私は、東京生まれではないので秋葉原に行くようになったのは、1970年代の終わり頃からだ。しかも、ラジオ少年だったわけではないので興味を持つようになったのは1980年代の前半である。その後、友人が『日刊アルバイトニュース』(現在のan)の編集をしていて、その文字ページで秋葉原の取材記事を3回ほどやった。
当時、参考になったのは日経産業新聞の連載をまとめた『The秋葉原―電子産業の縮図』(日経産業新聞編集部、日本経済新聞出版社刊)である。とても貴重な本で、いまアマゾンで見たら29,800円で出ている。それを、自分の足でトレースして話を聞いて回って、はなはだ稚拙ながら「アキバの構造図」のようなものを描いてみた。
秋葉原駅前と中央通りを中心に、当時は昭和通り側、ラジオガァデンのあった神田川を渡ったあたりまで。あまり見せたくない内容だが、編集部によるとそのあとで記事に登場した著名な建築家がその図を褒めていたそうだ。
1985年に月刊アスキー編集部に入ってからは、仕事で出かけるようになるが、秋葉原の歴史に関して『The秋葉原』の内容を検証できたのは、1993年にやったインタビュー記事でだった。
ラジオ少年でもAVマニアでもない私が、秋葉原に興味を持ったのは、この街のアナーキーさとダイナミズムである。東京MXTVの『鼎談』という番組に桃井はるこさん(当時大学1年?)と出演したとき、彼女は、「アキバ」と「新宿」の山手線と総武線に対するトポロジー的同一性を指摘して(そんな言葉ではなかったが)、どちらも「欲望の街だ」と言った。
とにかく、この街にはただの「電気の街」という言葉では片づけられない深い懐と歩き回る人々の心のエネルギーのもたらすなにかがある。
それではいまの秋葉原はどうなのか? 9月6日(木)に、「東京文化資源会議シンポジウム」というものが開催されて、その中で「グレーターアキバ : 情報・知識の交差路」というのがテーマになっている(詳しくはコチラ)。私も、ラウンドテーブルに参加させてもらう。
そこで、参考資料というのではないが『月刊アスキー』1993年11月号に掲載した「秋葉原電気街のはじまりについて--山本博義」を掲載させていただくことにした。インタビューさせていただいた山本博義氏は、戦後の闇市からはじまった秋葉原電気街の発祥の立役者である山本長蔵氏を父に持ち、その秘書を務めたラジオセンターの社主である(当時)。
秋葉原電気街のはじまりについて--山本博義
今回、山本博義氏にインタビューをお願いしたところ、東横線中目黒駅の近くの「運命鑑定一易学者山本哲仙」の看板を目当てに来るようにと指定された。ラジオセンター社主と運命鑑定の関係は? 駅の脇の路地を入り階段を上がった3階の部屋におじゃますると、「いや、社主なんて椅子に座ってるだけで退屈だからさ。ここで、父の跡を継いで人の運命を見ているんだ」と、山本氏はにこやかに迎えてくれた。「哲仙という私の号は、もともと父の山本長蔵の号なんだよ」。山本長蔵(1908~1973年)氏こそ、電気の街秋葉原誕生のカギを握る人物のひとりである。この人の存在がなければ、現在のような秋葉原はなかったかもしれない。
戦後の露店街とラジオ
-- 秋葉原は、いつごろどのようにして電気街になったのでしょう?
「それは、終戦後だよ。1949年8月のGHQの露店撤廃令がそもそもの発端なんだ。当時の露店は、警察に許可をとって運営されていたんだけど、GHQは、快く思ってはいなかったんだな」
終戦直後、神田一帯は空襲により焼け野原と化していた。そこにいち早く進出したのが、盗品なども売るヤミ市を含む露天商たちである。
「私の父も、学生時代から学資や生活費のために易の露店で商売をしていたんだ。そのころには、須田町から小川町あたりまでの神田靖国通り沿いに栄えていた電気露店街を束ねるリーダーだった」
-- ええ。
「なにせ、警察にほとんど権威がない時代だからね。もめごとがあっても、逆に素人に殴られちゃうんだから。誰かが秩序を作らなきゃならなかった。そこで、父は神田警察署や関東の大親分たちにまで話を通して、治安のいい露店街を作ったわけなんだ」
当時、よく人が集まる場所と言えば国電の駅前であった。神田、秋葉原、御茶の水付近は、中央線、総武線京浜東北線、山の手線が交差しており、とくににぎわっていた。そこで、神田駅と学生でにぎわう神田駿河台のあたりをつなぐ靖国通り沿いに切れ目のない露店街を作れば繁盛するのではないか、というのが長蔵氏の着想だったらしい。
「父は借金をして、靖国通りの南沿いによしず張りの露店を150軒作って、そこに入る露天商を募集した。でも、ヤミ市や、酒、賭博の店なんかは禁止だったから、50~60軒しか集まらなくてさ。客も少なかった。そこで人を呼ぶためにまた借金して、歌舞伎新派の大女優市川紅梅を呼んだりして、近くの空き地で無料大演芸大会を催していたんだ。それで、客も増え、出店希望者もどんどん増えた。当時最大規模の露店街になったんだ」
一一 その中に、電気部品を売る店はどれぐらいあつたのですか?
