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『新装版 計算機屋かく戦えり【電子版特別収録付き】』刊行記念 第1回

FUJIC/日本最初のコンピュータを一人で創り上げた男──岡崎文次

2016年08月23日 09時00分更新

文● 遠藤諭(角川アスキー総合研究所)

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FUJICの高い完成度

 岡崎氏は、数少ない海外の雑誌記事や論文を集め、独自に研究を重ねた。当然、ENIACの仕様も耳に入っていたはずだ。そのあたりはどのていど参考にしたのだろう。

 岡崎氏の語るFUJICの仕様を、当時の世界の最先端コンピュータと比較しながら検証していってみたい。

――やはり、ENIACなんかをモデルマシンにしたわけですか?

「いや、特にモデルにしたマシンはありませんね。ENIACのように大量の真空管を使うのでは、会社で活用するのは大変です」

 確かにそうかもしれない。ENIACは、豊富な物量を駆使して生まれたマシンである。真空管の数が膨大だから、消費電力はなんと200キロワットもあった。いまのパソコンの消費電力は数十ワットだから、当時の技術力を考え合わせれば、いかにENIACが保守に手間がかかりすぎる実用に不向きな巨大なシステムだったかがわかる。

――真空管についてはどんな考えをお持ちだったのですか?

「あのころの真空管の寿命は3000~4000時間で、実に頻繁に切れました。真空管が1本でも切れると、どれが切れたかすぐに調べて交換しなくちゃいけません。真空管の本数が多ければ、マシンはそれだけ頻繁にダウンするわけで、コストも交換時間もかかる。だから、私は極力真空管が少なくてすむようにしました。それが1番の工夫点です。完成したFUJICの真空管は1700本でしたが、それでも1日に2~3本は真空管を交換していました」

 ENIACの場合、真空管を1万7468本使用している。それに対してFUJICは1700本と、1桁少ない。あまりの少なさに耳を疑いたくなるほどである。1ビットを表現するのに真空管が2本必要だとすると1語の表現には何本の真空管を使ったのか、完成品のメモリは何語で計算機能はどれほどのレベルだったのかなどと、疑問がわきあがってくる。コンピュータは真空管だけでできているわけではないのだが、ひょっとしたらFUJICは自動的に動く電卓のようなものだったのでないのかと思ってしまうほどの少なさ……しかし、岡崎氏の話を聞いていくと、そうした疑問や想像はことごとくかき消されていった。

――ENIACはパッチボードでプログラムしていましたが……。

「FUJICは、ストアドプログラムで動作します。入力はカードリーダ、出力は電動タイプライターで行ないます。操作はカードを読ませたり、ボタンを押したりするだけだったんで、誰でも扱えました」

 ストアドプログラム方式は、現在のほとんどのコンピュータが採用している考え方で、プログラム内蔵方式ともいう。プログラム内蔵方式ではなかったENIACは、問題が変わるごとにプラグケーブルやダイヤルをセットし直さなければならなかった。最初のプログラム内蔵方式のコンピュータは、四九年五月に動いたイギリスの「EDSAC」であった。

 驚くのは基本的な動作方式だけではない。入出力装置に関しては、話を聞くまでは入力にパッチボードや特別なスイッチを使い、出力をランプの表示で行なっていたのではないか、実験装置のような試作機だったのではないかと想像していたのだが、それも違った。FUJICは自動的に動く電卓どころか、実験機や試作機のレベルを軽々と超えた完成度の高いマシンだったのである。FUJICのカードリーダ入力、電動タイプライター出力という構成は、基本的なメカニズムからいえば1970年代の汎用機とほとんど変わらない。すべてが手作りのFUJICと後年の汎用機とは外見はまるで違うが、現在のコンピュータの原型をすでに整えていたのである。

――開発を進めていくうちには、壁にぶつかったこともあるでしょうね。とくに苦労した部分というのは?

