歴史的建造物と高層ビルが融合! 都市開発マニアが案内する「丸の内建築ツアー」 第28回

かつての東洋一から日本一のビルへ! 丸の内の空を塗り変える「TOKYO TORCH」再開発秘話

文●きりぼうくん

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銭瓶町ポンプ所の建設(1931年)

 何度かの建て替えを経て現存する「銭瓶町ポンプ所」は、東京駅北側の常盤橋地区における下水道整備の要として建設された重要な都市インフラです。この一帯は、江戸時代には江戸城と日本橋川を結ぶ道三堀が通じ、銭瓶橋が架けられるなど、水運と交通の要衝として発展してきました。明治以降も都市機能が集積し、1929年まで「銭瓶町(ぜにがめちょう)」と呼ばれていました。

 1931年3月、東京市によって銭瓶町ポンプ所が開設され、現在の千代田区・中央区・文京区に相当する広範囲から集められた下水を一次処理し、芝浦下水処理場へ送水する中継施設として機能していました。1884年に日本最古の近代下水道である神田下水が設置されてから、約半世紀ほど後の時期になります。これは、帝都復興事業に伴う下水道整備の一環として建設されたもので、関東大震災後の都市防災と衛生環境の向上を支える存在でした。

 しかし、戦後の高度経済成長により周辺は高層ビルが立ち並ぶ都心業務地区へと変貌し、昼間人口の増加に伴って下水量も急増しました。このため、旧来のポンプ所では処理能力が不足することが懸念され、施設の近代化と再構築が不可欠となりました。こうした背景のもと、昭和時代に進められた、前回の常盤橋地区再開発と一体で銭瓶町ポンプ所の移転・立体化が行われ、日本ビルヂングの地下に組み込まれる形で新たなポンプ所が建設されることとなります。

戦前の1936年(昭和11年)の空撮。1931年に銭瓶町ポンプ所が開設されている(出典:国土地理院撮影の空中写真)

戦後すぐの1947年(昭和22年)の空撮。日本ビルヂング建設前は銭瓶町ポンプ所のほか、三越の配送所用地や興農会館など複数の木造低層の建物が建っていた(出典:国土地理院撮影の空中写真)

1963年(昭和38年)の空撮。北側に第一期工事として建設された第三大手町ビルヂングが建っていることが確認できる(出典:国土地理院撮影の空中写真)

1984年(昭和59年)の空撮。南側に第二期工事としてビルが建設されて日本ビルヂング全体が完成しているほか、東側にJXビル、南西側に朝日生命大手町ビルが建っている(出典:国土地理院撮影の空中写真)

2010年(平成22年)の空撮。TOKYO TORCH(東京トーチ)の開発プロジェクト始動前の様子(出典:国土地理院撮影の空中写真)

日本ビルヂングの建設(1962年)

 日本ビルヂングは区域南西側に建っていた大規模オフィスビルで、戦後日本を代表する大規模都市再開発の象徴的存在として建設されました。建設背景には、老朽化した市街地と下水道施設を抱えながらも、日本の玄関口として高度な都市機能が求められた常盤橋地区の課題がありました。

 この地は近代以降は「銭瓶町」と呼ばれ、1931年には東京市によって銭瓶町ポンプ所が設置され、都心広域の下水処理を担ってきました。しかし戦後、周辺は木造建築が密集し、都市景観や防災、土地利用の面で大きな課題を抱える地区となっていました。

 三菱地所は1913年にこの地の一部を取得し、三越の配送所用地として貸与していましたが、1959年ごろから一帯の再開発構想を本格化させます。東京オリンピックを控え、首都高速道路建設や下水道機能の強化など都市インフラ整備の必要性が高まったことを受け、東京都も再開発に参画しました。最大の課題は、下水道機能を止めることなく再整備すること、そして飛び地状に存在する朝日生命保険や大和土地建物などの地権者間の調整でした。

 まず1960年に興農会館の解体が始まり、1962年7月、第一期工事として「第三大手町ビルヂング」が竣工します。白いタイルとステンレスの横連窓を特徴とする近代的な外観で、地上9階、地下2階、延床面積46,310平方メートルの規模でした。この建設により、三越配送所の再配置と主要テナントの移転が実現し、再開発は大きく前進しました。

 1963年には、東京都下水道局を含む地権者4者による「常盤橋地区再開発に関する協定」が締結され、土地の交換分合や公開空地の確保、ポンプ所の立体化が決定されます。特に画期的だったのは、下水道施設の上部空間を民間ビルとして活用する「空中権」の考え方と、特定街区制度による容積率緩和でした。これにより、公共施設整備と民間開発を両立させる新たな都市再開発モデルが成立しました。

