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渡辺由美子の「誰がためにアニメは生まれる」 第31回

『翠星のガルガンティア』村田和也監督インタビュー 前編

村田監督と虚淵玄氏が回した“利他的な歯車”

2013年10月12日 12時00分更新

文● 渡辺由美子(@watanabe_yumiko

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「仕事」とは、「生きよう」とする生命維持活動

―― 人類銀河同盟という衣食住すべてが用意された組織を離れ、戦闘以外のことをまるで経験していないレドが、ガルガンティアで生きていくために、船団で仕事をしてお金をもらいながら暮らしていきます。監督にとって「仕事」とは、どんな意味を持つものでしょうか。

「僕は『価値の交換』に、人間だけが持つ意義があると思っています」(村田監督)

村田 仕事というのは、端的に言ってしまうと、「生きる」ということとイコールではないかと考えています。「生きる」という意味には、2種類あって、その内のひとつが仕事だと僕は思っているんです。

 「生きる」のまず最初の1つは、「生命現象」としての「生きる」です。自分の細胞や内蔵など、肉体が勝手にやってくれる生命活動のことですね。これは自分の意志に関係なく行われます。母親のおなかの中で受精卵として自分が発生した瞬間から、自動的にそれが発動して、死ぬまで続いていくものです。

 もう1つの「生きる」というのは、自分が生物として生存し続けられるように自分の意志で自分を「生かすように仕向ける」という、生命を維持する活動のこと。人はものを食べなければ死にますよね。だから自分が死なないように、食べ物を手に入れたり、また睡眠をとるために安全に寝られる場所を確保したり、自分で生命を維持する活動をする。そのための活動全てが「仕事」だと思うんですね。

 食べ物を手に入れたら、それを口に運んで咀嚼して飲み込むまでが「仕事」。意思の力で行なう領域。飲み込んだ後は胃袋が勝手に消化してくれるので、そこは「生命現象」なんですよ。

―― なるほど。興味深いです。

村田 さらに言うと、例えば、結婚して子供ができたら、守らなくてはいけない存在が生まれる。家族に対して食べるものや住む場所を獲得するというものも「仕事」だと思うんですよね。

 家族は自分の延長です。広く言うなら同胞。特に自分の子孫は自分の命の延長ですから、自分を存続させるのと同様に、いやそれ以上に存続させたいという強い欲求が人間の本能には組み込まれています。種族保存本能というやつです。だから自分の生命を守るのと同様に、家族や同胞の生命を守ることも仕事です。直系の子孫がいない場合でも、自分が属する共同体や民族を同胞と認識することもできますし、現代的な視野でいうなら、人類全体を同胞と認識することも出来ます。

 僕たちは日頃、働いてお金を得ることが仕事だと言葉として使うけれども、お金というのは本来、生きるための手段ですよね。

―― 「仕事」とは、広義で言うと生命維持活動そのものだと。「お金」とは、人が生きる上で何にあたると思いますか。

村田 極端にいうと「命の引換え券」です。命と交換するという意味ではなく、生きる上で人間が欲するありとあらゆるものと、人間が生み出せるありとあらゆるものを交換出来るようにした、人類が生み出した共通のお約束です。

 すべての物事に対して価値とそれに見合った価格をつける。それは人間の労働であったり、物品であったり、サービスであったり、いろいろなことに対して価格をつけて、それをお金という記号を介して交換できるようにしています。それが他の動物にはない、人間が生み出した独自の知恵ですよね。

 僕はこの性質の異なる「価値」を「交換」できるようにしたというところに、人間だけが持ち得た「お金」というものの意義があると思っているんです。

(C)オケアノス/「翠星のガルガンティア」製作委員会

―― 「価値の交換」には、どんな意義があると思いますか。

村田 他者が欲する何らかの価値を自分が与えることによって、その他者から、見返りとして報酬、つまりお金を受け取る。自分が生み出せるもの、他者に与えられるものには限りがあります。だからそれを欲しがる人を探して与えます。でもその人は、私が欲しいと思うものを必ずしも持っているとは限らない。

 だから一旦「お金」で受け取って、その得た「お金」で自分が必要とする別の「価値」を手に入れる。そしてその報酬によって、自分や家族や同胞の生命を守る。それが人間社会一般において「仕事をする」ということであり、逆にいうと人類だけにしか存在しない仕事の仕方だと僕は捉えています。

 つまり人間社会における「仕事」というのは、まずは他者の「欲求」を満たすことから始まります。そして人間の「欲求」というものを考えるときに、僕はそれが3つのベクトルに分けられるものだと、そう捉えています。1つは、利己欲求。自分の生命身体を守る欲求。もう1つは、利他欲求。そして最後の1つが、利知欲求。つまり知的欲求ですね。見たい聞きたい味わいたい嗅ぎたい触りたいっていう感覚欲求と、好奇心、考えたい分かりたい出来るようになりたいという思考理解欲求、能力獲得欲求。

 利知欲求というのは、言うなれば自分をとりまく世界を制御したい欲求です。この欲求によって、周囲を知り把握できるようになり、自分の求める結果を得られるように状況をコントロールできるようになる。環境適応能力を上げる欲求です。

 実はこの「利知欲求」のおかげで、「利他欲求」を満たすための利他能力が高まるんですね。

 「利他欲求」は、人類という種を存続させる上でもっとも重要な欲求です。人間が社会を生み出し維持していけるのもこの欲求のお陰ですし、個人が生き甲斐や生きる目的を感じられるのも、この欲求を持っているためだと言えます。

 自分が、周りの人に対して何かをしてあげて喜ばせることが、自分の喜びに繋がるというサイクルが回っている。それが利他欲求の充足だと思います。

 「○○さんすごいね」とか言われるのが嬉しいのは、自分がその人のために何か力を発揮して、その人に快感を与えているから、幸せにしてあげられているからということだと思うんですよね。

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