1993年5月号~1995年6月号の『月刊アスキー』誌上で「スペシャルインタビュー」(通巻200号をひかえた最高部数更新中キャンペーン)を掲載した。日本のコンピューターを作りあげたパイオニアたちへのインタビューで、1996年10月に単行本『計算機屋かく戦えり』として刊行させてもらった。
今回、2005年に元シャープの佐々木正さんのインタビューを加えて刊行した『新装版 計算機屋かく戦えり』の電子書籍版を刊行するにあたり、26人のインタビューのうち次の4人のお話を掲載する。
- 「FUJIC/日本最初のコンピュータを一人で創り上げた男……岡崎文次」
- 「パラメトロン/日本独自のコンピュータ素子を生んだ男……後藤英一」
- 「FACOM100/国産コンピュータを世界にアピールした池田敏雄……山本卓眞」
- 「指揮装置/戦時下で開発された機械式アナログ計算機……更田正彦」
なお、電子版『新装版 計算機屋かく戦えり』では、「微分解析機再生プロジェクトをめぐって……和田英一氏に聞く」と題した特別収録が追加されている。これは、2014年に、東京理科大学近代科学資料館で稼働した70年前のアナログ式コンピューターの復活のストーリーだ。それでは、特別記事の第1回をお届けする。
日本最初のコンピュータを一人で創り上げた男……岡崎文次
おかざき・ぶんじ
一九一四~一九九八年 愛知県名古屋市生まれ。三九年に東京帝国大学理学部物理学科卒業、直ちに富士写真フイルム入社。レンズ設計課長時代にコンピュータ開発をはじめ、五六年三月には日本最初のコンピュータといえる「FUJIC」をほぼ独力で完成させる。その後、日本電気に移ってソフトウエア開発に従事。七二年日本電気定年退職。以後、専修大学経営学部教授として教鞭をとり八五年退職。
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新装版 計算機屋かく戦えり【電子版特別収録付き】遠藤 諭(著)KADOKAWA / アスキー・メディアワークス
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最初のコンピュータ
終戦間もない1946年(昭和21年)、「ニューズウィーク」2月18日号に、ひとつの記事が掲載された。モークリーとエッカートによる世界最初の汎用コンピュータ「ENIAC」の完成を伝える記事である。
ENIACは、第二次世界大戦中、アメリカ陸軍の要請により軍事利用を目的に開発された。1万7468本の真空管、17万の抵抗、1万のコンデンサ、数千のスイッチ、数百のダイヤルから構成され、ハンダ付けの個所は50万を超えていた……と資料は語るが、この巨大な機械の全貌を、数字の羅列だけから実感するのは難しい。
ENIACはとにかく大きかったのである。
それは、かつて人類がこれほど複雑な機械を作ったことはなかったと形容されるほどの怪物だった。そして、そのこと自体がENIACの宣伝文句にもなっていたのだという。
総重量は30トン、139平方メートルの部屋をU字型に占拠していた。当然ながら開発は難航をきわめ、開発開始は第二次世界大戦中の1943年6月だったが、動き出したのは戦争が終わった1945年暮れで、翌1946年2月に公開デモンストレーションが行なわれた。
そのデモの模様をニュースで伝えたのが2月18日号の「ニューズウィーク」だったのである。
「ニューズウィーク」の記事を受けるようにして、日本でもいくつかのコンピュータ開発計画が動き出す。大阪大学の城研究室、東芝と東京大学のTACプロジェクトなどがそれで、特にTACプロジェクトは、1011万円という当時としては巨額の予算を与えられた国家プロジェクトであり、開発顧問に当代有数の学者たちの名を連ねてスタートした。大学を中心にした動きばかりではない。逓信省電気通信研究所のパラメトロンコンピュータ、商工省工業技術庁電気試験所のリレー式、およびトランジスタコンピュータなどもスタートしていた。
そんな状況下、“日本最初のコンピュータ”となる栄誉を得たのは「FUJIC」というマシンだった。FUJICは1956年に動き出すが、作り上げたのはそうそうたるメンバーがそろった大学の研究室や公の研究機関ではない。開発者は富士写真フイルムという一般企業で働く一人のエンジニアで、彼がほとんど独力でコツコツと作ったのだった。アメリカの大がかりで華々しいコンピュータ開発とは正反対に、日本のコンピュータ時代は、こんなに意外なできごとで幕を開けたのである。
日本最初のコンピュータFUJICを設計・製作したのが、岡崎文次という人物である。
