自然と生きて、香りを紡ぐ。ホテル女将の経験が導いたフレグランスデザイナーとしての道

文●杉山幸恵

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 愛知県名古屋市で日本産の植物から丁寧にエッセンシャルオイルを蒸留し、調香するフレグランスブランド「Haya」を手がける「Studio N」。その代表である中村紋佳さんは、証券会社勤務からはじまり、製造業である家業への従事、ホテルの女将という経験を経て、現在はフレグランスデザイナーとして活躍。一見バラバラにも見えるキャリアの変遷だが、そのすべてが「今の仕事に通じている」という、彼女のライフシフトの軌跡をたどる。

「Haya」のフレグランスデザイナーである中村紋佳さん

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長野に移住したことで知った〝おもてなし〟の真髄と、自然に触れることの素晴らしさ

 1989年に出身地である愛知県名古屋市の大学を卒業した中村さんは、地元にある大手証券会社の支社に就職。顧客のニーズに応じて、株式の売買やさまざまな金融商品の提案・販売を行う業務に携わることに。市場の仕組みや変動要因などを、仕事を通じて学べたことは貴重な経験だったという。

 「株式市場の大きな変動を経験した際に、数字の裏側にある経済の動きや人々の心理を深く意識するようになりました。単なる〝売買の仲介〟ではなく、〝お客様の大切な資産に責任を持つ〟ということに、大きなやりがいを感じると同時に責務を感じることも…」

 上司や先輩からの厳しい指導の甲斐もあり、接客業務において顧客と信頼関係を少しずつ構築していく日々。しかし、その一方で信頼に応えるための責任の重さが、負担に感じることも少なくなかったという。そして、金融の現場で経験を積んでいくことに後ろ髪をひかれつつも、当初からの予定であった家業の製造業に携わるため、退職を決意する。

 新たなステージへと進むことにした中村さんは転職し、1994年に結婚。そしてその15年後、自身が「人生における大きな転機となった」と語る出来事が起こる。夫と子どもと共に縁あって名古屋から長野に移住し、さらにはホテルの女将として接客業に従事することになったのだ。

 「かつて金融の世界でも接客経験はありましたが、ホテルの現場は業界もお客様もまったく異なる世界。まさに未知のフィールドに、一歩踏み出す感覚でした。今、その時のことを振り返ると〝とても大変なお仕事だった〟というひと言に尽きます。お客様はもちろん、共に働くスタッフも多い現場では、〝おもてなし〟の醍醐味を感じると同時に、大きな船を動かしていくようなプレッシャーもありました。

 そんな中で、まずは自分にできることから始めようと決め、私自身が長野で感動したものを、訪れるお客様にも感じていただきたい…そんな思いから、毎日山へ足を運び、摘んできた木の枝や花を館内に飾るようになりました」

 長野に移住したことで中村さんが何より心を打たれたのは、目の前に広がる自然の美しさだった。春の芽吹き、夏の緑、秋の紅葉、冬の雪景色。日々変わりゆく風景の中で、野に咲く花や鳥のさえずり、満天の星、月のない夜の静けさに触れるたび、心が震えるような感動を覚えた。

 その一方で、自然災害にも直面し、人間は自然の中で〝生かされている存在〟なのだと実感するようにもなったという。そんな思いを大切に、館内に里山の恵みを飾り続けた。

 「こうして、自分の手で〝季節を感じる空間〟をつくりだし、植物の香りに触れる日々が、自分自身を癒やし、整える時間にもなっていきました。この体験が今のお仕事へとつながる、大切な原点となったと思います」

 豊かな自然の中で大勢のスタッフと共に〝おもてなし〟をつくりあげる日々。そうした積み重ねの中で気づいたのは、〝自分は決して一人ではない〟ということ。「小さな存在である私も、たくさんの人との出会いやご縁に支えられている。そのありがたさを、心から感じるようになりました」と、女将時代のことを振り返る。

もともと人前に出るのは苦手だったという中村さんだが、「地域とのつながりを大切にし、地元のお祭りやイベントには積極的に参加していました」と語る

〝香りづくりを人生の仕事に〟。家族の力を集めて生まれたフレグランスブランド

 長野での生活で自然と向き合い、植物の力を感じる日々を過ごしていた中村さんにとって、もう一つの転機となったのが、父が取り組んでいた精油の蒸留との出会いだった。小さな蒸留器から立ちのぼる、繊細で奥深い香り。香りのエッセンスを抽出していく様を目の前に、たちまちその光景に心を奪われた。そして、父から蒸留の技術を学ぶことにする。

 「香りの力に魅せられ、精油の美しさと可能性に惹かれたんです。自然の中で気候や土地に寄り添いながら、一滴ずつ丁寧に香りを抽出していく過程は、まさに〝自然と共に生きる〟という実感そのものでした」

水蒸気蒸留法、真空低温蒸留法などで植物の香りをボトルの中に詰め込む

香りのもととなるのは収穫したての植物

 「香りづくりを人生の仕事にしたい」。そう強く思うようになった中村さんはホテルの仕事を離れ、ブランド立ち上げの準備をスタート。父から蒸留を学び、長女と共に商品デザインを練りながら、香りづくりに没頭する日々が続いた。

 こうして2019年、蒸留から調香、そしてパッケージデザインまで、すべてを自らの手で形にした、小さくも思いの詰まったフレグランスブランド「Haya」が誕生した。

 「蒸留の技術を持つ父、そして日本と海外でデザインを学んだ長女の力強いサポートあってのことです。私たち家族それぞれの力を持ち寄りながら、唯一無二のプロダクトをつくりあげていきました。