「最初は1軒もなかったんだ。1946年の後半になって、菊池さんの露店(現・山菊ポータブル)で、たまたま4球スーパーなどの真空管やラジオ部品なんかを置いたらバカ売れしたのがきっかけだ。なぜそんなものが売れるのか調べてみたら、近くの電機学園(現・東京電機大学)の学生が来て買って行くらしいんだな。それで父は、これは商売になる、と考えたんだ」
-- 当時は、ラジオが貴重な娯楽だったんでしょうね。
「笠置シヅ子や東海林太郎なんかが大ヒットしてね。みんながラジオを欲しがっていた。素人が自分で組んだラジオを農家に持って行くと、米一俵とか、野菜の山などと交換できたんだ。ラジオ製作雑誌も次々と創刊されていたな」
このラジオ製作ブームは、大手メーカーが壊滅状態から立ち直り、高品質で低価格のラジオを発売する1950年ごろまで続く。
「日本は、電波やエレクトロニクスの技術力の弱さで戦争に負けたのだと、父はよく言っていた。そんな気持ちもあって、露店街の中でも電気部品やラジオの店を重視して1カ所に集めたらしいんだ。結果として物資も店も多く集まるようになった。全国から学生やマニア、ラジオ屋などが“電気部品なら、あそこに行けば何でも揃う”と集まってくるようになったんだ」
-- ええ。
「鉱石ラジオを組んで、音が聞えると本当に感動したもんなんだ」
-- そうした感動が、後に活躍する多くのエンジニアや電気・電子分野のオーソリティーたちの原点になっているのでしょうね。“日本初のコンピュータ・FUJIC”の岡崎文次氏もその露店街に通っていたそうですよ。
「最初は、自分が売っているものの価値がよく分からない露店商も多かった。でも、露店商には、元将校、学者、大会社の元役員など、インテリが多かったし、だんだん知識をつけていったんだ。しかし、父は、これからは露店という時代ではなくなるな、とも考えていた。GHQによる露店撤廃令が発せられたのはその矢先だったんだ」
GHQとアメ玉真空管
「ところが、その撤廃令というのが、いきなり“翌年の3月までに撤廃せよ”というものでね。これでは、焼け野原から露店で食ってきた人たちが失業してしまう。そこで、単身、 GHQのマッカーサーに直談判に行ったんだよ」
-- なるぼど。
「日本の礼装である羽織袴を身に付け、さらしを巻いてね。交渉がうまくいかなかったら切腹するつもりで、一尺のドスも仕込んでいったんだよ」
-- 交渉は成立したのでしょうか?
「毎日、門前払いだったそうだ。でも、あんまりしつこく行くもんだから、フィリップ中佐という人が見て“あいつは誰だ、連れてこい”、となった」
-- どのように交渉されたのでしょう?
「GHQに全面的に協力すると言ったんだ。露店を街から一掃する。露店街をしきる親分衆にも気に入られているから説得できるとね。だから、場所を追われた露店商の人たちが集まれる、屋根付きの代替地を用意してくれと。そして露店の人たちの移転費用を政府から借りられるようにしてくれと要求した。父は、中央大学の法科にいて政治を学んでいたし、弁論部の主将もしていたからその辺はうまかったんだ。フィリップ中佐は話を聞いて、あっさり全部OKだと言う。それで、移転用にいくら貸し付ければいいかと聞いてきたそうだ」
-- なるぼど。
「父は、少しふっかけてやろうと、3000万円、と言ったんだ。そうしたら、それっぽっちなら出せると言う。父があとで、億単位の額を言っとくんだったと悔やんでいたよ。結局、移転先は秋葉原になったんだが、費用には3000万円以上かかって、父が借金に奔走していたのを覚えているよ」
秋葉原電気街の成立
-- 代替地を秋葉原にしようと言ったのは、フィリップ中佐ですか?
「いや、当時の安井都知事や、秋葉原の駅前露店街をしきっていた野村誠一さん(現・ラジオ会館副社長)と話をして、父が決めたんだ。野村と父は、ともに両親を幼いころに失い、上京した後は露店で生活費を稼ぐなど、境遇もポリシーもよく似ていたんだ」
-- それまでの秋葉原は、どんな状況だったのでしょう?
