美術館にお勤めの学芸員さんには、展覧会を企画するだけでなく、自身の研究成果を論文や著書として広く発表するという大切なお仕事もあります。
1889年(明治22年)に第1号を創刊した、日本で最も歴史のある美術雑誌『國華』や大学の研究紀要それに学会での論文発表などから、街中の書店やAmazonで扱う一般書籍までその活躍の場はさまざまです。
今回は東京美術出版より6月に刊行となった『ロートレック作品集』をお書きになられた、三菱一号館美術館上席学芸員の安井裕雄さんに執筆に当たり留意した点や他の作品集との違いなどについて伺ってきました。
日本でも人気の高いトゥールーズ=ロートレックについての新しい知見も満載です。
中村:まずは『ロートレック作品集』上梓おめでとうございます。まずはこのロートレック本をお書きになるにあたり、苦労した点をお聞かせ下さい。
安井学芸員:トゥールーズ=ロートレックの伝記、作品集、そして展覧会図録は、二つのトラップ陥りがちなので、その点に注意しました。
中村:というと?
安井上席学芸員:第一に、ロートレックの代表作がポスター《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ》であるとする点です。確かにロートレックはポスターにより人々に記憶されていますが、37歳で亡くなった彼が商業印刷の世界に身を投じた年には、既に27歳、彼の人生は10年しか残されていませんでした。つまりロートレックをポスターだけで評価しようとすると、ロートレックの画業の最後の10年に満たない、ごく一部を切り取ってしまい、重要な最初の10年間を切り捨ててしまうことになるのです。
もちろんロートレックは、ポスターも絵画と同等の芸術とみなしていました。しかし彼のポスターだけを高く評価することで、画家としての業績の過半を占める絵画作品の相対的な価値低下に直結している状況は、無視してはならないことだと思いますし、先行研究そして諸著作には、多くの場合“画家”としてのロートレックという観点が欠けています。
1992年にパリとロンドンで開催された大回顧展には、リチャード・トムソンがこの視点を持ちながら果敢に切り込んでいたのですが、大部のカタログはどちらかと言えば伝統的なロートレック観を持つ人々=ロートレックの伝記記者たちとの共著のために、この卓見が薄れてしまっています。
中村:なるほど、我々がよく知るロートレックの代表作と認識しているポスターは彼の画業の一部でしかなく、他の部分を見落としてしまっているのですね。確かにそれは画家の画業を知るうえで大きな瑕疵となります。2つ目の弊害とはどんなことなのでしょう。
安井上席学芸員:第二の弊害として、トゥールーズ=ロートレックという画家が、画家としての業績よりも、その波乱万丈な人生に焦点を当てられてしまったことがあげられます。通俗的な伝記であれば致し方ないのですが、作品集さらには展覧会の図録でさえも、この傾向が顕著です。ちょうどファン・ゴッホもしばしば、心の傷が作品とダイレクトに結びつけられていましたが、造形的な面を優先して分析するフォルマリスムの美術史や美術批評が確立してからは、美術史に正しい位置を見出しています。
しかしながらロートレックに対する同時代批判は、トムソンによると、伯爵家の嫡男でありながら、下層階級に交じって享楽の日々を送った、アルコール依存症と梅毒によって蝕まれた、その人格に対する攻撃に終始しています。この状況は実は大きな変化もなく、21世紀になってもいまだに、脱却することができていないのです。
中村:これまで観た展覧会でもロートレックの波乱に満ちた人生に焦点をあて悲壮感を漂わせるような印象を受けたことがありました。物語や小説としては良くても、作品集となると客観性に欠けてしまうという点は、目から鱗でした。
安井上席学芸員:はい、私もです。だから『ロートレック作品集』の試みは、トゥールーズ=ロートレックの油彩、素描さらには版画作品をもう一度見つめなおすことにしました。そして画家個人の生活ではなく、画業を中心に述べることに重点が置かれています。
もちろんのことながら、作品集である以上は、画家の壮絶な人生を語らないわけにはいかないのですが、注意深く読んでいただければ、これまでのロートレック関連著作では封印されていた点にも切り込んでいます。つまりトムソンが指摘したように、ロートレックという人間は亡くなるまで貴族であり続け、下層階級の人々に対する強い差別意識を持っていたこと。そしてまた、当時の男性の常として、男尊女卑であったことなども読み取れます。
中村:多様性、多様性と猫も杓子も口にする窮屈な今、まさにその点が深く印象に残りました。
安井上席学芸員:ロートレックの、その残酷なまでに厳しい視線は、貧しい踊り子、お針子、曲芸師、芸人、娼婦たちの真実の姿を、情け容赦なく描き出すための原動力になりました。そして必ずしも容姿端麗ではない(失礼)モデルを描き出した時に、おどろくほどの美しさを見せます。この世の物ならぬほどの。想像力が欠如している、とも言えますが(笑)。呵責ない視線を醜い現実に向けながら、美しく描き上げる卓越したセンスこそが、トゥールーズ=ロートレックが亡くなるまで保ち続けた、貴族的な精神の賜物なのです。
中村:なるほど「死ぬまで貴族であり続けたロートレック」が重要なキーワードとなっているのですね。
安井上席学芸員:ロートレックの有り余る才能を封じ込めた『ロートレック作品集』を書くにあたり、東京美術の根本武さんには大変尽力して頂きました。また元の原稿は本書の倍以上あったのですが、編集の久保恵子さんの卓越した編集力により読みやすいものとなりました。また島内康弘デザイン室の華やかな装丁は書店でも目を惹いています。関係者の皆さまにあらためて感謝申し上げます。
『ロートレック作品集』
著者:安井裕雄
出版社:東京美術
価格:¥3,520(税込)
ISBN:9784808713089
https://www.amazon.co.jp/dp/480871308X/
【参考】青い日記帳『ロートレック作品集』レビュー
https://bluediary2.jugem.jp/?eid=7393
【著者プロフィール】
安井裕雄(やすいひろお)
Hiroo YASUI
1969年生まれ。財団法人ひろしま美術館学芸員、岩手県立美術館専門学芸員を経て、現在、三菱一号館美術館上席学芸員。専門はフランス近代美術。主な担当展覧会に「モネ―睡蓮の世界」(共同監修、2001)、「シャルダン―静寂の巨匠」(2012)、「ルドン―秘密の花園」(2018)、「全員巨匠!―フィリップス・コレクション展」(2018)、「1894 Visions ルドン・ロートレック展」(2020)など多数。「ルドン―秘密の花園」では第13回西洋美術振興財団賞「学術賞」を受賞した。主な著書に『もっと知りたいモネ―生涯と作品』『モネ作品集』(東京美術)、『ルノワールの犬と猫―印象派の動物たち』(講談社)、『図説 モネ「睡蓮」の世界』(創元社)、共著に『モネ入門―「睡蓮」を読み解く六つの話』(地中美術館)、『地中美術館』(公益財団法人福武財団)がある。
三菱一号館美術館 再開館記念『不在』―ソフィ・カルとトゥールーズ=ロートレック
会期: 2024年11月23日(土)〜2025年1月26日(日)
https://mimt.jp/exhibition/#sophie-calle
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