 ブランド名の『Haya』には、アラビア語で〝人生〟という意味があります。そしてその4文字のアルファベットは、サポートしてくれた家族それぞれの名前からとりました。私たちがつくりだす香りが、〝どこかで誰かの人生にやさしく寄り添いますように〟という思いを込めています」

ユズやヒノキなどの日本産エッセンシャルオイル。ボトルは、それぞれの香りからインスピレーションを得てデザイン

 ブランドの立ち上げにあたっては香りの世界への理解を深めるために、アロマテラピーについても体系的に学習。ますますその奥深さに魅了され、現在も大学の専門機関などで学びを続けている。

 「香りの分野には、本当に多くの素晴らしい専門家がいらっしゃいます。そんな中で、私は私なりの方法で、私にしかできない香りづくりを続けていきたいと思っています」

想いをカタチにするために走り続けた5年間、そしてさらなるステージを見据える今

 「Haya」は、日本の風景の中で育まれた植物を用い、その香りを一滴一滴丁寧に蒸留。抽出から調香、ボトリング、そしてデザインまで、すべての工程を自社で一貫して行い、エッセンシャルオイルやルームフレグランス、お香、木のディフューザーなど、さまざまな香りのプロダクツを展開している。

夏みかんやヒノキなどの香りがそろうルームフレグランス

調香から成型、乾燥までを、一つずつ丹念に手作りするお香

中村さんの父が制作するろくろびきによるディフューザーもラインナップ

 また、農家や企業と連携し、新たな価値を生み出すOEM(受託製造)にも注力。廃材を活用した香りづくりなど、サステナブルな視点からの取り組みも進めている。

 「ブランドを立ち上げてからの5年間は、ひたすら走り続けてきたように思えます。ありがたいことに、多くのご縁に恵まれ、百貨店でのPOPUP出店、行政と連携した体験プログラム、大手航空会社や五つ星ホテルでの採用など、活動の幅が徐々に広がっていきました。さらに、自然の香りを取り入れた暮らしを提案する講座・セミナーの開催にも積極的に取り組んでいるほか、今後は法人化も視野に入れています」

 「Haya」について「事業としてはまだまだ発展途上。これからも一歩一歩、前に進んでいきたい」と語る中村さんだが、ブランド設立からわずか数年で、ここまで行政や大手企業から注目を集めているのはなぜだろうか。

 「『Haya』の香りは日本の森や里山で採取した植物を使用していますが、その香りを通して、その土地の風景や記憶、物語を届けたいという思いを込めています。そんな私たちの香りづくりへの真摯な姿勢に、共感してくださったのではないでしょうか。名古屋市内にある『Haya』のラボには、実際に多くの企業の方がお越しになり、蒸留の工程や植物の香りに触れてくださる中で、お取引へと繋がっていきました」

 現在、「香りで日本を旅する」をテーマに、47都道府県の植物からエッセンシャルオイルを仕立てるプロジェクトも展開中。日本各地の自然の美しさや多様性を、国内外の人に体感してもらいたいという。それらすべての工程を自社で行い、手間も時間も惜しまず、心をこめた製法にこだわる。その丁寧なプロダクトづくりがゆえに苦労する点もあるとか。

 「自然が相手ですので、気候や環境に左右され、時には思うような香りが採れないこともあります。また、大量生産ができないという点で、通販モールなど量を前提とした場にはなかなか馴染まない部分も。それでも、自然と向き合い、耳を澄ませながら丁寧に香りをつくりあげるこの姿勢を、これからも守り続け、一人でも多くの方にその思いをお届けしていきたいと思っています」

 自然の恵みをいただいている。そのためには自然の循環にもしっかり寄り添いたい。そういった考えから蒸留後に残るものも決して無駄にはせず、残液は染めのプロダクト「Somenokoe(そめのこえ)」として活用したり、残渣(ざんさ/蒸留後の残りかす)は土に還したりといった取り組みにも余念がない。

夏ミカンの残液を使用して布を染めあげた「Somenokoe」のストール

 「今でも森へ植物を採取しに行く時間が、私にとって何より幸せなひと時です。そして、蒸留の過程で、精油がきらきらと生まれてくる瞬間には、毎回、心が躍るような喜びが。そうして生まれた精油は、まるで我が子のように愛おしくて…その香りをお客様が手に取ってくださる瞬間もまた、大きな幸せを感じます」

愛知県の豊田市足助の森でヒノキの枝葉を採取。山奥に位置する間伐の森で特別に入らせてもらっているそう

 金融業界から家業の製造業へ、そしてホテルの女将に。さらに長野に移住したことで知った自然に肌で触れることの素晴らしさ。そんな数々のライフシフトを経てフレグランスデザイナーとなり、日々幸せに満ちているという現在の中村さん。最後に現在、人生の転換を図りたいと考えている女性に向けてメッセージをもらった。

 「もし、心のどこかで『このままでいいのかな』と感じているなら、それは、自分の中にある〝本当の願い〟が静かに目を覚まそうとしているサインかもしれません。

 30代、40代、50代と経験を積み、誰かを支えながら歩んできた人には、たくさんの知恵と優しさ、そして目に見えなくても〝確かな力〟があると思っています。私もまったく異なる業種から新しい世界へと飛び込みました。

 不安や迷いはもちろんありましたが、一歩踏み出した先には想像以上の出会いと、心から満たされる時間が待っていました。まずは、小さな〝好き〟をひとつ、大切にしてみてください。きっとそこから少しずつ、自分だけの道が見えてくるはずです。

 望む人生は、いつだって、今この瞬間から始められます。私自身も、まだゴールにはたどり着いていませんが、自分の目指す場所へ向かって歩み続けています。同じように自分の未来を信じて進む仲間が一人でも増えたなら、 その姿はまわりの人を元気づける〝光〟になるのではないでしょうか」

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