カワイイと「萌え」では
視線位置が異なっている
私が、「萌え」という言葉に初めて接したのは、編集長をやっていた『月刊アスキー』に連載された「桃井はるこ新聞」(1998~2001年)においてだった。バックナンバーを引っ張り出してみると、何度か出てくるが、彼女の周辺ではもっと頻繁にふだんから使われていた。
ここ数年のトピックのひとつは、『萌える英単語 ~もえたん~』(三才ブックス刊)のように「萌え」がスタイルとして成立したことだろう。「萌え萌え」→「萌え」となり、「工場萌え」のように一見当たり前でないものにも萌えるというのが楽しい。
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1980年代の後半、日本の女子大生たちは「カワイイ」という言葉を濫用していた。「カワイイ(可愛い)」の意味は時代とともに大きく変化してきたわけだが、ここでは、自分の価値基準を商品などに対してマーキングするために使われた「カワイイ」をいう。
この「カワイイ」は、バブル期をはさんで、そう呼ぶものを異質化させる呪文のような効果をもつほどになり、それが今日の「キモカワ」まで通じている。そのようにして、濫用、記号化、俗化した「カワイイ」に対して、より純化した新基準が「萌え」だった。
ここで重要なのは、「カワイイ」が女子専用の言葉だったのに対して、「萌え」は、男の子も堂々と使うことができる言葉だったことである。
そしてもうひとつ、「萌え」において、それがいかに真摯なものであるかを示すことも起きている。「カワイイ」というときの視線のベクトルは“伏角”(ふかく)なのだ。小さいモノに対して向けられるものだからというのもあるが、メンタルな部分でも視線が降りていっている。それに対して、「萌え」というときのベクトルは、やや上向きな“仰角”になっていると思う。
このことと、「萌え」文化の中で起きている「擬人化」という表現様式とは、無関係ではないように思える。
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ところで、ここに書いているようなことを、先日Twitterでつぶやいていたら、@o_obさん(ConTEXと国際3Dフェア委員の白井暁彦氏)から以下のようなツイートをいただいた。
@hortense667 対象物に対する愛情を「愛してます!」では伝えたことにはならないので、擬人化や萌えになるのですよね。ガラパゴス製品を比較して、萌えられる・擬人化できる特徴をとらえることができるので、アスキーやヨドバシカメラこそが重要な立ち位置ですよね、と委員夜話にて。
そうなのだ、擬人化というときにはその「萌え」のパワーが、モノ作りとピュアにかかわってくる。YouTubeとかアップルとかFacebookとか、いつもそれでキマリという答えはなくて、テクノロジーだけは絶えず前に進んでいく。いま目の前に見えているものを超えたところにモノ作りの本質があるのではないか?
映画における『戦艦ポチョムキン』のような、ネット・ネイティブのメディアのかたちは、あるとき誰かの手の中から、ひょっこりと出てくるはずのものなのである。