「ラジオや電気関連の問屋がポツポツとあったんだ。広瀬無線(現・ヒロセムセン)、山際電気商会(現・ヤマギワ)、高岡商会(現・クラリオン)とかね。それと、“人入れ稼業”という、いわゆる就職斡旋業社が多かったんだ」
-- そこに、露店だった電気店がやってきたというわけですね。
「それで、電気店の繁盛ぶりを見て、もともと問屋だった店も後になって小売りを始めるようになった。問屋として仕入れたものを売るわけだから激安で売れるわけだよ。小さな店も負けずにメーカーから直に仕入れて来たりして、安く売るようになった」
-- それが現在の秋葉原までつながってくるわけですね。
「競争が激しいから潰れる小売りも出てね。そういう店の商品なんかは、バッタ屋が回収して、格安で売ったりするようにもなった」
-- 最初に露店が秋葉原に移ったのはいつですか?
「1949年10月のラジオストアだね。父の右腕だった森田雅雄さんなどが秋葉原駅西口のガード下に作ったんだ。父は1950年にそのとなりのガード下にラジオガァデンを、秋葉原西口から少しのところに東京ラジオデパートを作り、多くの露店商を移転させた。そして総武線ガード下にラジオセンターを作ったのが1951年だ。その名前は、秋葉原をラジオの中心地にしようという願いをこめたものなんだよ。秋葉原ラジオ会館のほうは、野村誠一さんが父の協力を得て、1953年に建設したんだ」
-- ラジオセンター、ラジオストア、ラジオ会館がそろったわけですね。
「露店をひとつの建物に集めて、デパート式にしたらどうだろうという案はもともとあったんだ。でも、小さい品物をデパート式で売ったら万引きが多くて困るだろうと言われていた。だけど、万引きできるような手にとりやすいところにものをおかなきゃだめなんだよ。それが商売の原則なんだ。そういうノウハウをすべて集めたのがラジオセンターだったんだ。ここにくれば、アメ玉(アメリカ軍放出の真空管)から、コイルから、シャーシから、すべてが揃う。仕入れるときは大量だからタダ同然に安いのに、店では真空管が、1本1000円とか2000円で売れたりした。だから、一坪足らずの店で、マンションを建てたり、金の時計をしたりする人もいたし、電気店の数もどんどん集まってきたんだ」
秋葉原駅前の電気街の繁栄の要因には、当時のラジオ人気もあるが、広瀬無線などの問屋に仕入れにきた業者が商売相手になったこともあるようだ。また、芝や上野などに戦前からあった電気問屋の秋葉原進出も忘れることはできない。結果として、秋葉原へ進出した志村無線、朝日無線(現ラオックス)などは今も残り、進出しなかった問屋の多くはその後、姿を消すこととなる。
-- ジャンク屋というのはそのころからあったわけですか?
「1950~51年くらいからかな。ジャンク品から部品を取って商売してたんだが、たまたまジャンク製品自体を置いたら、詳しいアマチュアが飛びついたんだ。アメリカの放出品などには、飛行機用の部品など最先端のものが多く含まれていたからね」
アメリカ軍の横流し品が、当時のジャンク製品の大きな部分を占めていた。アメリカ兵の中には、軍の倉庫から真空管の箱を丸ごと盗み出し、証拠隠滅のために倉庫に火をかけるものもいたという。
政治家の夢と秋葉原
「父は、元総理大臣の三木武夫さんや、海部俊樹さんとも親交が深かったんだよ。三木武夫さんは移転当時は運輸大臣でね、秋葉原の国鉄用地を借りるときにもいろいろ協力してくれたんだ。明治大学弁論部にいた三木さんと父は古くからのつきいあいで、ともに協同主義に惚れこんでいた。選挙の折には三木さんの応援演説、代理演説なんかもよくやった。本当は自分も政治家になって、天下国家を論じたかった。それはもう学生時代からの悲願だった。ただ、父は人の世話ばかりやいていて、3度立候補したが、ついに政治家にはなれなかったんだ」
-- 協同主義というのは?
