ハイパフォーマンスPCの代表的なブランドとなった「GALLERIA(ガレリア)」を生み出したパソコンメーカーのサードウェーブ。PCショップ「ドスパラ」は秋葉原をはじめとして全国で展開。eスポーツの支援なども続けてきた。
そんなサードウェーブはこれまでどのように発展し、AIをはじめとしたPC業界の将来についてどんな展望を持っているのか?DOS/Vパソコンの黎明期にPCパーツの販売という新しい業界に飛び込み、その後のパソコンの普及・進化を見てきたサードウェーブの新社長・永井正樹氏にお話を伺う。聞き手はASCIIブランド総編集長の小林 久。
パソコン少年から役員へ。パソコン黎明期の経験が次へと繋がっていく
小林:本日はよろしくお願いします。まずは永井さんがパソコンとどのように出会い、なぜコンピューター業界に入られたのかについて教えてください。
永井:私がコンピューターと出会ったのは小学校に通っていた頃ですね。友人の家に遊びに行ったら、そこにたまたま「MZ-1500」というパソコンがあって「デゼニランド」というゲームを遊びました。その時に「パソコンって面白いな」と強くひかれたのが始まりです。
小林:デゼニランド! ハドソンのアドベンチャーゲームですね。
永井:はい。その後、しばらくして我が家にもパソコンがやってきました。それが「MSX」だったのですが、パソコン雑誌を見ながらプログラムを打ち込んで、それを改造したり、ドット絵を描いたり、音楽を作ったりと、どんどんパソコンの世界にのめり込んでいくことになりました。
小林:パソコン少年だったのですね。実は私もMSXを使っていました。ただ、当時は任天堂の「ファミリーコンピュータ」の全盛期。ゲームと言えば、ファミコンで遊ぶのが一般的でした。周りはみんなファミコンばかりで、ソフトの貸し借りもしにくかったですね。私の場合、結局「なければ作るしかない」と思って、自作のゲームで遊んだりしましたが、永井さんもそれに近いイメージですか?
永井:そうですね。ゲームはファミコンではなくパソコンで遊んでいましたね。高校は工業系の電子科に進学し、大手メーカーに就職。システムエンジニアとして3年ほど勤めました。
小林:システムエンジニア時代はどのようなお仕事をされていたのでしょうか?
永井:当時はメインフレームなども多く稼働しており、大型のコンピューターで動くソフトの開発が中心でした。そんな中で自分の力を早く試して評価されたいと思っていたのですが、大企業では用意されたレールを順番に歩まないと、次のステップに進めないことも実感し、そこにもどかしさを感じました。「このままずっとこの会社にいる自分の姿」と想像し、これでいいのだろうかと悩んだこともあります。結局、もっといろいろ挑戦したい気持ちが強くなり、転職を決意しました。
小林:多くの選択肢がある中で、なぜサードウェーブを選ばれたのでしょうか?
永井:ちょうどその頃、就職情報誌で「秋葉原のパソコンショップでスタッフ募集」という記事を見つけ、「コンピューターに関われる仕事だし、一度受けてみようかな」と思って面接に行ったのがきっかけです。そこで採用されて、働き始めました。現在は全国に展開している「DOS/Vパラダイス」(現ドスパラ)も、当時はまだ秋葉原に1店舗しかなく、ビルの7階に1号店がありました。本当に偶然の巡り合わせですが、今思えば運命だったのかもしれません。
小林:ついに「パソコン少年」が秋葉原の地に立った。最初はパーツショップの店員をされていたのですか?
永井:はい、パーツ販売のスタッフとして店頭に立っていました。
小林:入社してどんなことを感じましたか?
永井:最初はとにかくわからないことだらけでしたね。当時はBIOSという言葉さえ知りませんでした。ソフトの知識はありましたが、マザーボードやビデオカードといったパーツは未知の世界で。「なんだこれは」と思いながら必死に覚えました。当時はまだDOSの時代でしたし、ソフトもハードも混在する中で勉強の日々でした。
小林:いまではわからない人が多いと思いますが、店名の「ドスパラ」もDOS/Vパソコンが由来ですからね。
永井:そうです。入社したのは1993年で、DOS/Vが動くアメリカのパソコンも上陸して日本でも流行り始めた頃でしたね。弊社の創業者は前職が商社マンだったのですが、その経験を活かして、アメリカのパソコンを輸入し始めました。それがドスパラの始まりです。日本ではまだ珍しかった自作パーツのことを知り、「これは需要がある」と考えてスタートしたのが「DOS/Vパラダイス」なんです。
小林:当時のパソコンは非常に高価でしたが、自作すればこれが安く手に入る。そんな理由でPC自作に注目が集まり始めた時期でしたね。
1990年代の秋葉原は刺激に溢れていた
小林:当時の秋葉原のパーツショップは、正直ちょっと入りづらい雰囲気もあったと思いますが。どんなお客様が買いに来ていたのですか?
永井:確かにそうでしたね。実際、お店にいらっしゃる方も専門的な知識を持っている方ばかりでした。非常に詳しい方が多く、逆にこちらが教わることもたくさんありました。
入社して1年ほどで店長になり、その後本社で購買部門を担当しました。2年目で課長、3年目で部長を任されました。少人数だったので色々チャンスを与えてもらえました。
小林:いま秋葉原で売っているパーツのほとんどは中国や台湾のメーカーのものですが、当時はどうでしたか?
永井:当時は台湾製のパーツというものはほとんどなく、マザーボードやCPUなど、ほとんどのパーツがアメリカの製品でしたね。メモリーなど一部の半導体は日本のものもあったかなぁ。(記事には書けないようなことも含めて)当時の秋葉原は本当に刺激的な場所でした。
小林:そして、会社の経営に携わる立場になられたわけですね。
永井:1999年に役員になり、それ以降はずっと役員です。購買のあとは製品企画や人事など、会社に必要とされる、ありとあらゆる業務に携わりましたね。






