新横浜ラーメン博物館のウラ話 第2回

【連載】ラー博の何故? 第2話~ どのような経緯でラーメン博物館を作ったのか?

文●中野正博

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 みなさんこんにちは。

 地元横浜の家系ラーメンは47歳でも中盛、脂多め、海苔増しで注文をする新横浜ラーメン博物館の中野です。

 連載の前に、少しトピックスをお話させていただきます。当館の「ラーメン作り体験」の内容が、4月よりリニューアルしました。その内容は、古代エジプトの頃から食されている「スペルト小麦」を使用し、製麺機が普及する前の青竹打ち製法で麺を作り、スープと合わせてその場でお召し上がりいただけるというコースです。ありがたいことに、多くの方にご利用いただいております。なかなかできない貴重な体験ですので、ご興味のある方は是非!

 ラーメン作り体験~青竹打ちで麺を作ろう!
 https://www.raumen.co.jp/makingnoodle.html

青竹打ち製法によるラーメン作り体験

 今回の連載は「ラー博の何故?」と題して、これまで多くの方々からご質問をいただく何故についてお話をさせていただいております。

 前回は、「何故? 新横浜に作ったのか?」という内容でした。

 今回は、一番ご質問の多い「どのような経緯でラーメン博物館を作ったのか?」についてお話させていただきます。

 前話でお話したとおり、原点は地元新横浜の「町おこし」で、この考えに至ったのがバブル絶頂期の平成元年でした。そうは言ったものの、話題性のあるものといってもなかなか浮かぶわけではありません。

 当館の創業者である岩岡洋志曰く「正直なところ、シネコンや現在のららぽーとのような複合施設なども考えましたが、すでにビジネスモデルとしてありましたし、世にないものを創出しないとわざわざ新横浜まで来ていただけないと、思うようになりました」とのことです。

 まず、新横浜で商売していくうえで新横浜に足りないものを補うことが前提にありました。

 それは「飲食店」、「駐車場」、そして「話題性」の3つのキーワードでした。最後の「話題性」が一番難しいのですが、まずは「飲食」という切り口で物事を考えたのです。

「当時はバブル絶頂期ということもあり、海外の珍しい料理が流行っていました。私もさまざまな料理を食べ歩きましたが、私は流行によって左右される一過性の食べ物ではなく日本人が誰でも受け入れる普遍的な食べ物が良いと思い、いろいろ考えた中で“ラーメン”というキーワードが浮かび上がったのです。しかし周りからは大反対でした(岩岡談)」

 ここでようやく「ラーメン」というキーワードが生まれます。

日本の国民食ラーメンがキーワードに

 そもそも1990年ごろのラーメンはどのような位置付けだったのでしょうか?

 岩岡曰く「当時ラーメンというと、インターネットも存在していませんでしたので、今のように各地域にご当地ラーメンがあるということすら知られておらず、札幌の味噌ラーメンぐらいしか定着していませんでした。食に詳しい人で九州のラーメンや喜多方のラーメンが知られていた程度でした。」

 今でこそ、ミシュランで星を獲得し、ラーメンの番組を観ない日はないほど定着しておりますが、当時はほとんど注目されていませんでした。もちろん各地に繁盛店はありますが、注目という点ではニッチだったのです。

 しかし当時岩岡は、ラーメンに関してまったくの素人だったので、「まずは頭で考えるよりも行動!」と、休日を使いながら、全国ラーメン行脚の旅に出かけたのです。

「1杯700円前後のラーメンに多額の交通費をかけて行っていましたので、少なくとも1日に5~6軒は食べ歩いていました」

店主への取材(写真は「札幌すみれ」)

 この行動こそが、ラーメン博物館の発想に結びついていくのです。

 先に述べたように札幌の味噌ラーメンや九州ラーメン、喜多方ラーメンくらいしかないと思っていたなか、実際全国を食べ歩いてみると、各都道府県にまったく知らなかった独自のスタイルのラーメンがその地域では当たり前のように食べられていたのです。「これは一種の郷土料理じゃないか? そしてもし飛行機に乗らないで全国各地の銘店の味を1か所で食べられたらどんなにすばらしいかという」という発想にたどり着いたのです。

 ラー博のコンセプトである「飛行機に乗らずとも全国の銘店の味が一か所で味わえる」は、全国を食べ歩いて導き出した答えだったのです。

 現在はラーメンのデータベースや「ラーメンWalker」のようなラーメン本等の情報源がたくさんありますが、当時はインターネットもない時代でしたので、調べるのも苦労しました。当時数冊しか発行されていないラーメン本を片手に、まるで刑事のように地元の人に聞き込みをして、地域の有名店を探したのです。地元の老舗喫茶店、タクシーの運転手、地元の人が集うスナックなどが有力な情報源だったようです。

 そして、施設名である新横浜ラーメン博物館の「博物館」は、ある想いによって付けることとなりました。

「各地域で店主さんにお話を伺っているうちに、そのお店のラーメンが誕生するまでの裏側にあるドラマが興味深かったのです。そして、これは絶対後世に伝えていかなくてはならないという使命感に駆られたのです。また、すごいお店なのに後継ぎがいなくて閉店してしまう老舗もあり、この歴史を消したくないという想いも強くありました。そのため、施設には保存機能を持つ博物館的要素も取り入れたものにしたいと思うようになり“新横浜ラーメン博物館”という名称にしました。当時このようなビジネスモデルがなかったので、博物館と思われて人が来ないんじゃないかと反対意見も多くありましたが、志を曲げたくないと思い、押し切りました」(岩岡談)

 その想いは現在も続いており、ラーメンの歴史調査は今もなお続けております。調査・展示発表はお金がかかるうえに集客に結びつかないという声も多くありますが、日本の食文化としてのラーメンを世界に広げるためにも、これからも100年後、200年後の人々に言い伝えられるよう調査を続けていきます。万が一ラーメン博物館が閉鎖することになっても、これまで調査・収集したものを寄贈してでも残していきたいと思っております。

史実に基づいた歴史調査と展示発表

 ちょっと長文になってしまいましたが、これでもかなり短くしたつもりです。

 次回は「地下に広がる昭和33年の街並を作ったのか?」についてお話したいと思います。

 ちなみにあの街並にかかった内装費は、なんと!10億円です!

 新横浜ラーメン博物館公式HP
 https://www.raumen.co.jp/

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文/中野正博

プロフィール
1974年生まれ。海外留学をきっかけに日本の食文化を海外に発信する仕事に就きたいと思い、1998年に新横浜ラーメン博物館に入社。日本の食文化としてのラーメンを世界に広げるべく、将来の夢は五大陸にラーメン博物館を立ち上げること。