動画共有サービス「ニコニコ動画」を生んだ企業といえば、ご存じドワンゴだ。
そのドワンゴは、実は米国企業にルーツを持っている。「いろメロミックス」などの着メロビジネスで大きく伸びたため、日本企業のイメージがある同社だが、当初は「外資系」だったのだ。
今回はその米DWANGOの創始者で、ドワンゴジャパンの共同設立者でもあるロバート・E・ハントレー氏にインタビューする機会を得た。日本のドワンゴはどうやって生まれたのか。そもそも「DWANGO」とは何なのか。ニコニコ動画は世界進出できる可能性はあるのか──。貴重な数々の話を「生みの親」に直接聞いてみた。
DOOMでオンライン対戦の元祖だった
── 「DWANGO」とはどういう意味なんですか?
ハントレー氏:DWANGOは、「Dial-up Wide Area Network Gaming Operation」の略で、オンライン通信対戦システムの名前なんだよ。
1994年、1995年頃、米国ではFPSの「DOOM」が大流行していたんだ。このDOOMをオンラインで対戦したかったんだけど、当時のインターネットは遅延が酷くて、快適に楽しめなかった。
そこでインタラクティブ・ビジュアル・システムズ(Interactive Visual Systems)という会社を立ち上げて、電話回線を使って直接ゲームサーバーにつないでDOOMを対戦できるDWANGOを作ったんだ。DOOMは素晴らしいゲームだったので、DWANGOも一気に普及して知名度も上がったね。
── DWANGOの立ち上げ時はどういった雰囲気だったんですか?
ハントレー氏:1994年のクリスマスイブに、DOOMを作っているイド・ソフトウェア(id Software)のジョン・カーマックから、ドワンゴのクライアントを組み込んでソフトを出したいという要望が来たんだよね。その電話のやり取りで「準備はできているか?」と言われたんだ。
その翌月の1995年1月、ソフトがリリースされてからわずか1ヵ月で1万5000人がDWANGOのサーバーに接続していた。当時、サーバーはヒューストンにあったんだけど、欧州からのアクセスもあったよ。ジョンは伸びるのが分かっていたから、「準備はできているか?」と言ったんだね。
── 当時、どういったところに苦労しましたか?
ハントレー氏:イド・ソフトウェアが技術的な情報をあまりくれなかったので、自分たちでパケットを解析して、どういった風に通信しているかを調べてから、対戦相手となる他のクライアントに必要な情報を伝えるという仕組みを作ったんだ。
当時はかなり士気が高かったよ。一番最初の頃は、DWANGOのことを誰も知らなかった。だから「とりあえずやってみて」と振られた仕事だったけど、きっちりこなして、そしてちゃんと動作した。
── そのあとはどんな展開をされていったんですか?
ハントレー氏:そのあとはWindows 95が出てきたときにマイクロソフトと業務提携したんだ。そして、みんなをWindows 95に乗り換えさせるために、DOOMのプレーヤーを対戦させる「Deathmatch '95」というイベントをやった。ユーザーを100人呼んで4人ごとに戦っていき、最後に一番強かった2人をステージ上で対戦させたんだ。
あとは1997年、マクロソフトのオンラインゲーム対戦サイト「Internet Gaming Zone」に遅延の少ないサービスとしてDWANGOを提供した。そんな中でドワンゴジャパンも立ち上げたんだ。