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牽引者の実像 第1回

――百度(バイドゥ)駐日首席代表 陳海騰――

日本のコンテンツが中国人の日本像を変え、知日家を生んだ

2012年08月31日 12時00分更新

文● 美和正臣 撮影●小林伸

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陳氏の人生を変えた1人の日本人

 中国国際旅行社を辞めようと思ったのは1人の日本人との出会いがきっかけだ。それは陳氏の著書にも登場する、沖縄で貿易会社向けの沖縄通関手続き代行会社の社長をしていた平良哲男さんだ。旅行会社というのは、貿易関連の通訳を頼まれることが多い。何回か指名で通訳をやっているうちに平良さんの信用を得て、「陳くん、もし日本に留学するんだったら保証人になってあげる」と言われるほどになった。当時は身元引受人がいないと日本に来ることができなかったため、日本留学を促す大きな要因となった。
 また厦門は経済特区となっており、視察に訪れる人も多い。沖縄国際大学の教員が視察に訪れた際に通訳で入ったところ「陳君、日本語が話せるから、うちの大学に入れるよ」と誘われたという。こういった人との出会いにより、1992年、沖縄に留学することを決意する。

社会人から一転、再度学生となった。専攻は経済学。画像は沖縄国際大学のHP

陳:日本へ留学する人は、みんな東京に行くから、違うところでやりたいと思いました。だから誘われた沖縄国際大学にしようと考えました。それに沖縄国際大学は名前がかっこいいから国立かと思っていたんです。琉球大学が国立とは思わなかった(笑)。当時、インターネットもないからちゃんと調べようがなかったんですね。

 ビザの関係もあり、半年ほど日本語学校で勉強をするが、日本語専攻で通訳をやっていた陳氏にとっては朝飯前だ。テストでもA判定を受け、その後大学に入学する。大学では経済学を専攻することにした。

沖縄国際大学入学当時の陳氏

陳:大学にいたのは2年間で、経済学をやりました。住んでいたのは沖縄県庁の近くの泉崎2丁目。2LDKを台湾人の留学生とルームシェアしていました。実は2年間沖縄にいましたけど、海に行ったことがない。
 現在のポートホテル(当時の富士ホテル)のフロントで2年間アルバイトをしながら勉強をしました。本当のことを言うと一番勉強になったのは、大学よりもホテルで日経新聞を読んでいたことですね。夜には捨てるから、それをもらって勉強しました。アルバイトは毎日4時半から12時半まで。金曜日はオールナイト。時給600円で安かったなぁ。

 来日した陳氏であるが、厦門とのギャップに驚いたという。

陳:日本に来て、沖縄が田舎だと思いました。実は厦門のほうが高層階のビルが多かった(笑)。気候は一緒ですね。廈門とあまり変わらない。廈門も年間平均21度と同じくらい。食事も一緒でしたね。豚足、伊勢エビ、ゴーヤチャンプル、ソーキそばとか。沖縄はのんびりしていて、人情があるんですね。毎月、先生の家に呼ばれてご飯を食べるとか、そんな学生生活を送りました。

 1995年、陳氏が28歳のときに神戸大学の大学院に進学する。1995年と言えば、ちょうど阪神大震災が起きたときだ。

陳:大学の先生から当時反対されました。沖縄国際大学と神戸大学は全然レベルが違うから、どうせ入れないからって。でも、受けてみたんです。国立大学を受験する時には、日本語検定の1級に合格しなければならないので、一度、大阪大学に行きました。沖縄は田舎だから受験できないんですね。その後、阪神大震災で応募者が少なかったのもあったのでしょう、神戸大学の大学院に合格しました。
 でもそのあとが大変でしたね。当時、神戸では部屋を貸してもらえませんでした。震災の関係で日本人の部屋がないし、福建省のイメージも悪くて……密入国ばかりでね。だから最初は梅田のビジネスホテルから大学院に通っていました。その後、神戸大学の卒業生の紹介でホームステイしたりしてしのいでいたのですが、2年間限定で学校が寮を学生に開放したのでそこに入居しました。
 アルバイトは中国語の家庭教師とかをやりました。時給が2000円とか高くてよかった。でも毎日あるわけじゃないから、一時的に東灘区にあった金盃(日本酒の工場)でもアルバイトしました。1日9000円で箱詰めとかやりました。つらいし、重たいし、何で神戸大学の学生がそんなことやらなきゃいけないんだと思いましたね。一緒に働いていた人の中に博士過程の人もいました。それを見て、しょうがないかと(笑)。

当時の神戸大学での写真。阪神大震災直後で苦労したという

 大学院では経済を専攻し、「日中の自動車産業の比較」についての論文を作成する。内容は、過去の日本がどのような政策を取り、産業を育成してから市場を開放したのかというものだった。
 陳氏が大学院に進学したのは、中国に帰国後、大学の職に就きたいと考えたからだ。しかし大学院に入って初めてわかったのは、日本では博士号が簡単に取れないという現実だった。

陳:大学院は、前期と後期、それぞれ3年あるのですが、先生に聞いたらPh.D(博士号)を取るのは結構難しい、ほぼもらえないと言われました。だから博士課程に進むのをやめました。アメリカならドクターまで進んで卒業するとPh.Dがもらえるのにね。マスターのまま中国に帰ったら意味がないですから。中国でマスターのまま大学の職に就くと講師、Ph.Dだと助教授からスタートです。それに給料もPh.Dを持っていないと半分ですよ。中国では生活する部屋の大きさも違うんです。講師は1LDK、助教授は2LDKです。待遇が全然違う。教授になると3LDKです。だから3年間の時間が無駄になったわけです。

 この後、陳氏は帰国するのをあきらめ、日本の企業に就職する決意を固める。彼のIT業界への足がかりはここから始まる。次回は、日本の企業でどのようなことを学んでいったのか、彼の実績をもとに聞いていこう。

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