「いや、別になかったですよ。基本的にコンピュータは電気じかけの自動ソロバンなわけです。だから、まずはソロバンの珠に相当するフリップフロップを作るのです。それができたら、その珠をはじく論理回路を作ってやればいい。ほかの人が想像するほど、難しいことではなかったと思います」

 岡崎氏はこともなげに語ったが、この点は、あとになって岡崎氏が1974年に書いた論文『わが国初めての電子計算機FUJIC』(「情報処理」1974年8月号)をめくってみると、少し違っていた。この中で岡崎氏は「フリップフロップの開発には時間がかかった」と回想している。

 フリップフロップはビットのデータを保持する回路で、コンピュータの論理回路を作るうえでは最も基本となる回路である。いまでこそフリップフロップはICを買ってくるだけですんでしまうが、当時は確実に稼働するものを製作するだけでもかなりの時間がかかったのだ。素材として使う真空管は品質が悪く、カタログ特性値などあてにはできない。安定した性能のフリップフロップを製作するため、岡崎氏は真空管の特性曲線をブラウン管に出力できる装置からまず開発しなければならなかった。

 ソロバン珠にあたるフリップフロップができると、岡崎氏は論理回路の研究に着手した。

 まず、二極管や三極管を組み合わせて、二進四桁の加減乗除を行なう計算機のモデルを試作した。具体的には、被演算数用に2つ、結果用に1つの計3つのレジスタを用意。各々のレジスタは4個のフリップフロップからなっていた。また、制御用にも数個のフリップフロップが使用されている。クロックは、手動キーで1パルスずつ出すもの、交流電源をもとにした25ヘルツのもの、発信機で作った約30キロヘルツのものの3種類を用意した。

 すべてのフリップフロップの表示ランプを1ヵ所に集め、クロック数も含めた全体の動作がひと目でわかるようにしたのは岡崎氏の工夫のひとつだった。これは会社の重役や見学者へのデモンストレーションにとても役立ったらしい。

――真空管の数がそれだけだとするとメモリは真空管というわけにはいきませんね。

「先ほどもいったように、真空管は信頼性が低いわけです。当時、高速なブラウン管メモリを使うという手もありましたけど、これはもっと不安定。そこで水銀を使った超音波ディレーラインを使いました。音は水銀の中を1000分の1秒で約1.5メートル進みます。そこで、たとえば100万分の1秒の間に何回か音を出したり止めたりすると水銀中に音のあるなしで模様が描けるんです。その、音の“ある”“なし”が、2進数の0と1に対応する。音波が水銀タンクの端まで行くと、すぐさま同じ音波を送り出す。すると、同じ模様が再び描かれる。この繰り返しによって模様は描き続けられる、つまりデータが保持されるというわけです。記憶できる容量は、1語33ビット扱いで255語でした」

 水銀を使った超音波ディレーラインは、初期のコンピュータでは比較的よく使われた記憶装置である。もっとも、この超音波ディレーラインという装置は、物理的に扱いにくい水銀をパイプの中にみたし、それに高精度の電気的機械的処理を必要とする。これまた、非常に高度な、とても手作りで完成させるなどとは思いもよらないような装置だといえる。

■注釈

【EDSAC(Electronic Delay Storage Automatic Calculator)】  イギリスのケンブリッジ大学でモーリス・V・ウィルクスが開発した世界最初のプログラム内蔵方式コンピュータ。1949年5月6日に最初の自動計算が行なわれた。

【フリップフロップ】  一ビットのデータを記憶する電子回路。つまり、「オン」と「オフ」、「0」と「1」の2つの状態をとりうる回路。外部から1ビットの信号を与えることで2つの状態を切り替えることができる。このフリップフロップを組み合わせることで、2進法の数値を回路上に記憶したり、読み出したりできるだけでなく、2進法の加減算を行なうこともできる。

【クロック(clock)】  コンピュータを動作させる同期信号。クロックサイクルとはその周波数のことで、この値が大きいほど処理能力は高い。最近のRISCプロセッサでは、数百メガヘルツのものまで登場している。

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