 1963年末から第二期工事が始まり、難工事の末、1965年11月に地上14階、地下4階、高さ51.4メートル、延床面積173,016 平方メートルを誇る巨大オフィスビルが竣工します。この時、建物名称は「日本ビルヂング」に改められ、東洋一の規模を誇るオフィスビルとして注目を集めました。地下には新たな銭瓶町ポンプ所が整備され、1966年から本格稼働を開始します。

 日本ビルヂングの建設は、都市インフラと高層建築を一体的に整備した日本初の本格的事例であり、その後の大手町・丸の内再開発の原点ともいえる存在でした。公共性と経済性を両立させたこの取り組みは、現在の大規模再開発へと連なる重要な礎となっています。

南東側から見た日本ビルヂングの様子(2014年8月撮影)

西側に隣接する朝日生命大手町ビルと低層基壇部の軒の高さが揃っていた

南東側から見た解体直前の日本ビルヂングの様子(2018年2月撮影)

常盤橋タワー竣工後の日本ビルヂングとの間の様子

日本ビルヂングのエントランスの様子

北東側から見た日本ビルヂングの様子

先行して第三大手町ビルヂングとして建設された北側から解体工事が始まった(2020年6月撮影)

北西側から見た日本ビルヂングの様子(2015年8月撮影)

解体工事が始まる直前の北西側から見た日本ビルヂングの様子(2016年8月撮影)

日本ビルヂングの北側が先に解体されたため、南側半分のビルの切断面が見えている(2018年8月撮影)

JXビルの建設(1970年)

 JXビルは、区域東側に建っていた超高層オフィスビルです。日本の鉄鋼産業およびエネルギー産業を代表する企業の本社機能を長年にわたり担い、常盤橋地区再開発を象徴する建築の一つとして知られていました。JXビルは当初、歩行者用通路を挟んだ西側に位置する日本ビルヂング別館のテナントビルとして、「日本ビル別棟」の名称で計画されていました。

 しかし、着工準備段階である1967年6月に、八幡製鐵が本社ビルとして一棟を全面使用することが決定され、計画内容が大きく変更されました。同年9月7日に着工し、建設途中の1968年4月17日には、八幡製鐵と富士製鐵の合併が発表されました。これを受け、建物名は新会社である新日本製鐵に合わせて「新日鐵ビルヂング(新日鉄ビルヂング)」と改められました。

 新日鐵ビルヂングは1970年2月25日に竣工し、同年3月21日から22日にかけて、八幡製鐵および富士製鐵の両社が旧本社から移転が行われました。3月31日には、新会社発足を記念する式典が本ビルで開催されています。地上20階、地下5階、高さ84メートルの規模を誇り、朝日生命大手町ビルに抜かれるまでは、当時の丸の内地区では最も高い建築物であり、東京都内でも有数の高層ビルでした。

 建築にあたっては、新日本製鐵の要望により同社の特殊鋼材が使用され、仕上げ程度の高い建物となりました。また、室内照明は一般的なオフィスビルを上回る1,000ルクスが確保され、先進的な執務環境が整えられていました。地下には、周辺ビルと一体的に整備された大規模公共駐車場「日本パーキングセンター」や、東京電力常盤橋変電所が配置され、都市インフラと一体化した立体的な再開発の中核を成していました。

 その後、新日本製鐵は2009年に丸の内パークビルディングへ本社を移転しました。これに伴い、本ビルは全館改修工事を実施したうえで、2010年に新日本石油と新日鉱ホールディングスの統合により発足したJXホールディングスの本社として利用されるようになり、名称も「JXビル」に変更されました。また、旧新日本石油本社前に設置されていた創業100周年記念の「プロメテウス『希望』の像」も、この時期にJXビル脇へ移設されました。

 しかし、JXホールディングスは大手町一丁目で進められた再開発事業により、2015年11月に竣工した「大手門タワー・JXビル」へ本社を移転しました。これにより旧JXビルは役割を終え、三菱地所による常盤橋地区再開発事業の一環として、2017年から解体工事が開始され、2018年までに解体が完了しました。なお、地下3階~地下2階の地下駐車場および地下5階~地下4階に配置されていた東京電力常盤橋変電所については、TOKYO TORCH(東京トーチ)の再開発計画時も解体対象とはならず、改修のうえC棟として引き続き活用されています。

 JXビルは、日本の高度経済成長期を支えた企業建築であると同時に、常盤橋地区再開発という先駆的な都市再開発の中核を担った建物として、東京の都市形成史において重要な存在であったといえます。

北西側から見たJXビルの様子(2016年3月撮影)

北西側から見たJXビルの様子。茶色で四角い窓がずらりと並ぶ古めかしい雰囲気の超高層ビルであった

南西側から見たJXビルの様子

南東側から見たJXビルの様子

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