「近代的な組合組織による中産階級の育成を目指していてね。ひとつの果実をみんなで分け合おうというものなんだ」
-- その協同主義の考え方が秋葉原電気露店街にも生きていたんですね。
「あれは父なりの協同主義の実践だったと思うよ。それから、父は、友達を宝にした人だったんだ。とにかく人を信じ切れというのが信念だった」
しかし、その長蔵氏は、1953年、膵臓癌で倒れる。65歳だった。
「駅を秋葉原デパートにつなげたいというのが、父の最後の計画だった。でも、役所の人間も様変わりしていて、影響力をもてなかった。父は最後まで秋葉原に思いをはせて死んだんだ」
1960年ごろになると、テレビ、冷蔵庫、洗濯機を中心とする家電ブームが起こり、一般客が秋葉原を訪れるようになる。秋葉原は、急速に発展することになるが、一方で多くの一般小売り店が消えた時期でもある。
「現在の秋葉原をリードしている人々の中にも、露店商で学び、育った人間が多いんだよ」
JR秋葉原駅の「電気街口」という標識にしたがって、改札を出るとすぐ目の前がラジオ会館である。駅に続いた右側にラジオセンターやラジオストアがある。日曜日には、駅前で、ミニスカート姿のキャンペーンガールが売り出し中の家電製品のビラを手渡していたりする。中央通りは歩行者天国になり、いま買ったばかりの段ボールや紙袋をぶらさげた人たちでにぎわっている。
ここ数年、家電、AV機器の不振もささやかれているが、パソコンや電子部品など成長ざかりのジャンルも多い。マイコン関係のショップができはじめたのは、1970年代の中頃からのことである。1976年には、ラジオ会館にBit・INNがオープンするなど、それまで、むしろ新宿や渋谷にあったマイコンショップも秋葉原が中心となった。現在では、パソコンショップと名前を変え、秋葉原の地図を塗り変えるほどの広がりを見せているのは、ご存じのとおりだ。
アメ玉真空管から、テレビや白モノと呼ばれる電気洗濯機や電気冷蔵庫などの家電ブーム、オーディオブーム、パーソナルOA、そして、最新のマイクロプロセッサやファミコンブームまで、秋葉原は時代とともに変化してきた。
このきわめて個性的な街の秘密が、今回の山本博義氏のインタビューを終えて、少し分かったような気がする。現在も大手家電店から小さなパーツショップまでが、さまざまな形でこの秋葉原を盛り立てている。そして千代田区では、21世紀に向けて、秋葉原第2開発プロジェクトが動いているという。それは、現在の秋葉原の良さを生かしつつ、交通の便や街の構造を大改造しようという計画である。電気露店の大移転から40数年。今後も秋葉原からは目が離せなそうである。
※本記事は、山本博義氏が亡くなられているため山本電機株式会社の山本博之氏に確認のうえ掲載させていただいた。また、『月刊アスキー』掲載時の写真の一部が割愛されている。※インタビューは『月刊アスキー』200号記念連載の第7回として掲載したものだが、単行本化(『計算機屋かく戦えり』)の際には収録しなかったものだ(コンピューター関連のものを中心に収録したため)。
山本博義氏にインタビューした1993年は25年も前のことなので、前提としている「秋葉原電気街」が、現在とは少し違うと思う。コミックとらのあなの創業が1996年だからだ。ちょうどDOSパラなどができてアキバに通う気分が大きく変化しはじめた頃だが、むしろ、いまのほうが活気があるかもしれない。
自作パーツでもゲームでも同人誌でも商品を買って帰れる。誰も予想していなかった電子工作の復活。ジャンク店、あきばお~や上海問屋などアジアの品々を売る店、DMM.makeや心の底はかなりマニアなヨドバシが秋葉原に出来たのも偶然ではない。テクノロジー関連の同人誌即売会の技術書典もアキハバラの名物になりつつある。アキバのビルの2階以上にはニッチなテーマのお店も増えている。
こうしたいまアキバを楽しくしてくれているお店たちは、戦後の闇市でみんなが娯楽を渇望していて、アメ玉真空管でラジオをくみ上げた遺伝子の正当な継承者なのだと思う。
それぞれの時代とともに主役となる商品は入れ替わってきたが、そのアナーキーで人間の本性に触れるようとするところはあまり変わっていないのは不思議としか言いようがない。
なお、インタビュー中で秋葉原のもとになった露店街で真空管やラジオを最初に売りだした山菊ポータブルは、7年ほど前に閉店している。
遠藤諭(えんどうさとし)
株式会社角川アスキー総合研究所 主席研究員。月刊アスキー編集長などを経て、2013年より現職。雑誌編集のかたわらミリオンセラーとなった『マーフィーの法則』など書籍の企画も手掛ける。角川アスキー総研では、スマートフォンとネットの時代の人々のライフスタイルに関して、調査・コンサルティングを行っている。著書に、『近代プログラマの夕』(ホーテンス・S・エンドウ名義、アスキー)、『計算機屋かく戦えり』など。今年1月、Kickstarterのプロジェクトで195%を達成して成功させた。
Twitter:@hortense667Mastodon:https://mstdn.jp/@hortense667
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