FUJICが開発された1956年は、戦後日本にとっても記念すべき年だったようだ。少し第二次世界大戦後の日本の状況を振り返っておこう。
敗戦直後の日本の電子技術は、先進国から10年以上遅れていたといわれている。そんな日本の電子技術も、FUJICが完成する50年代の中盤にはラジオや電子部品の輸出を足がかりに独り立ちしはじめていた。その証拠に、FUJIC開発と同じ年の7月に発行された経済企画庁の経済白書は、日本経済の状況を“もはや戦後ではない”と表現している。疲弊した日本経済は1950年の朝鮮戦争の特需景気を境に回復、戦前の水準を上回るほどになっていたのだ。白書は、日本経済は復興の段階を過ぎ、成長の原動力を技術革新に求める段階に入ったと述べており、“もはや戦後ではない”“技術革新”の言葉は流行語となって日本国中を駆けめぐった。
とはいえ、同じ電子技術でもラジオ、テレビなどのアナログ回路と異なり、デジタル回路からなるコンピュータはまだまだ研究途上にあった。実際、FUJICの開発期間中の1950年前後は、世界を見渡してもまだ数台のコンピュータしか稼働していない。その数台のコンピュータは電子技術が進んでいた欧米の大学や研究機関が、アメリカのプリンストン高等研究所の公開した具体的な技術資料をもとに試作したコンピュータだった。コンピュータ先進国の欧米でさえも歩き出したばかりの状況であったのだから、当時の日本の研究・開発環境はかなり貧弱なものだったと思われる。
そんな時代に独自開発で動き出したのがFUJICだった。
さて、このFUJICだが、日本のコンピュータの歴史においてどんな位置づけにあるのかを調べてみることにした。と、すぐに不思議な位置づけにあることがわかった。日本初の栄誉とともにコンピュータ史上に燦然と輝いていておかしくはないし、少なくともコンピュータに関わる人たちの間では周知の機械となっていて当然なのに、なぜかFUJICは国産コンピュータの初期の状況を伝える文献を見ても前面に出てくることが少ない。歴史の片隅に埋没してしまいそうでさえある。
この不当な歴史的評価は、どんな理由からなのか。それはおそらく、ほぼ同じ時期の開発プロジェクトが国家予算を使った公のものであったのに対して、FUJICが一企業の一部署で細々と作り上げられたものであったからなのだろう。
けれども、ほかのコンピュータがなかなか動かない中で、FUJICが確実に稼働していたのは事実なのである。
もちろん当時は、それぞれのプロジェクトで各人が自分たちのコンピュータをどう作るかに力を注いでいた。その努力を、どれがゴールにたどり着いて1等賞を獲得したかだけで論じるのは、はなはだ不謹慎な話だともいえるだろう。しかし、そうだとしても、同じ時期の米国の初期のコンピュータがよく知られているのに対して、FUJICはあまりにも知られていないのではないか。
日本最初のコンピュータFUJICは、どんなコンピュータだったのだろう。開発を思いたったきっかけは? 開発体制は? はじめてFUJICが稼働したとき、開発者の岡崎文次氏は何を感じたのだろう……知りたいことは次から次へとわいてくる。
歴史の中に埋もれ、人々の記憶から消え去ってしまいそうなFUJICを「月刊アスキー」誌上に引っ張り出して、いまの最新のコンピュータに触っている人たちの目に触れさせてみたい――岡崎氏を訪ねてお話をうかがいたいと考えたのは、そんな思いからだった。
――どういういきさつで、コンピュータを作ることになったのでしょう? まずそのあたりから教えてください。
「1949年当時、私は富士写真フイルムでカメラレンズの設計課長をしていました。カメラレンズの設計には、複雑な計算が大量に必要となります。何枚ものレンズの中を進んでいく1000本から2000本もの光線を5~6桁の精度で追跡して、収差を求める計算をしなくてはならないんですから、高級レンズになると計算だけで数ヵ月かかったものでした。当時あったアナログ計算機では2~3桁の精度しか望めなかった。必要な三角関数の計算なんか、数十人の人間が数表などで計算していたわけです。その作業の効率アップに、僕は海外で作られていたコンピュータが有効だと思ったのです」
岡崎氏は、FUJIC開発のとりかかりとして、『レンズ設計の自動的方法について』という提案書を会社に提出した。そして会社側からコンピュータの開発が認められる。当座の研究予算として会社に請求したのは約20万円だったという。ENIAC開発成功の約3年後、1949年3月のことだった。
――当時、日本には1台もコンピュータはなかったのでしょうか?
