おまけに生成されたコードが単体では動作しないという欠点もあった。またデータベース本体にもいろいろ問題が多く、一言で言えば「使い物にならない」レベルであった。

dBASE IV

 おもしろいのは、この時点でのdBASEのユーザーは「良く訓練されていた」。ほとんどのユーザーは、dBASE IV 1.0が使い物にならないことを理解しており、半年以内にはバグを修正したdBASE IV 1.1がリリースされることを期待して、そこまで待とうとしていた。Ashton-tateがこれを実行していれば、また事態は違ったかもしれない。

 実際には同社の経営陣はdBASE IV 1.0のバグを直す代わりに、Diamondという開発コードで知られていた次世代製品を急ぐ、という明らかに間違った決断をくだした。ところがDiamondの製品化には、まだ年単位の時間がかかることが明らかになり、あわててdBASE IVのバグ修正に取りかかることにした。

 結局修正版となるdBASE IV 1.1は9ヵ月後の1990年7月にリリースされるが、ほんの3ヵ月だけ遅かった。dBASE IVの修正版が6ヵ月経っても出ないことで、「良く訓練された」ユーザーはdBASEに見切りをつける。この頃には競合製品としてdBASEクローンであるFoxBaseやClipperなどが出ており、ユーザーはこうした競合製品に流れてしまった。

 Ashton-tateは1988年にPCのデータベース市場で63%のシェアを獲得していたが、1989年には43%に急落する。1989年のdBASE IVの出荷は事実上ストップしており、同年度には40万ドルの営業損失を計上、1800人まで膨れ上がっていた従業員の40%を解雇することになる。

 1985年頃からAshton-tateは、多くの会社との合併交渉を繰り返しているが、いずれも成立しなかった。ところが1990年にBorlandからの買収交渉が持ちかけられた時、Esber氏はこれを推進しようとし、1991年2月の取締役会でCEOから解任されている。

 後任のCEOとなったWilliam P. Lyons氏にとってもあまり選択肢はなかった。FoxBaseを特許侵害で訴えた裁判は、事実上Ashton-tateが門前払いを喰らう形で敗訴しており、dBASE IVを待っていたはずのユーザーは互換ソフトに流れてしまった。

 おまけにクライアントサーバー機能の目玉となる、マイクロソフトのSQLサーバーのフロントエンドに関しては、dBASE IVにしびれを切らしたマイクロソフト自身がAccessを投入。

 さらにマイクロソフトはFoxBASEを開発していたFox Softwareを買収してFox ProというxBASE互換製品を投入するに至り、もうAshton-tateが生き残る手段はBorlandに買収してもらうしかなかった、とも言える。

 なんというか、間違った経営やマーケティングの見本とも言うべき運命を辿ることになった形だが、最大の問題はdBASE IVがひどかったことである。

 通常ならこれはエンジニアリング部門の責任という気もするが、同社に関してはそのエンジニアリング部門を振り回したEsber氏が全部悪い、という気もしなくはない。

 ここでは直接は掲載しないが、“In Search of Stupidity”も暗に同じことを言っていると思う。

※お詫びと訂正:記事初出時、dBASEの製品名に誤りがありました。記事を訂正してお詫びします。(2017年5月8日)

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