「なかったですね。当時コンピュータは、海外の大学なんかが研究用に独自に開発していたていどだったから。売り物のコンピュータなんてのはなかった。だから、日本には輸入品だって1台もなかった。欲しけりゃ、自分で作るしかなかったんです。ただ当時、国産コンピュータを作ろうという人はけっこういました。パラメトロンを作った東大の後藤英一さんなんかもその一人。でも、メーカーには、積極的に開発しようとするところはなかったと記憶しています。膨大な数の真空管が切れないで働くかが心配だったのでしょう」
――FUJICを作ろうとお考えになった頃は、世界中を見回しても数えるほどのコンピュータしかなかったそうですね。それでも、コンピュータを自分で作ろうと考えたからには、もともと、デジタル回路などにご興味があったのではないでしょうか。
「デジタル回路は、戦前にも、核物理の実験で粒子を数えるカウンタに使われていました。私が見たのは、大学を卒業する前年に、理研の仁科研究室でのことです。放電のようすがチラチラするだけで、電磁式カウンタのような音もなくて、はるかに高速であるのに深い感銘を覚えました。カウントできるなら計算もできそうだと、いろいろ調べてみたこともありました」
――なるほど。
「数学がむずかしいと評判の第八高等学校(旧制・後の名古屋大学教養部)に学んだことも大きかったです。八高の数学はむずかしいというより普通の型にはまっていなかったんです。教科書はそっちのけで、2進法が便利だという話や数はゼロから数えるのがよいといった話を教わりました。だから、FUJICのときも2進法にはまったく抵抗を感じませんでしたね」
コンピュータについては、戦後になっての1948年、「科学朝日」に載ったIBMのSSECというコンピュータの記事を読み、前から可能ではないかと思っていたことが現実になっていることを知ったという。
――FUJICの開発作業はどんな感じで行なわれたのでしょう?
「とにかく予算も人手も大してかけませんでした。計算機について考えたのは、会社での通常の仕事の合間や年末年始などの休暇のとき。部品は神田須田町の露店街で購入してね。経費はたいていの場合、部品の購入費など必要最少額を要求するという感じで。多額の請求で会社がびっくりしないように、極力安くおさえていました」
――経費はどのくらいかかったんですか?
「だいたい半期で数十万円ていどかな。そんなふうにしてほぼ一人で、ほかには計算手の女性の一人に手伝ってもらったりしながら、開発を進めてました」
――社内では、かなり期待が集まっていたのではないですか?
「いやいや、そんなことはなかったですよ(笑)。社内では、ほとんど注目されていませんでした。富士写真フイルムはもともと化学が主体の会社なんで、大量の計算が必要な部署はほかになかったしね。でも、会社側から、いついつまでにこういうマシンを作れと言われて作っていたわけじゃなかったから、気は楽でした。うまく行かなきゃ、性能を落とせばいいと思っていたし」
■注釈
【ENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)】 世界最初の電子式汎用コンピュータ。米陸軍の支援のもと、大砲の弾道計算を目的にペンシルベニア大学ムーア校で開発。1946年2月に正式稼働。「最初のコンピュータはどれか?」という議論は、技術的にどのレベルからをコンピュータと呼ぶか、あるいは残されている資料をどう評価するかによって違ってくる。ENIACを最初のコンピュータと呼ぶには問題も多いが、歴史上その登場がきわめてインパクトの強かったコンピュータであることは間違いない。
【ニューズウィーク】 1946年2月18日号で、ENIACのデモンストレーションを伝えた。記事には、最初に行われた計算は核兵器開発の予備研究のための3つの微分方程式を解く問題で、訓練された計算手でも100年かかるところを2週間、しかも実際に計算に要した時間は2時間だったと書かれている。
【アナログ計算機】 現在一般的にコンピュータと呼んでいるデジタル計算機と異なり、連続した物理量を使って計算処理するコンピュータ。初期には角度や長さを使う計算機もあったが、戦後は電圧を使う電子式アナログコンピュータが主流となる。現在は、デジタルコンピュータに取って代わられている。
【岡崎文次】
FUJIC開発当時の岡崎氏。